チハたん物語2
九八式を採用することになった陸軍は当然、主力として九八式を量産していくことになる。
では、九七式は排除されたのかというと、そう言う訳でもなかった。
参考とした英国においては、歩兵を支援する歩兵戦車と機動力を生かして敵に打撃を与える巡航戦車という二本立てであったことから、歩兵戦車に当たる九七式中戦車と共に、はじめから巡航戦車に当たる戦車が求められていた。
そもそも、すでに採用していた九五式軽戦車では、榴弾威力が小さく、対戦車戦闘でも不利だった。その為、八九式中戦車の後継として計画されていた試作においては歩兵戦車と巡航戦車の双方用途の試作が同時に進行していた。
おりしも盧溝橋での衝突から戦線が拡大していた陸軍には、九七式こそが魅力的に映った。が、冷静な部分では15t型戦車、通称チホの有用性もはじめから分かっていたのだが、歩兵戦車として57mm砲を九七式に搭載した事から、ある種の種別分けのために九五式の後継的な意味合いもあって37mm砲へと変更し、九八式として採用したというのが実態ではあった。
高コストで主力足りえない九七式に代わって速射砲との弾薬共通化が行われた九八式が主力となるのは現場としても文句はなかった。速度もあって九五式以上の防護力もある。その評価は配備された部隊では高まる事はあっても下がる事は無かった。
そう言うと九七式が完全な失敗のように思われるが、本家英国の歩兵戦車が機関銃だけであったり榴弾の無い対戦車砲を装備していたことを考えると、九七式こそ真の歩兵戦車という事になる。
そして、九七式の評価を変える出来事が北辺の地で起きる。
あの有名なノモンハン事件においてソ連が繰り出してきた戦車の中に、多脚戦車が存在したのだった。
ソ連における歩行機械の取得は日本と同時期に行われ、更にドイツとの密約によって国内で装甲車両の研究開発が行われると共に、歩行機械の技術供与も大規模に起きなわれていた。
そこで開発されたのが六脚型機械の実用型であるNT1だった。
ロシア語でнасекомое(nasekomoye)танк、昆虫の様な戦車という事でこう呼ばれることになったらしい。
NT1はドイツの技術をそのまま利用して作られていたが、非常に精密な構造であっただけに、ソ連において量産するには適していなかった。
しかし、六脚型は不整地や泥ねいでの行動も可能で、ロシアの大地に適した物であるとソ連指導部では重要視もしていた。
そうした中で1935年にミハイル・コーシュキンが発案した簡素化制御装置を使用することで国産への道筋が付き、NT2が開発されるに至るが、これはコーシュキンとは関係なく設計された多砲塔形戦車で、T35と同じ思想の下で開発されていた。
当然ながら多数の砲塔を備える分大きく重くなり、その動きは緩慢というほかないほどに劣悪な状態だった。
そこで、コーシュキンへと指示されたのが、ノモンハンにも表れたNT3だった。
NT3は多脚構造で可能な重量を20t未満と算出しており、その重量の中で可能な火力を指示された重防御の車体に与えている。
そのため、主砲は82mmと大口径ではあるが、これは歩兵砲や対戦車砲ではなく、迫撃砲をベースに開発された全く新しい後装式迫撃砲だった。
同じ砲は後にBT8としてBT戦車にも採用される優秀な砲だった。
歩兵用迫撃砲ではないため射程より命中性が優先されてはいたが、砲は新規開発であったため当時の歩兵用迫撃砲より射程は長かった。しかも、車載としたため平射も行う事が出来き、当時開発中だった無反動砲より実用的であった。
しかも、歩兵砲と比べて非常に軽くトレンチガン程度(180kg)の重量しかないにも拘らず、迫撃砲であるため、その威力は76mm歩兵砲より優るほどだった。
そのような軽量砲を装備し、装甲厚も車体、砲塔の主要部を45mmとすることで十分な防御力も得ていた。
ただ、彼の開発した制御装置はドイツ製の複雑精緻な一体型ユニットではなく、主要な機能毎に三つの装置に分割していたので装置自体は大型化し、機重は自身の限界とした20tに迫る18tとなってしまい、速度はT26より劣る程度でしかなかった。
実際のノモンハンにおけるNT3は歩兵と共に行動し、しかも昆虫の例え通りに低い姿勢のまま動き回る事が出来るので日本軍からの砲撃を受けにくく、命中してもその装甲厚によって防ぎきる事が出来ていた。
しかし、速度の遅さが仇となって戦車部隊が退いた後に孤立して撃破されるものも出てしまう。
こうして日本軍に鹵獲された車両が調査された結果、自分たちの九七式も同等の防御力を持ち、若干ではあるが速度も速い事から見直される切っ掛けともなった。
九七式が見直されたと言っても大勢に影響が出るようなものではなく、退役させないという程度の事でしかなく、中国や満州で利用できるほどのモノとは言い難いのは事実であった。
それでもNT3の示した頑強さを見れば、同等の装甲厚があり、主砲の命中精度を考えれば攻撃力も必ずしも劣るとは言えない事は評価して良く、中国大陸以外の戦場でなら使えると考えられた。
その後、実際にインドシナへと進駐することになった日本軍は九七式の運用場所を見つける事が出来た。
インドシナの道路が未整備な場所では戦車ですら移動が困難だったが、多脚の場合、まだ活動が可能だった。
そのような場所で歩兵と共に行動できる兵器が以下の心強いか、語るまでもないだろう。
さらに、対米戦を想定したなら同様のジャングルが存在するフィリピンでの使用も考慮に入ってくる。
そのため、拡充されていく予算の中で九七式の量産も決定されることとなった。
この頃の日本ではノモンハン事件で出現したNT3への対応というのが一つの課題として挙げられ、すでに威力不足が指摘される九四式37粍速射砲の後継として47mm砲が、更には九七式を容易に撃破できる威力を持つ57mm砲の開発も加速させていた。
そして、九八式には当初からより大型の砲を搭載することを前提に余裕のある設計がなされ、47mm砲の装備が実現する運びとなり、57mm砲を装備する18t級の新型戦車の開発も開始されている状況だった。
こうした中で九七式はより一層、歩兵支援に特化することになるが、対戦車戦闘能力の向上も必要になる事は明らかだった。
そのため、穿甲榴弾(成形炸薬弾)が提案されたが、当時の技術では砲弾直径と同等か多少悪い程度の装甲厚にしか対処できない為、57mm砲弾の場合、50mm程度の貫通力とされ、威力としては多少不満が残るものだった。
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そこで白石が提案したのが、後の粘着榴弾と同じ効果を持つ砲弾だった。
粘着榴弾は英国で開発された砲弾で、プラスチック火薬を炸薬として装甲に着弾すると通常より薄く作られた弾殻が潰れ、粘着した状態で起爆し、その衝撃波によって装甲内壁を破壊飛散させる事で内部の機器や乗員に被害を与えるものだった。
これならば砲弾直径より厚い装甲にも通用することから、こちらの開発と採用が決定した。こうして作られたのが薄殻榴弾である。
薄殻榴弾は57mm戦車砲を装備した二式中戦車でも採用され、徹甲弾では遠距離から撃破出来ない米軍戦車へも使用され、多くの戦果を得ている。
さて、九七式の量産が再開されて以後、日本を取り巻く状況は急速に悪化していく、そしてとうとう米英相手に開戦することになったのだが、マレーやフィリピンへの上陸に際して真っ先に投入されたのが九七式だった。
被弾経始に優れた形状を持ち、当時の戦車砲や対戦車砲には十分な厚さといえる45mmの装甲は、当時主力であった九八式の25mmを大幅に上回り、それでいて小型であるために軽量という利点があり、脚制御によって浅瀬への上陸が容易という多くの利点から、橋頭保確保に抜擢された結果だった。
その期待を見事に果たし、迎え撃ったM3軽戦車などを見事にその薄殻榴弾で撃破する戦果をあげている。
さらにマレー半島では悪路走破性を生かして電撃戦の先鋒として買う役の場を設ける機会も得ている。
こうした華々しい活躍の裏で、やはりと言うか、多大な苦労があったのも確かだった。
多脚構造は履帯
キャタピラ
以上に繊細で整備に時間を要した。
そのため、フィリピンやマレー半島においても大量使用は行われることなく、少数ごとに交代しながらの運用が常となっていた。
その点、やはり信頼性は98式に軍配が上がったと言えよう。ただし、すでに37mm砲の時代ではない現実も突き付けられてはいたが。
九七式はこうした緒戦の活躍によって評価を上げたが、それと共に整備の難しさも露呈し、マレー半島以後の戦闘では補給の問題もあって徐々に運用されなくなっていく。
後のインパール作戦では少数が運用されて泥ねいでも踏破する実力を見せるものの、整備用部品の補給が受けられずに途中で遺棄せざるを得なくなるという悲劇も起きることになる。
1944年には防御力でも九七式と並ぶ二式中戦車が配備されていくと九七式は本土へと引き上げられ保管状態に置かれる。
その後は本土決戦に備えて引き出されるが、その配備先は戦車の配備がほとんどない樺太や千島だった。本土で米軍を迎え撃つために戦車を残置しながら、申し訳程度に北方配備に駆り出されたという訳だ。
ただ、コレがある意味で幸運となる。
この時配備されたのは再整備によって機体や砲塔装甲に20mmの追加装甲をボルト止めした機体だった。
これによって侵攻してきたソ連軍との戦闘でその防御力と攻撃力を発揮して撃退するだけの能力を示すことで有終の美を飾る事が出来たと言えるのではないだろうか。
戦後、撃破した機体を調査したソ連は見るべきものが無いとして全く相手にしなかった。
なぜなら、NT3を世に送る出したコーシュキンは既に亡くなり、あらゆる面で戦車に劣るようになった多脚機械に対する興味をソ連指導部が失っていたからだった。
初めから多脚機械に興味を持たなかった米国も状況は同じだった。制御機器に多少興味を示したものの、自国を凌駕するような技術を発見することなく興味を失ってしまった。
開発者の白石国倫はどうしていたかというと、彼は鉱石管の技術を一切米国に知らせることなく、技術者の一人として応対するに留まっていた。