一宮飛行機の軌跡 7
一宮は自社が改修を手掛けたF14Jの進空の後、グラマンに対する支援を強化していく。
しかし、このことが思わぬ反発を招くことになった。
ガルフストリームの実質的買収や米海軍向けのF14改修への参画は米航空業界や議会の警戒心を引き上げる結果となった。
そしてやり玉に挙がったのは、あろうことか一宮の関与していない次期戦闘攻撃機計画、いわゆるFSXだった。
米国はこの計画に自国メーカーを関与させるように迫り、計画は大幅に遅延していくことになる。
その傍ら、一宮はグラマンを通して米軍の次世代戦闘機計画を知る。
この計画を知って一番喜んだのは、すでに現役を引退してすべての役職を辞していたはずの忠吉だった。
「俺の時代が来た。俺の考えた最強ラプタンの時代だ」
と、周囲に訳の分からない事を叫び、家族や周囲が止めるのも聞かずに設計部門へと乗り込んでいったという。
そこではすでに80を超えた老人とは思えない動きで米国のATF計画に基づいた新世代機のあるべき姿を力説し、やたら細かい指示を出したという。
そして、エンジン部門には開発中のJ9エンジンの放棄と自身が構想した概案を示し、その開発を強要するという行動に出る。
誰もが認知症を疑い、はじめは相手にしようとはしなかった。
それからに2週間後に機体設計部門に現れた彼は、以前指示した内容を基に大まかな設計を行ったと設計図を示す。
エンジン部門でも相手にしていないと見ると設計図を叩きつけて再度開発を強要している。
機体設計部門に示されたそれは当時の常識では理解しがたいものではあったが、すべての角度を揃えてレーダー反射を局限するという概念を計算で理解した。
さらに、そのエアインテークは第一世代の様な形状で実用に耐えないと評されたが、実際の実験では何の問題もなく機能することが分かった。
それは非常に不思議な事ではあったが、それが一体何なのか、一宮のエンジニアすべてが首を傾げるほど、計算や実験で実用性が証明されていく。
それはエンジンでもそうだった。
実現不能と思われていたことを、忠吉が言うとおりにやると成功した。それが何故かを探るとドンドン謎が膨れるばかりという不可思議な状態だったという。
「だから、これを実現すれば最強ラプタンが出来ると言っている!」
何度も忠吉はそのような意味不明な事を口走っていた。
こうして1990年に完成したのがX2実験機だった。
X2は対外的に広く公表されることなく実験飛行を行う。その姿に驚いたのは米軍だった。
自国が開発しているATF実証機、YF22やYF23と姿かたちが似ていたからである。
当初は電波吸収塗料などが施されずに、純粋に飛行性能試験が行われ、1992年に電波吸収塗装を施した試験が行われた。
結果は驚愕すべきものだったという。
こうしてデータを得たX2をベースに、一宮は戦闘機開発を始める。
この頃、米国では一宮が協力していたグラマンはノースロップと合併して姿を消し、F14事業もノースロップ・グラマンに引き継がれたが、ATF計画を勝ち取れず、落選という結果となっている。
そうした米国での事態と、日本国内でも問題が発生していた。
この頃、難航の末ようやく動き出したFSX計画だったが、冷戦終結で計画がとん挫、放棄されるという事態に至った。
その原因は他でもない。X2だった。
米国で開発中だったステルス戦闘機がすでに日本でも開発可能という状況を見た防衛省がFSXを見限ったのである。
ただ、それはF3の後継機開発を放棄したに等しく、米国が見返りにF16やF18の採用を要求する事態となったが、そこに一宮が出した提案が、X2のデータを用いた小型機の開発だった。
X2はF2同様の大型機で、機体と共に開発されたJ10エンジン双発だった。機体規模は当然、米国のYF22と大差ない。
これをJ10単発として小型化する案だった。
ここにノースロップ・グラマンも飛びついた。開発が破棄された三菱や富士も当然に飛びついた。
そして、この提案はFSX計画として日米企業が協力して開発していくことになる。
ただ、そこに一宮の姿はなく、一宮はただ一人、F14の後継となる次期主力機開発を行っていた。
忠吉は実用機開発にも介入して機首のレーダーだけでなく、側面レーダーや主翼前縁レーダーの開発、更には赤外線センサーによる全周囲監視システムなど、とんでもない無理難題を押し付け、開発を難航させたが、1997年10月2日に実用1号機の初飛行を見て満足したように、その一月後にこの世を去った。
FSX計画の方はFX計画の要求仕様に引っ張られたことで難航したが、こちらも2000年2月10日に何とか初飛行にこぎつけている。
F4と命名された主力戦闘機は2006年には戦力化し、F22に次ぐ第五世代戦闘機となる。
ただ、実は忠吉の注文がほとんど解決されていない状態での採用であり、側面レーダーや前縁レーダーの装備、全周警戒システムは2015年に完成したB型を待たなければならなかった。
F3の後継となるF5は全周警戒システムの完成を待って2015年の戦力化だったが、この機体は米国のJSF計画に当初から問題を突きつけ、2008年には空軍や一部参加国ではJSFからの離脱とF5の採用という大混乱を巻き起こすことになる。
F5は防衛省が対艦ミサイル4発という錯誤な要求を2発のウェポンベイ収納、2発の翼下装備で解決する事を選び、ウェポンベイ容量も機体強度もバカのように高かった。値段も高いが、JSFよりウェポンベイ容量が大きいとして米空軍がF16の代替として採用を決め、トルコやノルウェー、カナダがこちらに乗り換えている。結果、F35Aは計画が空中分解し、F35B、Cに開発を集中するに至り、結果としてさらにA型の取得を目指していた国々がF5に流れて日米間の政治問題にまで発展するに至るが、ノースロップ・グラマンが開発に関与し、米国内に生産拠点を持つのでは、日本に文句を言える状態ではなく、黙る以外になかった。
幸いにも日本がはるな型軽空母の後継となるいずも型軽空母に搭載するためハリアーの後継としてF35Bを導入することを決め、それが落としどころとなった。




