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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
輝ける戦後のために
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輝ける戦後のために

 二宮飛行機と言えば世界に冠たる日本の航空機メーカーである。世界の旅客機の5機に1機は二宮製と言って差し支えない。

 そして、航空自衛隊の誇るステルス戦闘機F-3の開発メーカーでもある。


 そんな二宮飛行機の歴史は100年前にさかのぼる飛行機メーカーとしては老舗中の老舗と言って良い。

 

 そんな二宮飛行機のもう一つの顔が、オカルト界隈で有名な未来の会社伝説である。


 まず、戦後の機体から見てみよう。


 戦後、航空機開発が解禁されてすぐに、二宮飛行器は社名を二宮飛行「機」へと変更し再スタートを切ると、当時、航空自衛隊が採用していたF-86にかわる後継戦闘機計画を発表した。


 当時、日本はおろか世界中がその発表をただの懐古趣味や自意識過剰と否定的な目を向けるのだったが、当の二宮飛行機は至って素面だった。

 今、その時発表された計画値やイメージ画を見ても、時代相応の機体であり、ケチの付けようがない。


 ただ、当時の二宮飛行機には超音速機の製造経験はなく、ジェット機すら一度も作ってはいなかった。おかしくは無いだろうか?


 後の二宮飛行機を知らなければ、確かにこれでは否定したくなる。


 ところが、あれよあれよという間に試作機を作り上げてしまった。


 当時、自衛隊で運用していた全天候型戦闘機F-86Dを大型化したようなデザインで、一見米国のF-8を思わせるものだった。


 ただ、大きな違いはF-8やFー86が後退翼なのに対し、二宮が開発したF-1はデルタ翼だったことだろう。

 さすがにエンジンまで自社製とはいかず、米国製ライトJ65を双発で搭載していた。

 本来なら更なる高出力エンジンを二宮は望んでいたが、その要求に応えてくれる企業は無く、泣く泣くこのような選択になった。

 そのため、性能的には計画値に届くことなく、第二世代戦闘機としては凡作レベルの機体となったが、当初より多数の対空ミサイルの運用を考慮していたこと、そして、二宮が戦前から得意としたガスト機関砲を搭載し、火力面で満足できるものであったことから、自衛隊で採用されることとなった。当時、後継選定において比較された機体がマッハ2を誇るだけのF-104や小型のF-11というどっちつかずであったことも幸いしたと言われている。


 こうして地歩を固めた二宮飛行機は次世代戦闘機開発を早くも始めることとなった。


 そしてこの時、戦前、エンジン、搭載電子機器もすべて自製であり、戦後解体分散されていたそれら関連企業を再び連結させたことによって、すべてを二宮グループで製造するという方針を打ち出している。


 こうしてまず開発されたのは民間機用ターボファンエンジンであり、旅客機だった。二宮ミドルジェット、通称NMJの開発はいくつかの壁がありながらも比較的スムーズに進み、1975年には初飛行に漕ぎつけている。

 この頃すでにYS11が飛んでいたが、あちらはプロペラ機であることを考えれば、世界的にも早い時期に開発、実用化されたターボファン旅客機という事で世界中から注目され、多くの顧客を得ることが出来た。


 NMJの成功によって技術的蓄積と資本を得た二宮は粛々と進めていた戦闘機開発を本格化させ、1977年には早くも初飛行に漕ぎつけている。


 おりしも第三次FXの時期であり、なんと、当時最有力と言われたF-15を押しのけて採用されるという快挙を成し遂げることとなった。

 当然の様に様々なうわさが取りざたされることとなったが、そこには何も出てはこなかった。


 F-15を押しのけるほどの性能を二宮が達成できていたのかというと、実際、それを成し遂げていた。ただ、F-15が一人乗りであるのに対し、F-2は当時の主力機F-4同様、2人乗りの機体だった。


 この点から、様々な陰口を叩かれることにはなったが、二宮らしくデルタ翼を継承し、カナード翼を設けた当時最新の設計思想の機体であったことは世界から注目されることとなる。


 この機体の最大の特徴は、大出力ターボファンエンジンを双発で搭載する大型機である事、そして、巨大なレドームを持ち、高出力レーダーを搭載し、長距離対空ミサイルの運用を可能としていた。

 まさに、自衛隊が求めたツポレフキラーだった。当然ながら、そのエンジン出力とカナード翼の恩恵もあって、F-15とそん色ない運動性も兼ね備えており、後の日米演習においてその性能を米国も認めるほどだった。

 ただ、悲しいかな、大型の機体であるがために非常に高価で、しかも輸出も出来ないことから更なる価格高騰を招いていたのだが、当時、F-86が担っていた支援戦闘任務も負わせるという事となり、2人乗りという利点もあって、空対艦ミサイルを運用する対艦攻撃任務や爆弾を運用する対地支援任務も行う事に何の問題も無かった。

 そのため、最終的に312機という多数配備が行われることとなった。後にF-15が戦闘爆撃機型F-15Eを誕生させている事を考えれば、F-2に先見の明があったと言えなくもない。


 F-2はその後も逐次改良が施され、21世紀を迎える頃にはそれまで頑として認められなかった対地誘導兵器の運用にも着手し、今ではF-15Eとそん色ないマルチロール戦闘機へと変貌を遂げている。


 そして、二宮は米国でステルス機なる新たな機体の開発が行われているという情報が飛び交う中で、自身もステルス研究を行っている事を公表し、1997年にはステルス実験機の飛行に漕ぎつけている。この年、ステルス機の飛行に満足したように日本の長寿番付上位に名を連ねた二宮飛行機二代目、二宮八郎が亡くなっている。


 彼の志を引き継ぐように、二宮飛行機の開発陣はステルス機の実用化に心血を注ぎ、その素材モデルともいえる二宮ネクストジェット通称NNJの販売を開始した。


 NNJはそれまでのNMJからすべてを一新し、炭素繊維をふんだんに使い、高効率エンジンを搭載した新世代中型旅客機だった。

 それまでのNMJのシェアや評価も後押しし、NNJの販売も好調な売れ行きで、まるでF-2開発の時同様、旅客機の波に乗る形でステルス戦闘機開発を推し進め、2009年には後継戦闘機の座を射止めることとなった。


 この時、米国においては日本側がF-3の対抗馬と目していたF-22の輸出を許可するかどうかで大統領と議会が鋭く対立し、議会が禁輸を決定した事によってほぼ自動的に採用が決定したと言われている。

 ご存知のようにF-22は制空能力に特化した機体であり、仮にF-22が採用された場合でも、F-3はマルチロール機として採用されていたとも言われている。

 事実、F-3はF-2で実現した長距離対空ミサイルの継続採用や空対艦ミサイルの搭載を前提に、大きな兵装庫を備える関係で、YF-23に似た外見となっているため、F-2の様な高い運動性が無いのではないかと一部で批判する声も聞かれるという。


 ただ、二宮自身、その点は気にかけていたようで、対艦ミサイルや対地誘導兵器の運用を前提とした光学センサーに付随して全周監視システムを備え、さらにF-22を遥かに超える編隊データリンクによって、運動性によらずとも高い迎撃能力を得るシステムを開発している。

 おりしも、ほぼ同時に開発が始まった米欧のJSF計画のそれに近いモノで、2019年現在、米海兵隊が日本にF-35を展開し、ステルス機同士の訓練を行う中で、同等以上の性能があることが漏れ聞こえてきている。


 さて、戦後の二宮の発展を見て大きな疑問は無いだろうか。


 二宮は戦後、ほぼゼロからジェット開発を行ったにも拘らず、全く時代に遅れることなく、それどころか確実に時代の先が見えていたと思える開発を行っている。


 さて、それが何故なのか、二宮飛行器の成り立ちからおさらいしてみたいと思う。


 

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