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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
オリジナル
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海狼への鎮魂歌

今回は潜水艦。

潜水艦、現在の潜水艦は原子力推進とディーゼル発電により生み出された電気をバッテリーに蓄電し、その電力でモーターを回す、ディーゼル・エレクトリックに分けられる。

ただ、この分類は動力の違いであって、双方とも海中に居ることを使命とすることに変わりはない。


昔からそうであったかと言うと、実はそうではなかった。発電能力や蓄電池の能力不足もあり、運用思想が「攻撃の時に潜る」事にあった。

その為、まず求められた能力は、水上で商船に追い付けることや艦隊に随伴出来ることであり、海中では、あくまで隠れて攻撃出来るだけの能力しか求められていなかった。

その為、第二次大戦頃までの潜水艦には甲板に大砲が据えられ、商船等には水上から堂々と砲撃することも行われていた。

しかし、商船も潜水艦が通商破壊を行う事に対抗して船団を組み、護衛艦が付くようになる。

それだけならば、静かに潜水し、機会を伺い、隙をついて攻撃することもできた。

ところが、護衛に空母が付くようになると、潜水艦は攻撃の隙を失った。

当時の潜水艦の水中速力は商船より遅かったため、航空機に発見された場合、攻撃の機会を得ることはおろか逃げる隙さえ与えられなかった。


この様な状況の中、ドイツで生まれたのが、今の潜水艦の原形である、水中高速潜水艦であった。

日本はどうであったかというと、ご存知の通り、少し事情がことなる。

そして、潜水艦を語る際に枕詞となるのが、「現在の潜水艦の始祖と言われる、伊200型、呂100型をご存知だろうか」という台詞である。


伊200、呂100は海軍が開発した潜水艦ではない。

この水中高速潜水艦を開発したのは、今や日本の潜水艦建造を一手に引き受ける塩飽造船であった。

開発を主導したのは塩飽造船二代目で、彼が英国留学中の1923年にR8潜水艦を落札したことから話が始まる。


このR級潜水艦というのは、第一次大戦において、英国が構想した対潜水艦用潜水艦だった。

敵潜水艦を見つけると速やかに潜行し、最大14ノット(約26キロ)で接近して、敵潜水艦を攻撃する戦術だった。

当時の一般的な潜水艦は水中は7~8ノット(約13~15キロ)しか出せなかったのだから驚異的だった。

彼はこの潜水艦を実家に送り、自らの帰国後は本業の傍ら構造の研究を始めている。

彼が日本に持ち帰った欧州の新技術は膨大なものであり、電気溶接の飛躍的な発展や溶接に適した鋼材の開発、電子機器の発展など多岐にわたっている。日本初のレーダーも彼の存在なしには完成が数年遅れたと言われている。

彼は1936年に瀬戸内海航路の連絡船に衝突防止装置としてレーダーを導入した。これは軍の研究のはるか先を行き、当時最先端といわれた英米すら抜き去る快挙だった。

この連絡船には溶接に適した鋼材が使われ、初歩的なブロック工法による電気溶接法による建造であった。

ただ、この連絡船は紫雲丸と名付けられ、溶接面の破断や衝突、果ては沈没と五度にわたる事故を起こし、瀬戸丸と改名されたが、やはり事故を起こして相手を沈没させている不幸な船であった。

就航直後の破断事故は海軍の第四艦隊事件と並ぶ重大な技術的教訓を与えている。この事故により、溶接手法や鋼材の開発は大きな発見を得て、急速に進歩した。

閑話休題


この頃、如何なる経緯か塩飽造船は海軍とのコネクションを得る。

当時の塩飽造船は瀬戸内の内航船を専門にした造船所であり、海軍との接点はなかったのだが。

一説には、塩飽造船が溶接鋼材や溶接手法を売り込んだと言われているが、中には海軍関係者と会う機会を得た二代目が

「日本は近々大戦争してアメリカに負ける。少しでも事態を好転させるには、うちの開発した潜水艦が必要になる」

と、R8を元に開発していた水中高速潜水艦の資料を渡したからだとも言われている。

たしかに当時、塩飽造船は欧米と大差ない技術水準にあり、朝鮮での鉱山探索にも成功し、翔ぶ鳥を落とす勢いだった事は確かである。


そして、海軍は1937年に水中高速潜水艦の試験艦の建造を決定し、翌年、完成させている。

これが有名な71号艦である。

全長50メートル、排水量520トンの船体は紡錘形をしており、当時の一般的な潜水艦とは一線を画していた。搭載されたディーゼルエンジンやモーターも塩飽製の最新型であった。速力は水上12ノット、水中21ノットだった。

海軍が求めた水中25ノットには及ばなかったが、水中安定性や塩飽造船が開発したディーゼル・エレクトリックシステムの信頼性は高く、更に大型化した潜水艦による試験がもとめられた。


1941年に71号艦の試験データを元にした中型潜水艦が完成する。

全長約60メートル、排水量990トン、紡錘形で一軸推進を採用するディーゼル・エレクトリック潜水艦だった。

試験の結果は水中速力は71号艦と大差なく、当時の中型潜水艦と比較して性能良好であったため、1942年春に正式に量産が決定し、戦時下という事情もあり、既に建造や修理で手一杯の工廠ではなく、塩飽造船に発注された。

塩飽造船では、もとから量産前提のブロック工法で設計しており、発注された8隻を1隻4か月ペースで建造することが出来た。そして、追加発注分は水中機動性や潜行能力を上げるため、大型の潜舵を装備した改良型となっていた。

改良型は重量が増し、排水量1100トンとなっていた。

当時の潜水艦は500トンまでを波号、1000トンまでを呂号、それ以上を伊号と呼称したが、改良型も書類上は990トンに留めおいて、呂100号型潜水艦としている。


そして、海軍はその量産性に着目し、更に大型化した伊号潜水艦も建造出来ないかと打診してきた。そして完成したのが、伊200型潜水艦である。全長72メートル、幅8.8メートル、排水量1900トン、水中速力20ノットは戦後の潜水艦と遜色ない数値である。実際、戦後調査した米軍は、伊200を元にアルバコアという水中高速潜水艦を造った程である。


戦績はあまり芳しいものではなかったが、それは潜水艦の性能や戦況の変化以上に海軍の運用思想に問題があった。

性能について言えば、米軍は戦後の調査まで呂100、伊200の水中性能を把握しておらず、適切な接近や離脱を行うそれらを撃沈することは出来ていなかった。にも拘らず、海軍は水中高速潜水艦に最適の戦術を理解しておらず、従来の戦術をとるよう指導していた。この為、水中性能を理解した一部の艦長が独自にその長所を活かした運用、戦術を実施していたに過ぎず、被害は日増しに拡大していった。

海軍がその特徴に気付き、戦術を見直したのは1945年に入ってからであり、あまりに遅きに失していた。当然ながら、戦術を見直してからは被害も激減したが、日本近海ですら制海権がなくなり行動自体が制限されたのではどうしようもなかった。


戦後、水中高速潜水艦が米軍に与えた影響は大きく、また、潜水艦技術の維持、発展を怠らなかった塩飽造船の努力が、今も自衛隊潜水艦が世界最高水準であることを支えている。



もう少し話を広げようかとも思ったが、かなり縮小してます。

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