輝き未だ衰えず
二宮飛行器は第一次大戦後、空軍の要求にこたえて戦闘機や攻撃機、爆撃機を製作、供給していた。
ただ、八郎がシュナイダー・トロフィーにのめり込むあまり、設備投資が思う様に行かず、中島や三菱といったメーカーの追い上げに苦慮し、90式戦闘機が採用されて以後、しばらく本格的な競作への参加が出来ない状態になっていた。
第二次大戦中に採用された二式戦闘機は、シュナイダー・トロフィーへの過剰な投資による二宮飛行器の経営悪化からの立て直しの後にようやく再開できた新規製作機だった。
ただこの機体、当時の日本の常識、技術からはかなりかけ離れた機体であり、搭載された液冷エンジンは前線の整備施設での修理や調整を困難にしていた。
というのも、当時日本においては二宮しか作ることが出来なかった排気タービンを二個も備え、キャブレターではなく機械、電気併用型の燃料噴射装置によって制御された、まさにシュナイダー専用機のデチューンといった様相のエンジンだったからだ。
確かにその信頼性は低くは無かった。しっかり整備、調整し、規格に合った燃料を使いさえすれば、米軍機を一切寄せ付けない、全く追いついて来ない超が付くほどの高性能を示していた。しかし、その様な整備が出来る整備兵は極僅かしかおらず、海軍が無秩序に広げてしまった戦域にくまなく整備や修理用の部品を届け、必要とされる高性能燃料を供給するなど不可能な話だった。
そのため、せっかくの高性能戦闘機にも拘らず、太平洋戦線における二式戦闘機はただの的でしかない状態になってしまっていた。
しかし、本土においては本来の性能を発揮することが出来、高高度で侵入してくる爆撃機や高性能な護衛戦闘機に次々と打撃を与えている。
ただ、二式戦闘機にはあるうわさが付きまとっているのだが、それが英国製戦闘機ハリケーンのコピーや盗作というモノだ。
実際、二宮飛行器は1925年から英国に研究所を開き、日本ではすぐに製造、開発が難しい最先端の部品の開発、製造を行っていた。
当然、二宮飛行器英国研究所は英国の航空機メーカーとも関係があったことは事実で、この研究所での研究成果はシュナイダー・トロフィーの内容が変更となった1934年に英国企業にも広く提供され、その対価として様々な技術や工作機械、或いは金を手にしているのは事実である。
実際、ハリケーンを製作したホーカー社と二宮飛行器英国研究所はかなり深い付き合いがあり、日英が戦火を交えるまで関係が継続していたという。
そのため、二宮飛行器は自社の命運をかけた戦闘機としてハリケーンの設計図を手に入れ、そこに自社のエンジンを載せて空軍に提案したという話が実しやかに唱えられている。
しかし、実際は逆だった。
そもそも、シュナイダー・トロフィーに必要とされた技術を日本国内の設備のみで対応することが出来なかっただけでなく、二宮八郎の発想自体が、世界のどこにも簡単に実現するだけの技術が存在しなかった。
そもそも、1931年の二宮機に備え付けられていたツインタービンというモノはこの当時の技術で稼働させていたこと自体が奇跡と言われるほどの代物で、それを支える技術は日本ではなく、英国においてようやく実現可能なモノであった。
今現在も米国で行われるリノ・エアレースには二宮での復刻を含めて数機の二式戦闘機が参戦しているが、そのツインタービンエンジンは参加チューナー泣かせで知られる。メーカーワークス並みの技術が無ければ、このエンジンを適切に改造できないと、今も言われるほど完成された代物で、戦前にそのエンジンを実現し、第二次大戦中に量産した事実はただただ驚愕、奇跡という感想が彼らから聞こえてくるほどなのだそうだ。当然だが、リノ・エアレースにおいてこのエンジンをチューンし、参加チームに供給しているのは、今では二宮の関連企業しかない。
1931年の優勝は、英国研究所における技術成果があって初めて達成出来たモノで、33年大会の英国開催という制裁には、実際には相応の根拠があったのは事実である。
そうした経緯があり、更には英国飛行機産業とも深い繋がりがあった二宮八郎は、自社ではすぐさま実現できそうにない新型戦闘機の開発をホーカー社に持ち掛け、設計資料を提供した事で完成したのがハリケーンだった。
二式戦闘機の心臓部であるNH9とロールスロイス製のマーリンエンジンがどこか似ているのも、英国研究所の技術開示の影響であると言われている。
そうした事から、二宮飛行器が提供した設計図によって作り出されたハリケーン戦闘機が二式戦闘機とよく似ているのは当然だった。
ただ一つ違ったのは、ハリケーン戦闘機は後に作られたグリフォンエンジンには対応できていなかったが、二式戦闘機はNH9の開発と並行して設計されたため、NH9を載せて完成した。
そのため、戦後の英軍による調査では、「二宮からの設計資料提供があと少し後だったなら、我が国はP51を遥かに超える液冷戦闘機を手に出来ていた」と悔しさのにじむ記述がみられるほどである。ただし、その文書が公開されたのは21世紀になってからの事だったが。
グリフォンエンジンこそ装備できなかったハリケーンだが、ホーカー社が自力設計したタイフーンやテンペストの良いお手本となり、ホーカー社の戦闘機のみが航続距離、速度、運動性能においてP51とそん色ないレベルにあった。ただ、悲しいかな、ハリケーン自体はエンジンの性能によってドイツ機との速度差や爆弾搭載能力が少ない事から戦争後半には後続のタイフーンやテンペストに活躍の場を譲っていくことになっていった。
ハリケーン戦闘機がなし得なかった部分については、二式戦闘機がその性能をいかんなく発揮している。航続距離の長さを生かして縦横に飛び回り、その高速力で爆撃後の爆撃機編隊を海上沖合まで追い回し、運動性能の高さで護衛に随伴したP51を蹴散らしたその姿は、まさに、グリフォンエンジンさえハリケーンに搭載できていたならば、成し得た姿だった。
また、二宮飛行器英国研究所は米国企業とも関係があった。それが、シュナイダー・トロフィーで競い合ったカーチスだった。
カーチスに対しても技術提供が行われており、戦後、戦闘機開発においてエンジン提供が行われたのは、この時の返礼であると言われている。
実はNH9の最大の特徴であるその耐久性の高い排気タービンの技術について、戦前の段階でカーチスが何らかの形で米国のタービン技術を二宮に提供したのではないかと、以前より言われていたが、どうやら事実はこれまた逆であったらしい。
こうして見て来ると、第二次大戦における英国防衛を担ったエンジンや機体には二宮の提供した技術が生かされ、なるほど、二宮八郎の死に際し、英国王室が彼に対し勲章を追贈したのも納得がいく。
これは局地戦闘機「震電」についてもいえる話で、震電の積んだ中島製空冷エンジンは本来、英国ブリストル社が得意としたスリーブバルブを採用したエンジンだった。当然ながら、高効率エンジン研究においてブリストルと英国研究所が連携してその開発に当たっていたことも、今では知られている。
日本においてスリーブバルブの製造が可能だった企業は当然ながら二宮しかない。そのスリーブバルブを中島が採用したこと自体、当時の日本では異例であったが、英国での出来事を考えると、二宮にとってはそれが当たり前であったのかもしれない。
そうした異例の経緯をもって開発されたハ44は爆撃機用大出力エンジンであり、本来なら攻撃機や爆撃機への搭載を目指していたのだが、戦局の悪化と搭載機のエンジン加熱が解決できずに採用に至ったのは、エンジン加熱をまるで起こさなかった震電だけだった。
「震電は何か魔法を使っているのではないか?」
ハ44を開発した中島自身、そうした疑いの目を二宮飛行器に向けていたという。
震電においてエンジン加熱が発生しなかったのは、エンジンに適切な角度と流速で冷却気が流れ込み、滞ることなく排出される仕組みが備わっていたからというなんとも当たり前の話なのだが、それを実現する術を持っていたのが、これまた二宮だけであった。
他のメーカーは単に風がエンジンに当たればいい、ファンで吹きかければいいという程度にしか考えず、翼を作るようなち密な計算を隅々まで行う様な労力を掛けておらず、そもそも、シュナイダー・トロフィーでオイルクーラーやインタークーラーの冷却に苦労した二宮の様な経験もなかった。
なにしろ、シュナイダー・トロフィーで研ぎ澄まされていた二宮の冷却技術は今日の自動車におけるラジエーターやインタークラー、エアコンコンデンサの冷却効率とそん色ないモノだったのだから恐れ入る。
効率よくエンジンを冷やし、オイルや過給された空気を冷やす。そうした技術があったからこそ加熱問題と無縁でいられた。
戦後、中島飛行機は解体され、二つの自動車メーカーを生み出しているが、二宮飛行器は戦後も一貫して航空機開発のみに特化していた。ある時、なぜ自動車開発に参入しないのかと問われた二宮八郎は
「え?良いの?でも、それやっちゃうとシュナイダーみたいになっちゃうからさぁ~」
と冗談か本気か分からない言葉を残している。いや、彼は本気だったのだろう。実際、すでに事実上引退していた1980年の敬老の日に、何を思ったか「やっぱり車もやるんだったか」と言い、かねてより温めていたという自動車に関する技術資料を孫に手渡したという。
その資料は今も非公開ではあるが、資料を手にした二宮貴博が設立した自動車関連企業N-TECが手掛けたレーシングカーは国内外で多くの優勝を飾っている。たしかに、二宮八郎が本気で自動車産業に参入していれば、どうなっていたかは分からない。N-TECが最新の空力学や風洞を利用して開発するレーシングカーには定評がある。ただし、八郎がシュナイダー・トロフィーにのめり込みすぎて二宮飛行器を傾けたことから、N-TECはF1への参戦だけはしないと設立当初に宣言、その後も事あるごとに言及している事から、今後もその気はないのではないだろうか。八郎自身、「F1とル・マンだけは止めてくれ」と伝えていたと実しやかに伝わっている。
閑話休題
戦時中、他の航空機メーカーが多種多様な機種を開発したのに対し、二宮は二式戦闘機と局地戦闘機「震電」以外に直接開発に携わった機体は存在しない。
たしかに、複雑精緻な二式戦闘機のエンジンの生産は難しく、構造自体は量産向きの機体でありながら、整備性はともかく、様々な精密機器によって構成された操縦系統の影響で機体の生産も難しくさせていた。
それでも3000機も生産したのだから驚異的だった。
震電については既に敗色濃厚な時期の採用で生産自体が思うように進まず360機程度しか生産できていない。
戦後すぐにジェット戦闘機を開発できたメーカーにしては首を傾げたくなる業績ではあるが、二式戦闘機や震電の技術は米国において戦後、様々な開発に応用されており、その技術使用の対価として、米国から技術を得たのではないかと言われている。
最後に、二宮グループの商品展開についてだが、今でもシュナイダー・トロフィーとのかかわりを持っており、使用される機体の一つに二宮製が指定されている。空のF1と呼ばれるエアレースにおいても二宮機が使用されており、これらの搭載エンジンはN-TECが製作したものが搭載されている。
それ以外にも米国やオーストラリアなど、軽飛行機市場では多くの二宮製軽飛行機が利用されており、当初は二宮飛行機がレシプロエンジンを製作していたが、今ではN-TECに一任している状態である。
旅客機部門や軍用機部門においてはナノセルロースという新素材の研究を推進する立場におり、旅客機や戦闘機への応用研究もすでに始まっている。
電子機器部門においてはF-3での成果を更に進めて次世代アヴィオニクスやアンテナの開発が行われ、一部はすでに実験機での試験も行われている。
エンジン部門においては、フランスのスネクマ社と次世代エンジン開発にしのぎを削っており、その技術力は米英企業より頭ひとつ抜け出していると言われる。
こうして見て来ると二宮飛行機という企業は二宮八郎亡き後も世界の最先端に位置し、様々な事業を展開している。
個人の突出した才能だけで成し得たのであれば、八郎が未来人だったと言われるのであろうが、個人ではなく、企業それ自体が他から隔絶したモノを有しているからこそ、二宮は未来企業といった話がオカルト界隈を賑わしているのではないだろうか。