二宮飛行器の誕生と空軍創設
二宮飛行機を語るにはまず、その初端から話をしないといけないだろう。
二宮飛行機、いや、二宮飛行器を創業したのは二宮八郎の父、二宮忠八である。
二宮忠八は愛媛県に生まれ、入営後は香川県丸亀において衛生科に属していた。彼は幼いころより空へのあこがれがあったらしく、丸亀においても盛んに飛行模型を製作しては飛ばして実験していたと言われる。
そうした事を繰り返していた彼が上司に飛行器械について進言したのは日清戦争頃の事だったと言われている。しかし、軍ではようやく飛行船についての知見を得たという段階であり、未だ世界のだれも成功していない飛行器械について研究資金を出したり、軍内部での研究を認めるほどの余裕や理解は持ち合わせては居なかった。
そんな中でも忠八は様々な模型を飛ばし、有名な玉虫型飛行器の模型をゴム動力によって百メートル近く飛ばすことに成功した。
ただ、今に残る資料によると、仮に玉虫型飛行器を動力型ないし人力型として大型化したとしても、人が任意に操縦するのは困難だったというのが愛好家や専門家の一致した意見として存在している。
そのため、一時期言われていたような日本における初の動力飛行としてこの玉虫型飛行器を取り上げるのはいささか誤った見解だというのが主流となっている。
このことについて、忠八自身も後年その様に述べたことがあり、実際の動力飛行は公式にその飛行が認められている1908年のモノとしていたという。
では、このゴム動力飛行から約10年間にどのような進化があったのか、実のところ、それは生物学会でよく使われるミッシングリンクという言葉が良くあてはまる。
玉虫型飛行器を飛ばしていくばくも経たないうちに、忠八は全く新しい概念の滑空機を開発し、見事、その飛行に成功したという。
ただ、その機体は今、琵琶湖で行われる鳥人間コンテストのそれに近いモノであり、実用的な滑空機であったという訳ではない。
しかし、そこから更なる改良を加え、日露戦争直前には気球とそん色ない滞空能力を示すようになっていたという。
この頃すでに陸軍においても二宮を支援する動きが始まっており、まずは丸亀において有志が彼の研究に協力していた。時の上司も彼の飛行器に理解を示し、陸軍をあげての支援のために働きかけを行っていたことが記録にも残っている。
そして、事態が大きく動いたのは1907年の事だった。
誰もが知るライト兄弟の動力飛行だが、当初はあまり注目されるものではなかった。そのため、日本では報道される事が無く、欧州において俄かに動力飛行機の飛行が行われ出したことが伝わって初めて、その事態を知ったのだと言われる。
当然だが、陸軍においては二宮忠八を支援するグループがすでに出来上がっており、彼の滑空機は既に世界に誇れる性能を示しているという自負を皆が持つに至っていた。
この滑空機、実は、素材こそ炭素繊維やグラスファイバーに置き換わっているが、外観は大きく変わらないものが1907年に、すでに飛んでいたと聞いたら驚きはしないだろうか?
「空力学の発展によって、少なくとも第一次大戦期以降の技術によって昨今の滑空機の原型が完成したのだ」
そう、誰もが教わったはずである。多くのグライダーに関する解説においてもその様に説明されているのだが、事実、1907年に、今と変わらない完成された滑空機を二宮忠八たちは作り上げていたという。
ただ、残念な事に現物や資料によって確認できるのは1915年の事で、それ以前については、忠八や八郎など二宮飛行機に関わった人物の証言によってしか確認が取れてはいないため、疑問視する声があるのも確かである。
しかし、その証言を裏付けるかのように、1908年に飛行した二宮式飛行器は既に完成された飛行機の姿をしている。
1908年当時、未だに経験や感に端を発した理論によって制作が行われていた欧米の飛行機と比較し、あまりにも先進的だったことは間違いない。
ただ、二宮式飛行器において唯一不思議なのは、後に一般化する機首へのエンジン搭載を行わず、初期のスピードレーサーに採用された翼上への発動機設置がなされてることにあろう。
特に、少年期の八郎が機体を赤く塗りたいと強く主張しており、しきりに機体に「紅」と落書きしていたことはよく知られている。実際、後に彼がスピードレースに出る際には、この二宮式飛行器をモデルとして作り上げた飛行艇によって出場した事はよく知られている事だろう。それだけ当初より優れた性能を持っていた機体であるという証左でもあった。
日本において、いや、日本陸軍において1908年に動力飛行が成功すると、翌年、海軍は海外から飛行家を招いて飛行実演を来ない、海軍軍人への操縦教育も行い対抗する姿勢を見せていた。
確かに陸海軍はこの当時、何かと対立関係にはあったが、陸軍、特に飛行器に関わる者たちにとっては、わざわざ自国が飛行器を製造できるにも拘らず、海軍が海外勢を招き入れるのは本意ではなかった。
そのため、1911年には二宮忠八や彼を支援した陸軍、あるいは民間の者たちは二宮飛行器を設立し、陸海軍の隔たり無く飛行器を販売し、操縦士の育成に協力していく姿勢を表明している。この少し後には海軍からも中島知久平が飛行機会社を設立してそのあとを追いかける姿勢を見せている。
こうして日本においても飛行機産業が花開いたのだが、その平和は長く続く事は無く、1914年には第一次世界大戦が勃発し、日本も戦争へと巻き込まれていった。
この時、青島攻略のために初めて偵察機が投入されたのだが、これが二宮が製作した二宮式水上飛行器だった。
海軍は当初、ファルマン水上機を導入したのだが、二宮の機体がけた違いに高性能であったことから二宮機へと切り替え、青島には1機のファルマンと3機の二宮が投入されている。
二宮機にはこの時点ですでに機銃が装備され、初歩的ながら空中戦や対地掃射なども行う事が可能だった。
このように、世界的にも先進的な機体を有した二宮だったが、日本は中国大陸や太平洋におけるドイツ領の占領を終えると軍事行動を停止してしまった。
この時、飛行器研究を始めていた八郎はしきりに欧州参戦を主張していたという。
彼の主張が叶うのは1917年の事で、まずは海軍が地中海に護衛艦隊を派遣したが、陸軍は動かなかった。
ただ、海軍の活躍が耳に入ると何もしないというのは如何なものかという声が陸軍内にも出始め、当時、欧州の空において新しい英雄が盛んに報道されるのを目にした彼らは、飛行器の欧州派遣を主張するようになった。
陸軍は当初、欧米での飛行機開発について、国内でも引けを取らない技術があると盛んに宣伝した結果、慎重派も派遣の動きを押しとどめることは出来ず、欧州からの要請に応じる形で飛行部隊を送り出すこととなった。
ただ、一度出してしまうと小部隊での派遣では済まなくなる。なまじ、欧州においてもニノミヤの名が知られ、機体性能もそん色なく、すでにプロペラ同調機銃を装備しているとあっては、更なる追加派遣の要求が止むことは無かった。
しかも、それだけではなく、欧州の空というのは僅かな部隊派遣で維持できるものではなく、早々に戦死者を出し、生還した操縦士への機体の供給も必要となっていた。
こうなってしまえば後には引けず、陸軍は次々と部隊を増強していくのだが、ここにきて陸軍においては大きな壁に突き当たることとなった。
飛行部隊を欧州に送り、整備や基地警備の兵員も送り出している。そうなると、敵から部隊を守る更なる大規模な地上部隊の派遣が必要ではないのかという要求が欧州から起こり、陸軍内においても論議されるようになった。
すでに飛行部隊の派遣で欧州の惨状を目の当たりにし、そして体験してしまった陸軍では、特に当初から慎重だった元老を中心に、事の重大性を危惧し、英国に倣って陸軍飛行隊を一つの軍として分離し空軍としてはどうかと主張するようになった。
これには慎重派重鎮から多くの賛同を得、急転直下空軍が発足するという事態となった。
ただ、英国と異なり事態に海軍は関与しておらず、海軍飛行部隊が空軍に吸収されるという事態には至っていない。ただ、海軍としては新たな組織が陸軍の外郭団体として機能しては困るという考えから、建前上憲法問題を盾にした反対意見が出され、憲法に陸海空軍の文字が書き加えられるとともに、1912年に陸軍元老が起こした倒閣騒ぎを念頭に、軍と政府の在り方についても新たに整理されることとなった。
このようにして空軍が勢い発足し、その体制が整った頃にはドイツにおいて革命がおこり、戦争は一気に停戦へと向かう事となった。
陸軍においては飛行部隊の分離を急ぎ過ぎたとの批判も出たが、すでに憲法まで書き換え空軍を創設するという重大事に至った手前、すぐさまそれを誤りだったという事も出来ず、ただ現実を受け入れるしかなかった。
そうした国内のゴタゴタが行われていた最中、欧州へ渡った飛行部隊は12連隊に達し、最終的に千人を超える戦死者を出すこととなっていた。