蒼空の逆襲者
さて、次は・・・
中国大陸で、太平洋でその名を轟かせた零戦も戦争終盤には旧式化していた。わずか1300馬力の栄では2000馬力の相手には苦戦する。
人材の問題もあった。開戦直前に飛行士養成課程を拡大したが、戦局はその予想すら越えていた。
もし、本土侵攻があれば、今猛威をふるうイスラムテロの様に自爆攻撃さえ考えられていた。
そんな情勢ではあったが、一筋の希望というか、最期の輝きの様な事態がそこにあった。
米爆撃部隊を恐怖のどん底に陥れた「閃電」である。
米国の原爆投下でもっとも懸念されたのも、閃電による迎撃だった。日本にとって不幸であったのは、原爆搭載機を偵察機と放置してしまったことだろう。
さて、その閃電の開発経緯なのだが、些か謎めいている。中には、
「閃電は未来から送られた設計図から作られた」
等という者までいる。
たしかに、そう説明すれば何事も解決するのだろうが、だとしたら、日本が1935年に早くも舶用ガスタービンを開発させていたことも未来から送られた設計図なのだろうか?
閃電は日本で唯一、戦時中に実用化できたジェット戦闘機である。だが、それを語る前にガスタービンについて語る必要があるだろう。
ガスタービン、今でこそ軍艦の動力として普及しているが、30年前までは蒸気タービンが普通であった。
タービン機関とは、蒸気タービンを指した。
では、まず、ガスタービンのメリットは何かと言うと、蒸気タービンの様に外部からエネルギーを取り入れないので、機関を小型、軽量に纏められる事だろう。
蒸気タービンには、水蒸気を作るボイラーと缶が必要になるが、これが巨大で、しかも、高出力を得るには複雑精緻な代物となる。その様な設備が艦中央を占有するのが、軍艦の常識だった。この常識を打ち破ったモノこそ、ガスタービン機関だった。
この様に言うと、まるでガスタービン機関が万能に聞こえるだろうが、実用化に成功した日本は戦前、戦中に、ガスタービン機関を積んだ艦艇を殆ど建造していない。
それが、ガスタービンのデメリット、燃料消費率、いわゆる燃費である。
ガスタービンに限らず、動力機関には、燃料消費率と出力の最適値というモノがあるが、艦船にガスタービンを採用した場合、運転の殆どを最適値から大きく外れた所で行うことになる。もし、最適値に近づけようとすれば、恐ろしく複雑精緻な機構が必要で、戦前、戦中の日本では無理な話であった。
現在のガスタービンはこの問題をコンピュータ制御や複数機種混載などによる複雑精緻な機構の採用で対処している。
日本は駆逐艦軽量化のため、忘れられていたタービン機関の理論を探しあて、欧米とは違う道を歩んだ。
英米がジェットエンジン開発を始めた頃、日本では、ガスタービン機関が既に実用化手前だった。ただし、それは巨大で重厚な蒸気タービンを下地とした機関であったため、飛行機に載せる事は出来なかった。今からすれば、結局、島風型の為に20年も費やしてガスタービンを開発するより先に、飛行機用のジェットエンジンを作れば良かったのではないかと思うが、当時のジェットエンジンの出力では、駆逐艦を動かすのは不可能だから、開発の方向性が違うのは致し方ない。
日本が航空機用ジェットエンジンの開発を始めたのは1938年と遅かった。しかし、舶用ガスタービンの経験があるため、開発はトントン拍子に進んだ。
このままであったならば、日本もドイツや英国のような戦闘機を世に送り出していただろう。
しかし、1941年、空技廠はある設計図を検証するために飛行機各社から技術者を召集した。
そう、検証のために召集したのである。決して、設計の為ではない。
この時検証された設計図こそ、後の閃電である。
閃電の開発は検証以後、スローペースでしか進まなかった。1942年にはジェットエンジンが完成し、スケールダウンした実験機が造られ、飛行検証がなされ、1943年にはフルスケール実験機が完成した。しかし、更に一年、試験に明け暮れ、1944年春に量産が決まる。
閃電にはもう一つ、謎がある。
それはエンジン開発が早い段階から北陸や北海道を拠点としていた事だ。この為、東海地震や空襲の影響が小さく、生産が続けられた事である。
さて、閃電だが、その外観はまるでスホイSu27の様な、或いはサイズから、テキストロン・スコーピオンと言ったら良いだろうか。
まったく時代に合わないものである。
いや、説明は出来る。当時の信頼性が低く、寿命も短いジェットエンジンは着脱が容易なポット式にした方がよいのだから、後に整備性や空力から同じ様な外観が産まれたのは必然と言える。
今も昔も、飛行機等は素人には見分けがつかないほど似通っているが、これは空力という、空を飛ぶための効率から来ている。単なるパクりなどではない。
この、70年代以降の機体を思わせる外観が世間をして未来から送られた機体と言われる所以である。
しかし、空気取り入れ口は当時の理論、技術の限界を示しており、音速飛行が出来る構造ではない。実際、制限速度は概ね時速千キロに設定されており、試験において、エンジン停止が起きたのは、音速域の衝撃波により、空気が吸えなかったからと検証された。実戦においても、速度超過によるエンジン停止や墜落例がある。
閃電が未来から送られた機体ならば、空気取り入れ口の処理も適切で、音速域の衝撃波で墜落の危険に晒される事態は起きないと言うのが常識的な見解である。
戦後、米軍による調査でも指摘された事であり、当時のドイツや米国と技術的な差は認められなかった。
余談ながら、昨今はこの評価に疑問が投げ掛けられている。
コンピュータ解析が常識となり、閃電のレストアのため、ある米国人エンジニアがデータをデジタル化した所、不思議なことに、当初からデジタルデータであったような感覚にとらわれたという。そもそも、70年代以降に新たに閃電に関わった者は、皆が皆、口を揃えて
「エア・インテークさえ形が整っていれば、最近開発された機体と言われても違和感がない」
と発言しているのである。
それだけ先進的な設計を日本の技術者達が総力を挙げて行ったという逸話である。
総力を挙げ過ぎたがために生産性が悪く、工場が被害を受けなかったにも関わらず、122機しか製造できなかったが・・・
初夢なんだから多少歴史いじっても許されるよね!の「閃電」の他者視点です。
間違いがあったので修正しておきます。