自動砲のおはなし 3
この様に日本の艦砲は1936年以降自動化され、日米開戦の頃には搭載される艦砲が自動砲へ置き換え中という状態であった。
もちろん、そこには混乱も生じ、九八式シリーズを連装化する事が計画され、開発が行われていたが、これは終戦まで実現せずに終わる。
そもそも、九八式シリーズは砲塔下に即応弾を配置する円筒弾倉を備えているのだが、連装化した場合、これを1門に1弾倉必要となるので2弾倉配置するする必要があり、更には砲塔内には2門分の砲側弾倉を必要とするので、砲塔内と基部を機械が埋め尽くし、操作要員の入る隙間すらない状態になった。
人員を適切に配置する場合、8センチ砲ですら14センチ砲と変わらないような大型砲塔を用意せねばならず、10センチ砲に至っては砲塔重量が14センチ砲を超えるほどになってしまった。
もちろん、そこまで大型化したので単装砲塔と同じ砲塔旋回速度など求める事は出来ず、内部機構の複雑さによる故障頻度と相まって開発に取り掛かったは良いものの、実用化の目途は立たず、ただ泥沼に嵌るばかりであった。
結局、連装化を前提に計画していた多くの艦艇には単装砲が搭載されていく事になり、大和型3、4番艦においては12.7センチ連装砲に代わって10センチ連装砲を積む計画であったが、空母化に伴って高角砲は単装砲の搭載に留まる事になった。
そして、戦時急造駆逐艦である松型に至っては12.7センチ自動砲が重量面から搭載されず、10センチ単装高角砲2基という、外見から見てあまりに貧弱な装備に甘んじるしかなかった。
もちろん、2門しか備砲が無いと言っても毎分28発を誇る自動砲である。十一年式12センチ砲を装備した場合と比較して劣る物ではなかった。
海防艦の量産に際しては、多くの場合、十一年式12センチ砲を装備する事となったが、8センチ砲の都合が付く場合は2番砲として搭載し、対空兵装強化型として船団護衛に重宝されることとなった。
もっとも難航したのが直衛艦計画だった。
九八式の制式化と時を同じくして始まった防空艦計画は当初は10センチ連装砲を前提として計画が開始されたが、そもそも連装砲塔がいつ完成するか不明、駆逐艦程度の船体に4基8門は重量過大という問題が発覚し、九六式12.7センチ連装砲の搭載を検討したり、10センチ単装砲を8基搭載できないかと検討したりと非常に迷走している。
その間には世界初のガスタービン駆逐艦として完成した島風の船体を用いて防空艦とする計画もあり、こちらは九六式12.7センチ単装砲を5基搭載する計画がすんなり通り、防空専用艦として計画された秋月型とほぼ同時に起工されたほどだった。
島風型船体を用いた旗風が魚雷発射管を減らし、次発装填装置も撤去して5基の搭載を実現する思い切った計画であったことに影響を受け、秋月型でも10センチ単装高角砲5基、次発装填装置を撤去したスペースを利用して8センチ単装高角砲2基という最終案がようやく決まったほどだった。
防空専用艦の迷走は駆逐艦の防空能力向上や新型軽巡洋艦の配備で余剰となった5500トン型軽巡洋艦の防空艦化改装で穴埋めする事態となり、5500トン型軽巡洋艦は14センチ砲を撤去し、10センチ単装高角砲3基、魚雷発射管も撤去して8センチ単装高角砲4基を搭載した例も存在している。
この様に防空艦が迷走したのも10センチ砲や8センチ砲が容易に連装砲塔化出来なかったことにある。
ただ、電波信管の存在や陽炎型以降の駆逐艦は対空能力を考慮していたことで大きな問題となることなく、迷走する防空専用艦計画をよそに、建艦計画は進んでいった。
結局、秋月型が就役を始めたのは1944年になってからで、劣勢の中にあって活躍の場はすでに失われていた。
それでも10センチ高角砲と新型射撃管制装置による効果は大きく、マリアナ、フィリピン、坊ノ岬沖における戦果に繋がっているのは確かである。
特に坊ノ岬沖においては艦隊型駆逐艦の枯渇から、水雷戦隊とは名ばかりで6隻が秋月型であった。
さらに、陽炎型駆逐艦である雪風や浜風もこの頃には損傷に伴う工事などの際に12.7センチ連装砲から10センチ単装高角砲への換装が行われ、防空艦へと生まれ変わっていたほどだ。
そして、大和にも8センチ単装高角砲が増設されており、艦隊の対空能力は非常に高かった。
このため、艦隊に飛来した米軍機のうち114機を撃墜し、200機余りに損害を与えているほどだ。
防空戦闘機が満足に居ない艦隊を襲撃したはずの米艦隊はこの損害に驚愕した程である。
この損害は今でも議論の的になる事があり、わざわざハリネズミのような防空網を備えた艦隊を航空攻撃するくらいならば、多数の戦艦による砲撃戦を行った方が、結果として米側の犠牲は少なかったのではないかとさえ言われるほどだ。
そして日本側についても、もし秋月型を1942年頃から就役させる事が出来ていた場合、米軍により多くの犠牲を強い、日本側は少なくない水上艦や水兵の犠牲を防げたのではないかともいわれている。
しかし、それは結果論でしかない。
より高い能力を求めて連装砲の開発を行っていた事。
開戦後の技術の進歩や戦訓から対空管制装置の能力が向上した事。
そうした経緯があって、秋月型の仕様が纏められ、建造されたのである。1942年に就役させるように設計、開発をした場合、管制装置はより旧式であったであろうし、電探性能も低く、秋月型が示した能力を発揮できていたかは怪しい。
米軍が坊ノ岬沖において戦艦対決をした方が犠牲が少なかったという意見があるのと同じく、それは結果論から見た話でしかない。
なにせ、大和の46センチ砲が米戦艦に命中した場合、最悪1発で米戦艦を轟沈させた可能性がある事を考えれば、砲戦の方が犠牲が少ないなどとは決して断言できないのだから、どちらの論議も結論ありきで行われている印象はぬぐえないだろう。




