らのべっぽいみたいな回想録 9
1942年4月19日、米軍機による空襲が報じられると日本国内では開戦論が沸騰した。
政府は外交ルートでの解決を模索していたのだが、米国の回答もさることながら、すでに国内世論を抑える事が出来ないところまで来ていたので、そのまま交渉を続けるだけという訳にも行かなかった。
真っ先にはじめられたのは、当然のように支那に対する攻撃だった。
この頃には恒常的に四発爆撃機が飛来しており、それが米国製のB17であることが国内では常識であった。
この期に及んで交渉で済むとは、未来を知らされたもの以外居なかったと描かれている。
史実においてもなぜここまで和平交渉に拘ったかは明確な資料がない。工業力が隔絶している事が理由に挙げられるが、それを言ってしまえば日露戦争も同様であり、避戦の理由とはなり得ないというのが研究者の一致した意見である。
4月20日には野党が批判を繰り返す中での議会運営となり、開戦宣下を受けるべしという意見が埋め尽くすことになってしまった。
この事態を打開する術を持たない政府は、議会の意を受ける形で、天皇へ上奏し、御前会議の開催が決定する。
まずは動員体制の確立までの間、対支攻撃を本格化させることで世論の鎮静化を図り、対米交渉をギリギリまで続けることが決まった。最終期限は9月1日だった。
しかし、事態は日本の思い通りに進むことはなく、5月に入ると西日本への爆撃はさらに激しさを増し、満州でも被害の拡大がみられるようになってしまう。
戦闘機の量産体制がようやく動き出したばかりで、搭乗員すらまだまともに揃っていない段階だっただけに、日本国内は非常に混乱することになる。
空軍では二種類の防空戦闘機が競作途上であったが、出力面や機体の完成度から三菱機の落選と、中島機の採用が矢継ぎ早に決められるという一幕もあった。
すでに日本国内は平時ではなく戦時だった。
どこかしり込みする政府をよそに、戦時体制の確立は日を追うごとに進んでいく。
対米交渉は全く進展なく、それどころか挑発まがいの要求や発言が目立ってくる。
後の資料を見ると、米国がかなり焦っていたことが分かる。
英国からの要求で出来れば年内にも参戦し北アフリカか戦線の状況改善が必要だとの話が来ていた。年を越せば最悪、エジプトは持たないという悲痛な叫びとも脅迫ともとれる内容だったという。
しかし、米国世論は対独参戦を容認していない。大統領も戦争回避を公約に当選しており、自ら開戦を口にする訳にはいかなかった。
このころすでに度を越した挑発ともいえるほどに米海軍は大西洋において独軍への攻撃を行っており、反撃されていないのが奇跡ともいえる状況にまでなっていた。
6月5日、米空母が爆撃機を発艦させたと推測される周辺海域には軍は徴用した監視艇が配置され、再度の攻撃に目を光らせていた。
潜水艦隊は米太平洋艦隊の動きを探るため、ハワイ近傍へと潜水艦の配置を終えたところであった。
その日の夕方、潜水艦から米艦隊が大挙して出港したとの通報が海軍司令部に届けられた。
一体それが何を意図してのかは測りかねたが、再度の攻撃の可能性を考慮して艦隊の出港準備を進めることになった。
11日には横須賀より出港した大和型4隻を基幹とする艦隊が三陸東南海沖に達していた。
海軍の予測では、示威行動としてマリアナ方面を周遊して帰港するだろうとの見立てだったが、翌日、空中警戒中だった戦闘機が米機と接触、空戦が生起してしまう。
12日は双方の索敵によって艦隊捜索が行われたが、索敵機の誤報によって会敵することなく夜を迎えることになった。
この時、米側はほぼ正確に日本艦隊を補足していたのだが、接敵せずに様子を窺う状態だった。
13日も夜明けとともに水上機による索敵を再開し、昼前には米艦隊発見の報が入り、確認のためにさらに二派行われた索敵でようやく位置を確定するに至る。
このあまりの混乱から、索敵法や索敵機の扱う航法機材、無線機、暗号表についての改善、搭乗員のより徹底した練成などがこの後に行われていくことになった。
13日中の接触を諦めた艦隊は14日、あらためての索敵と接触を目指して行動を開始し、米艦隊に誘引されるように接触することとなった。
この時点ですでに空での戦闘は散発的に行われ、日本側が本格的な接触を開始すると攻撃隊も艦隊上空に現れる。
そもそもが挑発目的であった米側は爆弾や魚雷を装備しておらず、ひたすら銃撃することに終始した。
この攻撃によって空母艦上の機体が被害を受け、戦艦はじめとした艦艇でも死傷者を生じる事態となったが、後の調査で米側が爆撃機に爆弾を装備していた場合、空母1隻、巡洋艦2隻が撃沈されていた可能性があったことが判明している。
当然、それら報告をもとに艦隊防空の本格的な対策を講じるようになったのは言うまでもない。
結局、米側の攻撃による混乱から、接触を果たしたのは夕刻を迎える頃であった。ちょうどタイミングよく日本艦隊は沈む太陽を背に、米艦隊と対峙したと伝えられている。
そこに発見したのは戦艦6隻を有する艦隊で、もし、大和型が普通の33cm砲しか装備していないのであれば、ただ逃げ帰る事しか出来ない相手であった。
米艦隊においてはそう認識していた。
そのため、何の躊躇も警戒もなく、日本艦隊に向けて発砲が行われたことが資料からも分かっているが、当時の公式発表では、演習中の米艦隊を日本が襲撃してきたと発表されていた。
この時の両艦隊の距離は約30kmであり、命中を期待して発砲した訳ではなかった。
一方、攻撃を受けた日本艦隊は、それを明確な攻撃意図と受け止め、反撃を開始する。
米側にとっては思いもよらない事の連続だった。
日本艦隊の発砲を確認して悠長に着弾位置を推測していた先頭艦を僅か30秒足らずで砲弾が襲う事になったのだから。
米艦隊は慌てたが、何か出来るはずもなく、続けざまに行われる日本艦隊の砲撃をただただ受けるしかなかった。
3斉射目において先頭艦への命中弾が発生し、小口径弾とタカをくくっていた艦橋の反応とは裏腹に、巨大な爆発と共に3番砲塔に穴が開き火災が発生していた。
完全に捉えられた中で4斉射目の命中弾は機関部を撃ち抜いて完全に行動不能となってしまう。
大和型は高速で米艦隊の周りを走り回って半ば一方的な砲撃戦を展開し、日没までに2隻を撃沈、3隻を漂流させていた。受けた損傷は大和の電探が故障し、高角砲座が2基損傷して死傷者が出た事、信濃の艦尾が被弾し水上機格納庫が破壊された事。だけであった。ほぼ完ぺきなワンサイドゲームと言って良かった。
米空母司令官は日本艦隊への攻撃を命令したが、すでに帳が下りだしていたために攻撃は中止され、稼働可能な1隻の戦艦を護衛して撤退する以外に術がなかった。
翌日、米国ではハワイ沿岸で演習中の艦隊が日本軍の奇襲を受けて大損害を出したという演説を大統領が行い、対日宣戦布告を宣言した。
米国での反日感情は不況時の株取引や政権の扇動などによって最高潮に達しており、日露戦争での旅順奇襲を引き合いに出す報道に誰も疑問を持つことは無かった。
数日後、実際に真珠湾にたった1隻になった傷ついた戦艦が帰還した事で大恐慌が起きたほどだった。




