一宮飛行機の軌跡 5
1962年2月28日、日本政府は早くも国連に対して航空部隊派遣を打診し、その可能性の協議に入っている。
3月5日には公式にその事実が公にされ、多くの国から対日批判が巻き起こるが、日本政府はそれら批判への対処として、国連指揮下に限った軍事行動しか行わない事を両者で取り決める事を提案する。
当然、この事実を公表した日本国内も大騒動となる。
そして、当事者である航空幕僚長は記者会見で批判的な質問を浴びせる記者に対し、「君たち若者には関係ない話だ。これは我々世代がケリを付けるべき問題である」と、一喝し、その場を去ってしまう。
この事が夜のテレビで、翌日の新聞で大々的に取り上げられ、大きな批判が巻き起こり、幕僚長更迭の声が高まるのだが、政府は一切対応しなかった。
それどころではなく、国会前でシュプレヒコールを上げる反対派をよそに、メディアのトーンは降下の一途になっていく。
国会内においても、強硬に政府批判を行い、幕僚長更迭を求める政党は共産党だけという状態になった。
航空幕僚長の発言は、メディアが予想したのとは反対に作用していた。
メディアは9月20日に辻がコンゴに居ることが判明して以後、彼の戦時中の行状を書き立て、そこに日本政府の態度や自衛隊の存在などを混ぜて連日報道していたのだが、それが結果として、航空幕僚長の発言に共感する世論を生み出すことになっていた。
メディアは辻や軍部の独走、暴走を連日報じたが、それは確かに、今現在、ただ見なかったこととして他国に任せて終わらせて良い問題ではない。そういう雰囲気が中年以上の世代に広まり、そこへの発言である。
ここでまた放置する事こそ間違いだ。そう、戦争を体験した世代の多くは考えている。それはメディアにも国会議員にも伝わり、事は部隊派遣へと動いていくことになる。
3月12日には国会において国連軍への派遣が承認される。この時、野党の中で反対したのは共産党を除けばごくわずかな議員でしかなく、賛成しなかった議員は採決の際に退席することで棄権してる。
こうして、辻の予想を覆して日本はコンゴへの戦闘機派遣を決め、その行動を支持する米国がその輸送を担う事で迅速な展開が行われることとなった。
5月15日には早くも現地に第一陣が到着したが、その日を狙いすましたように辻一味は国連基地を襲撃している。
これは日本隊の到着に合わせて襲撃する可能性を見越していた国連軍により迎撃を受けたが、それを躱して基地に達した1機が機銃掃射を行い、自衛隊整備員1名を含む12名の犠牲者を出すことになった。
航空機は事前に襲撃を察知して避難していたので無事であったが、基地施設への被害は免れなかった。
到着初日に犠牲を出した日本であったが、比較的冷静に受け止めており、国内で騒いでいたのは国会や一部大学で騒ぐ反対派のみだったという。
もしこれが、戦後50年など経っていればまた違ったのだろうが、多くは戦争を経験した世代であり、その受け止めは落ち着いたものだった。
その後も基地への襲撃を含めた交戦が何度もあり、F1も1機墜落している。
淡々と述べてきたが、なぜレシプロ機がジェット機を撃墜できるのか不思議に思うかもしれないが、特に難しい事ではない。
隼の最高速度は500kmを少し超えた程度に過ぎないが、派遣されていた国連軍のF86、J29、F1と言ったジェット戦闘機はその倍の速度が出せる。もちろん、最高速度が速いという事は、機体もそれに合わせて作られている事になる。
その分、隼が飛ぶ速度域では運動性に劣り、機体の旋回半径も大きい。まだ対空ミサイルも黎明期であったので持ち込まれておらず、双方ともに機銃で戦う空戦が行われていた。
隼の機銃が12.7mmでF86と射程はほぼ同じ、J29やF1は20mmを備えているが、威力はともかく、射程が大幅に伸びるという訳ではなかったので、隼を撃墜するには、その速度に合わせて後方に着くか、すれ違いざまの一撃で撃墜するしかない。
減速して隼の後ろに着いた場合、下手に隼の旋回に追随してしまうと気が付いた時には隼が後方におり、銃撃を受けることとなる。
そのようにして罠に嵌められたことで、国連軍ジェット機が10機も隼に撃墜されることになってしまった。
しかし、辻らは攻撃すればする毎に損害を積み重ねる状況であり、8月までにその戦力は払しょくしたのか攻撃がピタリとやんでしまう。
その間に再度、カタンガ国首脳と和平交渉が行われるが、強気の首脳陣は和平を拒絶してしまう。
航空攻撃が無くなった国連軍はカタンガ国の制圧を優位に進めていたのだが、12月8日、突如として再度の航空攻撃を受けてしまう。
隼は払しょくしたものとして対地攻撃に力点を置いていた国連軍はその油断から3機の撃墜、地上撃破4機という大損害を払う事になった。
幸いにして襲撃してきた機数は3機と少なく、すぐさま2機は撃墜できたが、1機は国連軍上空でF1を相手に20分もの空戦を繰り広げ、地上で撮影していたメディアによって世界へと配信されることになった。
ジェット機とレシプロ機の空戦は世界で注目を集め、しかもそれが両方とも日本製という事がさらに話題となった。
この後、F1を母体とした練習機T1への問い合わせが複数の国から寄せられることになったが、それも当然だろう。
その映像は今でも見る事が出来、航空自衛隊では教材として活用されているほどに両者の動きはすさまじいものだったのだから。
この空戦が隼の有終の美だった。
この後、更なる襲撃を警戒しながらカタンガ国制圧が続くが、年を越えることなくカタンガ国首脳による降伏宣言をもって紛争は終止符を打つことになった。
国連軍の作戦の最中、12月24日に秘密飛行場らしき施設を発見し捜索したところ、施設から複数の東洋人の射殺体を発見する。
国連軍の撤退が始まった1963年3月にその中の遺体の一つが辻の遺体であると断定され、帰国する自衛隊と共に日本へと帰ってきている。




