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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
オリジナル
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チハtank

もし、日本の戦車開発に転生者情報があったとしたら・・・

チハtankとは、第二次世界大戦時の日本戦車の呼名である。


本来は九七式中戦車の開発名称だったのだが、いつの間にかチハの名前が独り歩きし、対峙する米国では日本戦車の事をチハtankと呼ぶようになっていた。


チハtankは、九七式中戦車、一式中戦車、三式中戦車の事を指す。


本来の呼称は中戦車の開発番号であり、中戦車のチにイロハで順番を示している。この呼称はチハから採用され、遡って八九式中戦車にも付けられ、八九式甲をチイ、乙をチロとされている。

ちなみに、一式はチヘ、三式はチリである。


さて、日本初の国産戦車である八九式中戦車の開発以後、約10年にわたり中戦車は開発されていないが、1930年代というのは不況や軍縮の時期に当たっていたことが影響している。


この10年、なにも開発されていなかったわけではなく、数トンクラスの軽戦車や所謂豆戦車は幾つか開発されており、九五式軽戦車などは非常に有名である。


日本では、九七式中戦車、つまりチハを開発するにあたり、長期的な開発に関する議論が行われ、将来的に75ミリ砲を装備する戦車が必要になることが確認されている。

ただ、その議事録などは断片的にしか残されておらず、どの様な議論がなされたかは未だに謎が多い。

ただ、以後、整然と九七式が47ミリ砲、一式が75ミリ砲と進歩していることから、当初より75ミリ砲の搭載が想定されていたことは確実である。


現在、一次資料からは確認できないが、関係者の証言には、開発計画の当初から「A20」「A32」という語句が使われていたという。否定的な意見が大勢だが、議論が行われた1935~6年の段階では未だ開発段階にない、後のT34の試作計画がまさにA20であり、T34の原型試作がA32なのである。

ソ連における76ミリ砲戦車の出現以前にその存在を議題とし、対抗馬の開発を行ったと、一部の人々は主張している。

かなりオカルトな話ではあるが、実際、今に残る1939年の資料に添付されたT34の三面図が存在するのは事実であり、どの様に情報入手が行われたかは謎とされている。


九七式中戦車が開発計画の通りに開発されたかというと疑問が多い、当時はまだ軍縮期であり、日中戦争が始まっていなければ、比較試作として開発されていた軽量廉価なチニが採用された可能性もあった。

九七式自体、計画によって示された対45ミリ砲防御は実現しておらず、実戦配備直後に起きたノモンハン事件では、ソ連の45ミリ対戦車砲により撃破されている。

そもそも、現実として張鼓峰やノモンハンにおいて、ソ連戦車や対戦車砲と対峙するまで、日本軍には計画議案を理解するものは少なかったと言われている。

九七式に47ミリ砲装備が正式決定したのは張鼓峰事件の後であり、九七式甲として知られる初期型には八九式と同じ57ミリ短砲身砲が装備されている。


一式が正式に開発に移されたのも1938年であり、先に開発された技術実験車輛のチホには後に一式で実用化される新機軸がふんだんに盛り込まれていた。


また、開発計画においては、搭載砲として75ミリ砲を要求するだけではなく、当時の野砲、高射砲が反動吸収の為に装備する駐座機構の可動量が6~80センチだったのに対し、40センチ程度に抑えた専用駐座機構の開発を提言していた。

一式中戦車はチホによる動力系の開発、新な駐座機構の開発と全てが新機軸であったため、当初の予定であった1939年の開発完了には間に合わず、1941年夏までかかってようやく完成に漕ぎ着けている。実際の生産は1942年からで、太平洋戦争初期の機動戦には間に合っていない。


この時、一式中戦車の主砲身として採用されたのが八八式高射砲の砲身であったが、この砲では通常徹甲弾を用いてもT34は撃破が難しく、逆に撃破される危険性が高かった。九七式の47ミリ砲では米のM4の破壊すら困難なことは明白だった。

実は当時の砲弾は中に炸薬を充填した破甲榴弾で、この砲弾の貫徹力が低いことは九四式37ミリ対戦車砲の時点で指摘され、炸薬を内蔵しない高速徹甲弾が早くから開発されており、今で言うAPDS(装弾筒付徹甲弾)が1940年に完成をみる。実際に量産に成功したのは1942年であり、実戦使用は備蓄の出来た1944年からとなる。このため、フィリピン戦以降に米戦車の損害が極端に増え、フィリピンや沖縄では日本軍による米戦車隊撃退が一度ならず成功し、米軍を震撼させている。


この砲弾開発に10年近く要した理由は弾芯材料として多量のタングステンを用いるためタングステン合金開発に時間がかかったからと言われている。



さて、1935~6年に行われた戦車開発計画において、75ミリ以上の主砲を前提とする戦車に話が及んだ際、砲兵科からは非常な抗議と圧力が加えられている。

彼らは戦車に砲兵科の地位が侵される事を懸念し、なかなか75ミリ砲の採用を承諾しなかった。機甲科は戦車は砲の仰角が小さく、直接照準のため、長距離射撃に向かない事を説明したが、納得は得られず、会議が難航するなかで提案されたのが、戦車への滑腔砲採用だった。ライフリングがなく、砲弾を安定して長距離射撃することが難しい砲であるため、射程が自ずから制限され、砲兵科の地位が侵される心配がない事からようやく合意にいたる。


とはいえ、いきなり滑腔砲を戦車に採用するのは難しい事から、砲兵科も猶予措置として高射砲の転用を期限付きで認めることになる。

これにより、滑腔砲開発から5年以内の野砲、高射砲の戦車転用に道が開け、一式中戦車の開発に成功する。


滑腔砲開発も1936年には開始され、専用弾として弓矢の様な形をしたAPFSDS(装弾筒付き有翼徹甲弾)や弾頭に漏斗状の金属ライナーで炸薬の前方を成形した、いわゆるHEAT(成形炸薬弾)も開発された。

実用砲身が出来たのが1939年であり、砲兵科との取り決めで1944年には戦車砲身を滑腔砲に切り換える必要性があった。


このため、実用的な威力を勘案して75ミリよりさらに大口径な90ミリ滑腔砲が完成した。

この大口径砲を搭載するために造られたのが三式中戦車であり、重量は実に36トンに達している。

この大重量のため、海外展開は諦められて、満州と日本本土にしか配備されていない。


九七式乙型は1940年から量産され、マレー機動戦やフィリピン攻略に投入され、M3軽戦車の撃破に活躍した。戦争後半にはM4と正面から渡り合う能力は無かったがAPDSの配備されたフィリピンや硫黄島では待ち伏せによるM4の撃破が複数記録されている。


一式中戦車が実戦配備されたのは1943年初頭頃であった。

今でも日本戦車は貨物船のデリックの限界重量である15トンの制約を受けたというのが定説であるが、一式中戦車は車重21トン、戦闘重量は23トンを超える。しかし、砲塔を分離すれば車体重量は15トン以内に収まるため輸送が問題になることは無かった。

米軍反攻へのくさびとしてその役割を果たし、フィリピンではM4との戦車戦で米軍の航空支援がもう少し遅れていれば部隊を壊滅に追い込む程の戦闘も行っている。米軍の評価も高く、「確実に優位な体勢を整えてからかからなければM4では不利」と報告され、沖縄戦では一式中戦車に対抗するため、長砲身を装備するイージーエイトの投入が行われている。

性能はM4と同格であったが、国内の取り決めで1944年春までしか製造されず、九七式を完全に更新するには至っていない。後継が36トンもあるため、僅かな一式と旧式な九七式で太平洋戦域を支える結果となったが、米軍に本土侵攻を躊躇わせるには十分な活躍だった。


日本戦車の最後を飾る三式中戦車はその活躍も伝説である。

三式中戦車は満州で重点的に生産され、関東軍に配備された。

1945年8月、終戦間際に満州に侵攻してきたT34やIS3を迎え撃っているが、T34は貫徹力106ミリあるHEAT弾により距離に関係なく撃破可能で、KVシリーズやISシリーズすら射距離1500メートルで198ミリの貫徹力を誇るAPFSDSの前に多くが撃破された。


当時のソ連戦車は有効な傾斜装甲で徹甲弾を弾き返す事が出来たのだが、そもそも徹甲弾ではないHEATには効果がなく、ほぼ水平でなければ跳弾が期待できないAPFSDSに対しても無力であった。

惜しむらくはあまりに三式中戦車の数が少なく、ソ連戦車がウンカの如くだった事だろう。

ソ連は戦車が次々撃破されることに驚き、捕獲した三式中戦車を早速本国へ運び、約10年後にT62という滑腔砲装備の戦車を世に送り出している。



1945年8月15日に殆んどの戦闘が停止され、9月2日に降伏文書の調印が行われた。


米軍は進駐してきた富士山麓でまるでIS3の様な戦車を発見する。

これが五式中戦車チヌであった。

チヌは日本ではじめてトーションバーを採用した戦車であり、後輪起動とされ、車体は低く良好な傾斜で構成され、砲塔も出来るだけ低く傾斜面で構成されていた。

前輪起動で砲塔の下をプロペラシャフトが通っていたためかなり姿勢の高かった三式からは想像できない姿である。


米軍としては三式中戦車ですらその撃破にM26パーシングを必要とし、パーシングすら先に攻撃されたら紙のようにそのAPFSDSに貫徹される事態に驚愕したが、仮に五式中戦車が量産されていれば、パーシングでの撃破すら怪しくなる危険性から如何に目を背けるかを考えていた。

結果、その存在は機密とされ、米軍すら存在を忘却の彼方へ放り込んでいた。


五式中戦車が日の目を見るのは戦後10年経ってからであり、そのときには五式ではなく、61式戦車と名付けられた。

16年の時を経て登場したこの戦車は戦後の技術により再設計され、日本初のエンジン、ミッション一体のパワーパックとなり、当時最先端だったステレオ式測距儀を備えていた。

砲や砲弾の性能も上がり、本来なら90ミリ砲装備のため戦後第一世代に分類されるが、砲弾の改良もあり、第二世代と遜色ない性能を示していた。


その為、自衛隊では105ミリ砲装備の戦車を試作しただけで、その技術を投入した新砲塔を61式のために開発し、1984年まで61式の生産が続けられた。

第三世代戦車として開発された88式戦車の試作車には国産120ミリ滑腔砲が装備されたが、これはドイツ製との比較の末、残念ながら、価格の差からドイツからライセンスを買いライセンス生産されることになった。


ソ連が比較的早くに三式戦車砲を参考に滑腔砲を採用したのに対し、西側では日本以外積極的に採用した国はなかった。

それは、120ミリ滑腔砲まで、必ずしも圧倒的な利点が見つからなかったこともあるだろうし、HESH(粘着榴弾)を重視したためかも知れない。


そして、西側でAPFSDSに関する理論が完全に確立されたのは日本が米国に協力を仰ぎ開発した66式徹甲弾だったとされる。

では、三式徹甲弾とは何だったのか、精密な理論の確立なくAPDSの一種として扱い、その性質を理解せずにほぼ完璧にAPFSDSを造り上げることがなぜ可能だったのかは今でも謎である。

初投稿です、生暖かく見守ってください。

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