チハたん物語
九七式中戦車、そう聞いてすぐに「あ、アレか」と思い浮かべるものは何だろうか。
それそのものを調べようとネットで検索すると、多くのキャラクターやそのもとになったアニメを知ることになるだろう。
では、九七式中戦車が活躍したかというと、それは多くの人が知る様に、そうでもない。
現在知られているのは九七式中戦車としてよりも、アニメ、キャラクターとしての影響力という方が大きい。
では、その九七式中戦車、通称チハはどのようにして開発され量産されたのか。
まず、その発端となったものから見ていくことにしたい。
第一次大戦中の1918年、ドイツにおいて超壕性能を備えた車両、機械の開発が行われる中で、後のチハに繋がる機械の発想が生まれていた。しかし、それは戦時中に形になる事は無く、ドイツは戦争に敗れ、戦車などの装甲車両、火砲の開発に大きな制約を受けることとなった。
戦後、ドイツでは軍が厳しく規制され軍需用品の開発も規制されていくが、その中で規制の解釈によって開発が継続されたのが、超壕機械、多脚歩行機械だった。
まず開発されたのは四脚型機械で、その目的も民需用として発表された。
当時、農業用トラクターの普及が進む中で取り残された畜耕を行う農家への提案として、或いは機械化によって野ざらしとなる畜耕用農具の利用を目的とするというのが建前とされた。
実際、開発された歩行機械は馬と大きさが大きく変わる訳ではなく、畜耕用農具を曳くことが可能だった。しかも、馬ならば2~4頭必要な農具を1機で牽引出来るのだから費用的にも効率的にも上だと言われる。
確かに、4頭の馬を飼うならば、購入可能な値段ではあった。が、その後の整備費用を考えると決して馬の飼育費用と釣り合う訳ではなく、当時のトラクターよりさらに複雑な機械であり、取り扱いは非常に難しかったという。
当然ながら民間に普及する事は無かった。
そもそも、四脚型歩行機械を開発した目的自体が民需ではなく、重砲の牽引用としてだった。
しかし、いざ開発されると、その速度に軍が不満を持つ。
確かに必要な数こそ減るが、移動速度は馬と変わるモノではなかった。片や当時発展著しい牽引車両の速度はすさまじく伸びていた。
軍は砲架の新規開発でトラックやトラクターで牽引する道を選択する事を優先し、歩行機械はごく少数、試験的に導入するに止められてしまう。
ほぼ同時に開発された六脚型はどうかというと、その超壕性能は傑出したものだった。登坂力も目を見張るものがあった。
しかし、当時のドイツには不満が残るものであることに変わりはなかった。
予算という制約だけなら超壕性能や登坂力に優れた歩行機械と速度にしぐれた戦車の二本立てという贅沢も出来ただろう。しかし、ドイツには戦車の開発や保有が出来ない制約があった。
ドイツの解釈では規制対象は車輪や履帯によって走行する装甲車両であって、多脚歩行機械は含まれないとしていた。
そのため、多脚歩行機械単一で超壕性能も速度も満たさなければ意味が無かった。しかし、それは不可能だった。よほどの革新的な発明でもなければ、速度を満たせない。
この当時、ドイツが開発した歩行機械の制御は機械式のモノだった。
四脚型の機械は無理をすれば人間の四肢で制御できるかもしれないが、六脚はどう考えても無理がある。
もちろん、四脚型であっても人間の四肢だけで動かすのは無理だ。
そのため、バランス制御や基本動作を自動で行う装置が内蔵されているのだが、コンピュータの無い時代、自動制御は全て歯車やレバー伝達の機構で構成されている。それを馬や車両のサイズに合わせて作るのだから非常に精密で複雑なものにならざるを得ない。
特に六脚型の場合、一機の製造に戦車10両程度の費用を要していた。ただでさえ軍の規模を制限されたドイツにおいて、そんな金食い虫を製造、配備する予算など望むべくもない。僅かな試験機のみで打ち切られるのは当然の成り行きだった。
ただ、その性能は諸外国から注目され、ドイツはこれ幸いにと技術と実機の輸出を行っている。
その複雑な構造や莫大な費用が掛かる事を知らない国々が超壕性能という一点でもってこぞって購入したのは言うまでもなかった。
英仏などは賠償金の減額と引き換えに実機と技術を得ているのだから、笑いが止まらなかったかもしれない。
しかし、笑っていられたのも実機の製造を行うまでの事だった。
確かに、英仏でその精密で複雑な装置を作る事は出来た。しかし、フランスにはそのような高価な機械を作る予算はそもそも存在せず、英国でさえ諦めてしまった。
しかし、足並みをそろえて購入した日本では事情が異なっていた。
もちろん、当時の日本で精密で複雑な機械を製造するなど全く不可能だった。誰もが購入こそしたものの、自国での製造など諦めていた。
国産に自信を持ったのは陸軍技術本部の白石国倫ただ一人だった。
彼がまず行ったのは徹底した簡素化だった。しかし、あまりに簡素化しすぎた制御機構は一人での操縦が難しく、二人で操作する必要があり、なおかつ、二人が息を合わせなければ前へ進む事すら困難なシロモノになり果てていた。
これでは改良や改善ではなく改悪であり、ただの失敗でしかなかったのだが、白石は一人満足気だったという。
誰もが白石の失敗に激怒し、落胆した。しかし、当の本人はまるでそうした周囲の喧騒を意に返すことなく飄々としていたらしいのだ。
機械式制御を簡素化したら操縦がほぼ不可能になった。どうやらそのこと自体は予想通りであり、しかも、何とか操縦できる方法がある部分のみを簡便な仕組みで作り上げたことは成功だと嘯いていたほどだった。
後の世から見ればそれは偉大な成功といえるのだが、当時の人々には失敗にしか見えなかっただろう。
もちろん、成功というのは改悪の事ではない。
誰もが知る様に、彼は鉱石管の発明者である。後に米国で同様の機器が完成するとトランジスタと名付けたソレだ。
鉱石管自体は非常に有名であり、多くの国が製造しようとした。しかし、米国が原材料の精製法を再発見するまで非常に歩留まりの悪い製品であったことは確かだった。それを一定の品質で製造できたのは、原材料の精製法を開発した白石のみであったと言える。
当時、日本では電子機器に使う真空管の品質が諸外国より劣っており、その品質改善に取り組んでいたのだが、欧米が立ち止まってくれるはずもなく、差が大きく縮まることはなかった。
そう、当時白石が考えたのは、精密な機械制御を電子制御に置き換えるという発想だった。
だが、当時の日本にはそのような技術は無い。そもそも、電子制御に置き換えて問題が解決できるならば英仏は開発を諦めてはいないだろうし、ドイツははじめから電子制御を採用したに違いない。
しかし、当時の真空管を利用した機器の場合、どうやっても馬や車両程度の規模に機器が収まるはずもなければ、使用可能なほどの信頼性も担保できなかった。
唯一可能にする方法は真空管により小型軽量で信頼性や寿命の長い部品を使用する事だった。
確かに、すでにいくつかのアイデアは存在し、特許をとる者まで居たのだが、それを実現するための原材料の確保が儘ならなかった。
それを容易にしたのが白石であり、欧米ですでに発表されていたモノよりさらに洗練された機器を彼は開発することに成功した。
ただし、時勢が時勢という事もあって軍機とされ、世間に知られる事は無く、広範に利用されるようになるのはずいぶん先の事だったが、この鉱石管を利用した電子機器を用いて二人での操縦を必要とした歩行機械を再び一人で操縦できるようにしたのが1935年の事だった。二人乗りの改悪から5年が経過していた。
さらにこの新しい歩行機械はドイツが欲してやまなかった速度についても一部大きく改善していた。
確かに平たん地や路上における速度はどう足掻いても戦車や自動車には敵いようがないが、路外、不整地での速度となると拮抗するところまで向上させる事が出来ていた。
それは機械式制御では限界とされた部分を電子制御に置き換えた事で切り替えや反応が速くなったことによる恩恵だった。
そうした結果に喜んだ陸軍では実用型の開発を指示して実際に設計が始まる。
ただ、路外における性能は良好とは言え、路上ではトラックに付いて行けない事は明白であったことからおのずから機動戦での使用は目的外とされ、英国の歩兵戦車を参考に重防御の移動砲台として開発されることとなった。
主砲には八九式中戦車と同じ57mm砲が採用され、歩兵支援能力は十分で、防御力も破格の45mm厚の装甲が機体正面と側面、そして砲塔に採用されている。しかも、履帯式戦車の様な変速機が車体前面に設置されない為、機体の周囲は良好な傾斜面で構成されている事からその実質的な防御力はさらに高く、当時の多くの対戦車砲では撃破不可能とされていた。
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試験における成績は非常に良好で、路外速度は九五式軽戦車とさして変わらない程だった。それでいて中国軍や自軍の対戦車砲が一切通用せず、計算上、ソ連の45mm砲にも耐えるとされていた。それでいて重量は12tでしかない。
当時、陸軍では戦車の重量を軽く抑えることを強く主張する意見があり、現場の防御力を求める意見と対立していたが、多脚戦車ならば双方の意見を両立している事から路上速度など一部の性能に目をつぶる事でその採用が1937年に決定し、当時日本が採用していた皇紀の後ろ二けたをとって九七式中戦車として制式化される運びとなった。開発時点から三番目の中戦車という事でチハという呼称も用いられていたが、sの呼称も継続して利用されることとなる。
こうして世界でも初めて多脚歩行機械が戦車として採用されたのだが、実際に予算を組んで生産に入るとやはりその複雑な構造や高価な資材を用い高精度が要求されることによる価格の高止まりや製造の難しさが足を引っ張ることとなった。
当時の日本は日中戦争の最中であり軍事費は青天井ではあったのだが、流石にこれまでにない新機軸の高度な兵器を量産し十全に使うという土壌は存在していなかった。戦時だからこそ、高価な一品ものよりも安価で数が揃う物、既存の戦術や知識で運用が可能なものが求められ、せっかく採用された九七式はその防御力の高さや既存の戦車と引けを取らない走行性能がありながら、陸軍の多くから冷たい目を向けられることになってしまった。
何より戦場となったのが中国というのもあっただろう。悪路走破性が高くとも路上速度がトラックに劣るのでは使えない。すぐさま替わりとなる戦車が求められ、おりしも対戦車戦闘が意識され出しか事から九四式37粍速射砲を車載化して装備した九八式中戦車が採用されることになった。
この車両は九七式の試験に際し、技術本部や戦車学校が推した15t型中戦車を改良したもので、その性能には申し分ないものと評価されている。