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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
海鷲の巣
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海鷲の巣・1

 雲竜型航空母艦といえば我が国の戦時量産空母としてよく知られている。

 戦時中の空母戦力を支えた事で、戦後にもその名前を残し、大和型戦艦と共に有名である。


 今から10年前、ひゅうが型軽空母が就役した際には、周辺国から「雲竜型の再来」として多くの批判も浴びている。

 ひゅうが型と雲竜型には何の関連性もない。あえて、その類似性を上げるならば、煙突が艦橋から海側へ傾斜した構造となっており、艦橋構造物の前後にバルカン砲や対空ミサイルという、対空兵装が装備され、飛行甲板が艦橋を避けるために艦中心線より大きく左にオフセットしているところだけではないだろうか。


 もちろん、その様な細かな指摘は批判の中身を理解したモノとは言えない。彼らや国内の反戦派が行っているのは、戦時中、7隻という大量建造に成功し、1943年からの2年間、主要な海戦において活躍した事から、戦後初めて空母型艦艇を就役させたことへの揶揄としてそう叫んでいると見るのが正しいのではないだろうか。



 さて、そんな雲竜型空母だが、その経緯を今更語るのはどうかとも思うのだが、あえて、触れてみようと思う。


 

 雲竜型空母の原案となったのは、後の蒼龍となる空母計画に対抗する形で出された原案である。


 この時、蒼龍の原案自体が航空巡洋艦を志向していたが、雲竜型の原案となった大西試案では、空母の艦橋構造物に14センチ連装砲を3基装備し、肥大化した艦橋との重量バランスや航空機の安全な運用のために、飛行甲板を左舷へ大きくオフセットした特異な構造となっていた。

 これに近い形状をした空母として、フランスが計画したジョッフル級空母が挙げられるが、こちらは13センチ両用砲を装備しており、機能においては大西試案よりさらに先進的だった。


 1934年時点のおいて、蒼龍となるG9案では、主砲装備が排除され、小型の艦橋と龍驤で採用された海面へ湾曲させた湾曲煙突を持つ、戦前型日本空母の雛型として完成している。


 この湾曲煙突について、空母の飛行甲板を有効に使うには合理的だという意見が大勢だったが、大西は被弾時に煙突が塞がる危険性を指摘している。

 もちろん、通常時や被弾時には湾曲煙突天蓋を開放して上方排気が可能となっているのだが、必ずしも被弾時に開放がうまく行くとは限らないという懸念を述べていた。


 彼は本来、蒼龍型2番艦となるはずだった飛龍についても、設計を改め自身の案を採用すべきだと懇々と述べていたという。

 もちろん、当時、海軍内で彼の意見に賛同するものは存在していなかった。


 そんな彼が日の目を見るのは、隼鷹型空母の設計においてだった。この時、装甲空母の計画が進んでいたが、飛行甲板を装甲化することから、重心位置低下のためにベースとなった翔鶴型より船体構造を一層低く抑えることになったため、湾曲煙突では不都合が生じることが懸念された。

 そのため、以前より大西が唱えていた斜め煙突型の艦橋を採用することが検討され、装甲空母に先立って1940年に戦備計画として空母改装を考慮して建造されていた商船を買収し、空母へ改装する際に先行して装備し、その評価を行う事となった。


 こうして設計、建造されたのが、隼鷹型空母である。


 この時、自身の案が採用された大西は喜々として喜んで設計陣を指揮したと言われている。


 今でこそ当然と思われる大西案の艦橋構造だが、当初はまるで違う形で設計されていたという。そのデザインは大西自身のイメージ図に見ることが出来るが、艦橋の上にさらに10m近い煙突が斜め上に聳え立っていたようだ。


 これに対して、大西は聳え立つ煙突が、当時研究中であった電波探信儀の搭載の支障になると主張し、艦橋とほぼ同高さで海側へ傾けた自身の改良煙突型の艦橋構造を採用するように強く主張していたという。


「そりゃあそうでしょう、当時、弟が研究していた電探はほぼ完成の域にあった、艦に載せるか載せないは、『電波行灯』などその技術を理解しなかった上層部の意向一つにかかっていたんですよ」


 彼は、戦後、雑誌の取材に対してそう語っている。


 これも今更ではあるが、大西親子は戦時中の海軍を語る上で外せない。


 父、大西倫太郎は海軍において突飛な発想と行動で知られた人物であった。第一次大戦に際しては、金剛型巡洋戦艦の英国派遣を主張した事もある人物で、その後は造船技術において藤本喜久雄を支持したり溶接技術の研究を積極的に推進しても居る。そして、1935年には、工廠能力増強を主張し、1937年には強引に建設計画をねじ込むことに成功している。1941年には、既に事実上引退していたのだが、航空行政への介入を未だ行い、半ば無理やりに搭乗員育成を軍令部計画の2倍に増やす決定を引き出している。

 このように、彼は第一次大戦では自己の力が生かせなかったことから政治力をつけることに努力し、1938年頃には、一大勢力を築くまでになっていた。しかし、息子たちへの過度な配慮や優遇は行っていない。

 

 長男である大西健太郎は飛行機設計者であり、開戦時には三菱において堀越二郎と並ぶ設計者と目されていた。

 ただ、この時点では単発機設計で非常にその優秀さが認められながら、堀越の次点に甘んじていた。


 そして、大西満賢は、造船技官として海軍へ入り、平賀や藤本の次代として頭角を現していた。彼自身は父の威光を振りかざす事は無かったが、良くも悪くも性格が似ており、過度に避けられるか持ち上げられるという当人にとっては面白くない立ち位置に居た。


 末弟の大西賢吾も技官として海軍に在籍したが、彼が担当したのは無線機であり、彼は独自にレーダー開発も手掛けていたとされる。

 彼は1938年にはすでに実用可能なレーダーを開発していたが、海軍においては受け入れられず、兄が興味を示している程度だったとされる。

 彼の成果が評価され、電波探信儀として正式に採用されるのは、シンガポール陥落以降の事だった。 


 



 

次回10月3日20時です。

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