夢へ賭けた情熱とその遺産
多くの犠牲を払った第一次世界大戦が終わると戦後処理が行われていった。
その過程で当時渡英していた二宮八郎は欧州各地を回り、多くの知見を得たという。そして、ドイツにおいてカール・ガスト技師に巡り合い、二宮へ招聘している。彼については後述するとして、八郎は欧州滞在時に、各地で行われるエアーショーやレースを見る機会を持った。
そして、彼自身も出場について様々な大会へと打診をしたが、彼がニノミヤであることから警戒され、出場は自社の航空機によることという条件が付けられていたという。
そうした事もあって、1922年には一度帰国したが、やはり、欧州における飛行機レースが忘れられない彼は、シュナイダートロフィーへのエントリーを行う。そして自ら1923年大会へと出場したのである。
彼は二宮式飛行艇を独自にチューンした十二年式飛行艇を駆って出場するも、前年よりさらに速度を上げた上位勢にはまるで歯が立たずに惨敗を喫してしまう。それでもニノミヤの出場に注目した各国、各メーカーは参加常連たちに食い下がるその飛行性能を見て改めて二宮の技術力を確信したと言われている。
翌24年大会に出場した八郎であったが、前年よりさらに性能を上げた英米の機体に追随できずに予選の時点で棄権を表明している。
もともと初出場であった1923年大会では「何も分からない状態での出場で、24年大会においても、ようやくわかりかけたという段階であった」と、後に述べているように、多くの物が手探りであった。
早々に棄権した24年大会だったが、必要なモノを見付けたとばかりに、この年には出光商会に声をかけ、独自の潤滑油や燃料開発を依頼している。
こうして翌年、25年大会に臨んだ時には、それまでの飛行艇を捨て、他の出場機同様、水上機を新規に製作して投入することになった。
予選を難なくこなした二宮十四年式だったが、何とか決勝を飛びきったものの、着水直前にエンジンが止まるトラブルに見舞われている。あわや大惨事という事態だったが幸運にも無事に着水し、時速370kmという優勝ではないにしても堂々とした記録を残している。当然だが、この当時、二宮以外の日本メーカーにこのような機体を作る技術は存在していなかった。
このトラブルの原因は潤滑油の不良だった。
本来なら、出光を外して他の協力者を探すところだが、出光も二宮もその様に考える事は無く、その原因究明と対策に注力していく。
しかし、年末に天皇崩御という事態となり、大事を取って1926年大会出場は見送られることとなった。
この26年大会においてイタリア機が優勝をさらい、400kmという新たな峰がそこまで迫っている事を実感した二宮ではエンジン開発や潤滑油の開発、更にはより高出力を目指した燃料の合成にまで手を出すありさまだった。
ただ、世の中には不景気の波が押し寄せようとしており、いつまでもレースという遊行に無駄金を費やすべきではないという目が二宮や出光に向けられていくことになる。
そんな中で出場した27年大会では英国機が400kmを遥かに超え450kmを突破するという驚愕の大会となったが、二宮も負けていなかった。さも当然のごとくそれに追随して447kmを叩き出す快挙を挙げている。だが、やはり耐久性は他国機ほどではなく、25年大会と同じトラブルに見舞われてしまう。
「ありていに言って、全く余裕のないギリギリで戦っていた。途中、僅かなミスがあればそこで墜落してもおかしくなかった」
27年大会を振り返って八郎はそう述べている。
その後、大会が隔年開催となり開発に余裕が生じると、二宮と出光は耐久性と更なる高性能を両立する潤滑油と燃料の開発に邁進した。当然、エンジンは当時の常識をかけ離れたものとなり、到底民間機はおろか軍用機としても使える代物では無くなっていく。まさに、シュナイダー・トロフィー専用だった。
そして来る29年大会において、二宮はついに526kmという前代未聞の記録を打ち立てたが、その喜びもつかの間、あっさり英国機が528kmを叩き出し優勝をさらわれてしまう。
せっかくの成果が一瞬にして潰えた事に落胆することなく、次回へ向けた更なる暴走が行われることとなった。
その暴走は留まる事を知らず、完全に当時の日本の技術レベルを超越していた。当然、それは冒険という言葉ですら足りない、いうなれば暴挙であった。
ただ、それでも彼らはその暴挙を止めることなく、様々な方面から批判を浴びながら、新たな専用機の開発に邁進した。
すでに軍用機として整備することすら端から無理で、空軍戦闘機が専用機一機分の費用で何機作れるのかと計算しなければいけないレベルだった。
それでも彼らは31年大会へ出場した。
「マッキのメカがヘボだった。すべてはあれに救われた」
八郎は後年、そう言って憚ることなかったという。
そう言って誰も批判しないだけの事をやり遂げた。たったその一言と言えた。
そう、とうとう優勝したのである。それも圧倒的な差をつけて。
この年の優勝候補であった英国機は547kmという圧倒的な性能だった。が、それもつかの間、二宮はさらに上を行く562kmを叩き出し堂々の優勝を飾る。
この優勝によってそれまで冷めた目で見ていた日本での評判が変わった。この年、陸軍が満州において中央の命令を受けずに独断専行による満州事変を起こしたのだが、そんな事すら世間では相手にしなかったほどだった。
ただ、それはあくまで国内での話。海外ではそういう訳にもいかなかった。
次なる33年大会においては、本来優勝国が開催地となるはずが満州事変の影響で英国開催となってしまう。
そして、二宮にとっては更なる衝撃が襲った。
新たな機体を投入した二宮だったが、まるで歯が立たなかった。
「今日のマッキはおかしいんじゃないか?」
会場の誰もがそう叫んだ。なにせ、それまでの記録がまるで児戯の様にかき消されてしまったのだ。この時の二宮の記録が597kmなのだが、イタリア、マッキの出した記録は642kmだった。誰も追いつけてはいなかった。英国は二宮と競り合う状態で、米国は途中であきらめ、仏はそもそも出場したという以外に見るべきものが無かった。
翌年、イタリアにおいてマッキの改良型が709kmを記録するに至り、シュナイダー・トロフィーはその役割を終えたとして速度記録という当初の目的から、長距離飛行や区間タイムを争う全く別のモノへと趣旨が大きく変わっていき、二宮も参加を取りやめてしまった。
ここで得た成果は大きなものだったと言える。ただ、二宮はあまりにも無理をし過ぎていた。
あまりにも過剰にシュナイダー・トロフィーに傾注しすぎたために二宮飛行器の経営は危機に瀕しており、次回大会の趣旨が変わったことで支援者も二宮を離れてしまう事態が起きていた。
結局、経営立て直しのために5年にわたって大きな事業を行うことが出来なかったために当時、空軍や海軍が示した要求に対して二宮と他メーカーの技術力さは大きく縮まっていた。
力の大半をシュナイダー・トロフィーに傾けた事もあって国内最大市場であった軍需をほぼ失った状態からの再起は非常に苦しく、有名な海軍の96式艦戦や空軍の97式戦闘機は二宮がまったくかかわっておらず、戦争初期に活躍した零式艦戦や一式戦闘機の対抗馬を完成させる事すらできなくなっていた。
この事態に二宮を支えたのは、八郎が招聘したカール・ガスト氏だった。
1922年に彼を迎え入れ、新たに二宮銃器製造を設立して火砲分野へも進出した二宮は、彼の技術力もあって大きな成功を手にしている。
彼は独自のガスト式機関銃の改良と共に、自身の機関銃に必要な技術力を日本に定着させることにも腐心している。
そうした事から多くの技術が彼よって日本にもたらされ、二宮に限らず広く普及することになった。
そうした中でまず、八郎のレース病をよそに、戦闘機用航空機関銃としてガスト氏が開発した89式航空機関銃が海空軍で採用され、それを陸上、艦載用に改良した92式重機関銃や高角機銃が陸海軍において採用されている。
さらにその後の口径増大に合わせて12.7mmや20mm口径の機銃、機関砲の開発が行われ、八郎が自社の先行きに不安を覚えていたころ、98式12.7mm機銃として海軍が、99式12.7mm機関砲、並びに20mm機関砲として空軍が次世代機関銃に採用し、当時採用された他社製戦闘機や攻撃機、艦載機に装備されていくことになった。
二宮自身がようやく空軍機の設計を本格的に行う頃には米国との関係が完全に決裂し、戦争が始まる直前の事だった。
二宮はシュナイダー・トロフィーでは自然吸気では出力が頭打ちになった事から現在の自動車がそうであるように、過給器の装備とその開発に多くの技術と時間が割かれていた。
その技術を生かして高高度性能を有した液冷エンジン開発や他社の空冷エンジンへの過給器供給を行う事から始め、速度競争において必要になる機体表面の成形、形状を導き出す空力学、必要な強度を算出する構造力学などの利点を生かした新時代の戦闘機の開発を意欲的に行うことになった。
ただ、如何せん、必要となる資源が足りなかった。更には戦争の拡大で必要とされた精度を確保するための熟練工も足りなくなっていった。
シュナイダー・トロフィーにおける無茶は平和な時代に無理をすれば資源や熟練工の囲い込みが行えたことで成し得たモノであり、戦時下の限られた環境では同じ暴挙を行うことは不可能だった。
それでも成果が無かったわけではない。
シュナイダー・トロフィーで大出力エンジンが確実にその出力を発揮できる点火装置が必須であったことから、二宮では電子機器に特化した二宮電機機器という企業も立ち上げていた。
この会社ではドイツが機械的に成し遂げたエンジン制御を一部電子化することにも成功しており、二宮が空軍の要求に応えて完成させた二式戦闘機に導入され、操縦士の負担を減らしていた。
さらに、機上通信の重要性が高まると、高性能無線機の開発も行っている。
戦時中に海軍から出された局地戦闘機、つまりは迎撃機計画にも応え、ガスト氏の遺産でもある二丁一対で連動して作動する30mmガスト式機関砲を完成させ、推進式の特異な先尾翼形態として完成させている。
局地戦闘機「震電」として1944年に採用された機体には精密な液冷エンジンではなく、中島製の空冷エンジンに二宮が開発した排気タービン過給器を備えて搭載した。
機体、タービン配置、冷却、どれをとっても戦前にシュナイダー・トロフィーで得た二宮独自の技術が投入されており、同じく推進式で開発された他社機がエンジン加熱でまともに性能が出せない中で、唯一何の問題もなく飛行することが出来ていた。
そして、搭載されたガスト式機銃も非常に優秀で、艦載高角機銃の後継と目されていたという話もあるが、実現はしていない。
さらに、無線機だけでなく、電探についても他を引き離す性能を持っており、東京大空襲をはじめとした多くの迎撃戦において、多数の米爆撃機やその護衛機の撃墜、撃退に活躍している。
二宮の開発した二式戦闘機や震電を調査した米軍もその技術力と適切な構造には舌を巻いたという話は有名である。