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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
一宮飛行機
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一宮飛行機の軌跡 2

 レシプロ単発機。


 そう聞いて思い浮かべるのはほぼ、牽引機だろう。


 エンジンを機首に備え、その前方でプロペラが回る機体。


 一宮も当初はその様に呼5を配置しようとしたらしい。


 ジェットエンジンにおいて、ソ連ではその初期にその様な機体が存在してるので、もし完成していたらSu9などと同じ様な形態になっていたのかもしれない。


 しかし、彼はふと考えた。


「飛行機で一番重量があるエンジンを機体中心に据えた方がより運動性能が上がるのではないか?」と。


 そして、それを実現するために様々なレイアウトが考えられた。


 複葉機の様に呼式機関を機体に背負わす方法。或いは、機体から吊り下げる。ある意味、後のSu27のようなモノだろうか。


 ただ、安定して取り付けるには機体内部が良いので、機体中央部に据えることになった。さて、次なる問題は空気をどこから取り入れるのかだが、普通に考えれば側面となる。しかし、それでは機体に余計な構造物を張りだすので、初の全金属機という事もあって、そのまま機首に取り入れ口を設けて胴体構造に余計な負担を掛けないように配慮した。

 後部については尾翼下までノズルを伸ばすことも考えたが、呼式機関が一体的に作られたものであるため、燃焼器ノズルをそのまま外部へ露出させ、尾翼は機体上部のフレームが延びる形にされている。


 不思議な事にその形状はこの時点で四式戦闘機とほぼ変わらない外観をしていたという。


 実際に製作に入ると様々な問題があり、実機の完成までには2年を要することになる。


 しかも、その過程でエンジン出力に不安があるという事で改良型8気筒エンジンの開発まで行われるほどだった。


 こうして1933年に完成した実機はまず地上滑走が行われたが、やはり呼5では推力不足と判断され、改良型の呼6に変更されている。

 しかし、同年中に進空することなく終わり、初飛行は1934年1月の事だった。


 それまで練習機しか作った事が無い一宮がいきなり全金属単葉機を作った。その事実だけでも大ニュースなのに、プロペラが無いと云うのは皆を驚かせるに十分だった。


 軍ではその特異な機体に興味を示し、4月に行われた試験飛行で時速412kmを記録するとすぐさま機密指定とするためにキ番号を与えようとしたが、一宮は自由な開発が阻害されると拒否してひと悶着起こす。


 その後、軍では独自開発機にキ番号を振るのは如何なものかと内部でも問題となり、試製九四式戦闘機とするとして囲い込みを行った。


 こうして、後に制式化もされたのだが、実際には未だ実験機でしかなく、実用とはならなかった。

 

 一宮では更なる改良型が作られ、12月には時速468kmを記録するまでになる。この時点で目標を600kmとしていたと云うのだから、その期待感がうかがえる。


 しかし、結果は全く出ることはなかった。468kmが限界だった。一宮ではさらに10気筒エンジンを用いた呼7を製作して搭載したのだが、重量が増して逆に速度も運動性も損なわれるだけだった。


 1935年には通常のプロペラ機でも450kmを十分突破できる目処が立ったために九四式はそのまま開発中止となり、軍からの資金は途絶えることになる。


 その後、機体をより高速型にするためにほぼ完全な四式戦闘機の姿へと変貌させた試作機を製作するのだが、日の目を見ることなく終わる。


 そんな事があって一宮では一旦、モータージェットを離れ、通常のプロペラ機開発を始めている。おりしも陸海軍共に千馬力級の戦闘機の試作を始めていたので、一宮も自社製空冷水平対向12気筒880馬力エンジンを用いた機体開発を行い、陸海軍へと提示した。


 空冷であるため非常に軽く、それでいて液令のように空気抵抗が少ないという利点から、馬力が低くとも最高速度は500kmを超え、運動性も良好だった。


 しかし、陸軍ではほぼ一社指名で開発が行われていたので、性能試験こそ行われたものの、一式戦闘機「隼」を退ける事は出来なかった。


 海軍においても、要求された航続距離を満たせなかったことから零式艦上戦闘機に敗れている。


 後から考えれば水平対向12気筒の出力はすでに限界だったので、開発余地のないエンジンを積む機体を採用しなかったのは当然と言えば当然だったのかもしれない。


 そんな事から一宮ではそれまで通り、練習機の生産を主軸に据えた経営が続いていた。


 不思議な事に一宮では、独力開発した水平対向エンジン以外にエンジン開発を行っていない。


 そもそも、一宮の水平対向エンジンは呼式機関用に開発されたようなモノであり、プロペラ機に取り付けることは本来考慮されていなかった。


 その為、12気筒エンジンの場合は飛行試験中から加熱問題が顔をのぞかせていたし、本来、呼式機関では、主圧縮機の他に設けたエンジン用過給器や冷却用ブロワを用いることを前提としていたので、プロペラ機用として用いた場合、千馬力はどうやっても達成できる見込みが無かった。もちろん、安定した冷却風の取り込みも無いので加熱問題の解決も難しかっただろう。


 この様に戦闘機開発でも振るわず、呼式機関は実用品としての価値が無くなった一宮では、自律型ロケット。一般に言うターボジェットの開発を始めることになる。


 ターボジェットで問題となるのが燃焼器と耐熱合金だが、一宮は呼式機関の効率化のために呼8という、ほぼターボジェットの燃焼器そのものを搭載した試作機を既に製作していた。


 ただし、これは本来単にダクトが通るだけのレシプロエンジン周囲に燃焼器を配置して、後部に従来の燃焼器を更に配置することで推進力を高めたモノであったのだが、レシプロエンジン周囲に燃焼器を配置すれば空冷エンジンの冷却や燃料供給に支障が出るのは明白で、ベンチテストすらままならない状態で計画は放棄されることになった。その外観は後の遠心式ターボジェットエンジンと瓜二つであったともいわれている。


 この燃焼器開発によってターボジェット用燃焼器として十分に通用するだけのデータは既に揃えていたという。


 問題となる耐熱合金についても、本来は燃焼器の冷却方法として考えていた空冷手法をタービンブレードに応用することで打開策を手にしていた。


 このため、海軍が当時進めていたジェットエンジン開発より早く、1941年2月には十分な性能を持った遠心式ターボジェットが完成している。

 一宮がこれまで開発してきた呼式機関の大半はこの遠心式だった事で、その完成が早かったという。


 さらに、呼式機関の小型化のために軸流式圧縮機も開発していたので翌年には軸流式ターボジェットも完成させている。

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