一宮飛行機の軌跡
世界初のジェット機と聞かれてどう答えるだろうか。
一般的にはMe262という答えが返ってくるかもしれない。飛行機に詳しければHe178と答える事だろう。
しかし、最近では九四式戦闘機という答えが多くなってきているのではないだろうか。
もちろん、厳密にいえばコアンダ=1910という事になるかもしれないが、これは飛んでいないので九四式と云うのは間違いではない。
ただし、九四式は純粋なジェット機ではないので、世界初のジェット機であると云うのは正しくはない。
九四式はコアンダ=1910やカプロ二 カンピニN.1同様にモータージェットに分類される推進機関を搭載していた。
この推進機関は推力のほとんどを圧縮気と外気の気圧差によって推力を得ていたことが分かっており、これをジェット機と云うのはいささか間違いがあると言えるだろう。
それはともかく、この機体が作られたのは1934年の事だった。
当時、最先端の全金属単葉機であるだけでなく、世界的にも早い段階で引き込み脚を実現していたのも特徴である。
ただ、その写真を見た多くの人は、それを九四式戦闘機ではなく、四式戦闘機「旋風」と言うだろう。それほど両者に違いはない。
事実、両者とも一宮航空機が作る出した機体であり、九四式戦闘機のエンジンをモータージェットからターボジェットに載せ替え、再設計した機体が四式戦闘機「旋風」である。
その為、長い間九四式戦闘機は四式戦闘機の試作型であり、説明自体が誤記であると信じられてきた。なにより、米軍による調査においても九四式はジェットエンジン完成前に機体特性を見るために造られた試験機と記載され、その記載が日本でも信頼性が高いとして支持されてきた経緯がある。
ところが、2006年になってイタリアで発見された歴史資料の中に、九四式に関する記述が見つかり、それまで偽造、捏造とされてきた九四式に関する資料が本物である可能性がにわかに高まってきた。
最終的に、九四式の存在が真実だと断定された確証は、実機を分解調査した時だった。
2008年まで九四式はあくまで四式の試験機という扱いであり、一宮航空機に残る1機は何ら手を付けられることない状態で保管されていた。
2008年に行われた調査によって、戦時中ではなく確かに戦前の製品であると断定されるに至った。
そもそも、これほど謎に包まれているのは九四式戦闘機の存在自体が戦前から機密のベールに包まれ、陸軍自身が九四式を四式の試験機、あるいは実証機であるかのように扱っていたことにある。
一宮航空機を設立し、九四式を実際に開発した一宮忠吉その人自身が、「旋風の実証機である」と戦後は常々発言していたことで、四式戦闘機の試験機説がほぼ確信を持って語られることになっていた。
確かに、それは分からなくはない。
それどころか、旋風自体がある種のオーパーツである。よく知られているように、旋風は戦後、一部手直ししただけで、そのままF1戦闘機と名前を変えて航空自衛隊が採用しているのである。これほどおかしいことは無いではないか。
そこで言われるようになったのが、一宮忠吉の転生者説である。1990年代の仮想戦記ブームや昨今の異世界転生小説ブームにおいて、それは事実であるかのように語られることが多い。
それほどまでに九四式、四式という二つの戦闘機は時代を先取りしていた。
さて、その一宮忠吉がいつから飛行機に興味を持ったかは、よく知られている。
彼が陸軍に入った時には既に日本でも飛行機は飛び始めていた。彼の地元での異名は「昭和の平賀源内」であった。
子供のころから頭がよく手先も器用だったことから、様々なモノに手を出していたらしい。
そんな彼が自らの道を軍人と見定めたのは他より遅く20歳だったらしい。
大学を出た彼は陸軍へと入り、技官として活動を始める。そこで、コアンダ=1910の事を知り、プロペラの無い航空機に異常なほどに執着するようになったらしい。
1926年に軍を辞め、一宮航空機を設立したのも、ただ「プロペラの無い飛行機作り」の為だったと言われるほどである。
しかし、実際にはそれだけで会社が成立するはずもなく、本業は陸海軍の練習機や航空部品の製造だった。
そして、外国からの技術者招聘をするでもなく、独力で空冷水平対向4気筒エンジンを製作し、練習機への供給を始める。このエンジンはさらに発展して最終的には12気筒、880馬力までになるのだが、それは後ほど語るとしよう。
この4気筒エンジンを用い、1929年に最初のモータージェットを製作したという。これは後に発展型が飛行爆弾「桜花」のエンジンとして採用されている。
これは当初、4気筒エンジンの後ろにコンプレッサーや燃焼器を設けたモノであった。 このモータージェットを一宮はコアンダ式機関と呼称した。実際、桜花へ搭載されたそれは一宮での名称が呼11である。呼は呼庵陀という、彼が勝手に当て字した漢字から採られたものだ。
そして、更にそれを発展させたものがモータージェットに6気筒エンジンを内装し、一見、現代のジェットエンジンに見える様な呼3が作られ、一宮のモータージェットシリーズが始まる。
内装式となったレシプロエンジンはコンプレッサーで圧縮された空気を吸気に用いているので単に推進用だけでなく、駆動用過給器としての役割も与えられている。空冷エンジンなのでコンプレッサーに導かれない空気をエンジンに導いて冷却する構造も持っていた。
そして、コンプレッサーで過給された空気はエンジンの上面を通って後部へと導かれ、そこには燃焼器が設置されている。エンジンの排気は燃焼器ノズルと一体化されて機外へ排出され、推進力の一部となる様に配慮されていた。
しかし、6気筒エンジンでは実用機を飛ばすほどの推力は無かったらしく、新たに8気筒エンジンを用いた呼5が製作されている。
このエンジンで十分実用に足るとして1931年に機体設計が始められるが、そのレイアウトの決定で難航した。