一宮飛行機の軌跡 6
この事件によって日本は大きく変わった。
60年安保に代表される左派の大きなうねりは次第に鳴りを潜め、恒久的な法整備の後、1965年から本格的なPKO参加が始まる。
コンゴでの航空戦の映像の影響から問い合わせがあった練習機についても商談が行われ、1967年には輸出が実現している。
こうした追い風の中で一宮は超音速機の開発を進めており、1966年5月に初の超音速飛行を成功させ、その機体をベースとするF2戦闘機が1970年に採用されることとなった。
F2はJR2から発展した軸流式エンジンを装備している。
当初は大型エンジンによる単発として開発を進めようとしたのだが、期待した推力を得る事が出来ず、途中から双発機へと変更されたという経緯がある。
と言っても、計画の大推力というのは無理であった事から、当時多くの国で採用されていたデルタ翼機として開発が行われたのだが、デルタ翼では翼面積こそ確保可能だが、後退翼機ほどの運動性が期待できないと見られたことから、先尾翼機として計画されている。この当時、同じ様な機体はスウェーデンのJ37ビゲンしかなく、非常に特異な機体だったと言える。
ただ、両者が目指したものは少し違って、ビゲンは短距離離着陸性能を目指したのに対し、F2では戦時中に海軍で試作されていた先尾翼機の知見から、当初より運動性の向上を目指して採用されている。
と云うのも、当時の一宮では、無尾翼機となってしまうデルタ機への不安があった事が大きい。デルタ機では主翼のフラップが水平尾翼の役割をしなければならないので、設計段階からその困難性や機能上の矛盾が指摘されていた。
それを解決する手段として、戦時中に試作されていた先尾翼機のデータを探し当て、それを参考にしながら設計されたという。
結果は非常に良好であり、要求されていた高い搭載能力も米国のF102を参考にデルタ翼として大きな機体下部空間を用いたウェポンベイ化によって、空気抵抗を増大させることなく対空ミサイルや爆弾の搭載を可能にしている。
当初その性能は第二世代ジェット戦闘機のソレでしかなかったが、大型機であった事が幸いして改修によりレーダーやコンピュータを換装することで新型対空ミサイルの運用が可能になると、その性能は第三世代ジェット戦闘機として通用するモノへと発展させることに成功している。
このF2開発に当たっても、導入候補に外国機が検討されたことがあった。
米国のF4がその有力候補であったが、導入には厳しい条件が付いたことで沙汰止みとなり、当初は性能が劣るF2で我慢するしかなくなっている。
F2を開発した一宮では、すぐにも次世代機の研究を始めることになるが、当初はF2が大型機であることから、まずは退役が始まるF1に替わる小型戦闘機を意図した開発がはじまった。
当初は米国のF5、英国のナットといった軽量戦闘機を参考に開発を行っていたが、操縦系統をコンピュータ制御としたフライ・バイ・ワイヤの研究成果を取り入れようとした結果、要求仕様が膨らみ機体は大型化してしまう。
開発が迷走する中でF1の退役は進み、F2に替わる次世代戦闘機について外国機を検討しだしたところへ、一宮もF2をさらに改良した機体を提案するが、軽量戦闘機の迷走が足を引っ張り落選の憂き目を見ることになる。
その迷走中に開発された大出力エンジンを使えば候補機であるF14やF15と伍する機体の開発は可能だと主張したが、すでに現物がある米国機に対し、全くの白紙である一宮に説得力はなかった。
こうした中でF2を改造したフライ・バイ・ワイヤ実証機が飛行した事で何とか反撃しようとしたが、まるで相手にされることなく選定は進む。
しかし、日本でのライセンス生産を条件としたことで米議会は輸出拒否の姿勢を示してくるが、エンジン性能が不安定なF14については次第に容認の方向へ傾き、なかば強制的にF14の採用が決まってしまう。
しかし、悪い事ばかりではなかった。
F14はそのエンジン性能不足を理由に一宮は自社製エンジンへの換装を申し出る。これに製造元であるグラマン社も飛びつき、日本向けの機体を一宮が主体となって開発することになっていく。
結果として、軽量戦闘機計画は沙汰止みとなり、三菱や富士が主体となって開発していた対艦ミサイルを搭載できる戦闘攻撃機が採用される事となり、一宮はF14の改修に専念し、1983年にはF14Jとして本家より推力に優れたデジタル制御のエンジンを備えて進空している。
このグラマンとの関りは一宮の転機となる。
当時の一宮は民間機部門では鳴かず飛ばずの状態で、三菱や海外へのエンジン供給に留まる状態であったが、F14改修を請け負う傍ら、グラマンの民間機部門であるガルフストリームへの出資を行い、後にこれを買い取り、合わせてガルフストリームを母体とするエンジン子会社、一宮USAとしてF14Jに搭載するJ6エンジンをグラマンに供給、F14Bの開発を支えることとなり、そのままJ型の対地、対艦能力を受け継いだC型へと発展していく契機となった。
この経験は大いに一宮の戦闘機開発に生きることになる。
F3戦闘機は三菱や富士が開発していた超音速練習機を改修して作られた機体であり、お世辞にも高性能とは言えなかった。
それもあってすぐさま次世代機計画が立ちあげられることになるが、一宮ではそこにF14で得た知見や技術を投入した軽量戦闘機計画から脱皮した機体を提案する。
ただ、それでも以前の計画の尾を引いており、F14に採用された大推力のJ6エンジンではなく、燃費性能を求めた旅客機用に開発したJ5エンジンをベースにした推力に劣るJ8双発であった。
一宮ではF2のウェポンベイという考えを捨てきれず、カナード付きデルタ翼を継承したうえでウェポンベイも設ける機体としてこれを提案している。
ただ、防衛省側が提示した対艦ミサイル4発を収納する事は当然不可能で、対艦ミサイルを翼下に装備し、ウェポンベイを増槽代わりにするか対空ミサイルを装備して運用することを提案している。
しかし、この双発案は受け入れられなかった。
対して三菱を中心としたグループはJ6ないしは米国製エンジン単発の機体を提案している。単発でF3から引き継いだ通常の尾翼形式の機体だった。
当然の様に防衛省もこちらに興味を示すことになり、試作を勝ち取ったのは三菱を中心にしたグループだった。
一宮には不本意ではあったが、F14を手掛けているのであまり表立って不満も言えなかったのが事実である。




