ミサイル空母「かつらぎ」 2
海上自衛隊は悲願の空母導入に沸いていた。
しかし、実際に貸与された空母は戦時中の雰囲気を残した旧態依然とした姿をしており、アングルドデッキが存在していなかった。
運用するのは当面S-2だけなので問題ない。しかし、出来る事ならちゃんとした空母として運用したかったが、本来の目的は空母としての運用にあるのではなく、ポラリスミサイルの洋上プラットホームである。
そのプラットホームの破壊を狙って来る潜水艦を寄せ付けないために対潜哨戒機を積むのであって、航空機運用に意欲を燃やすのは艦の目的からは外れるものであった。
元々がミサイル潜水艦の開発遅延によるピンチヒッターとして再就役を果たしており、空母としての能力を期待しての就役ではないため、艦橋より前はミサイル区画と言う扱いで、発艦作業こそ考慮されているが、前部エレベータはミサイルランチャーを配置する関係から撤去され、当然ながら格納庫も潰され、ポラリスミサイルに関わる設備を配置していた。
その様な事から改修内容自体が早期の就役を目指してアングルドデッキを備えることなく完成されているので、海上自衛隊が考えた空母運用は自ら巨費を投じて行うしかないが、それはポラリスミサイルの撤去なしには実施できず、ミサイル運用艦として貸与されたことを考えれば不可能な話だった。
米軍はA-5攻撃機を核武装で発艦させる事は考慮に入れたが、あくまで発艦のみで帰投は陸上基地を想定していた。
この事から、後にS−3艦上哨戒機の運用が実現したが、良かった事はそれだけであった。
こうして全く自由にならない空母に頭を抱える海上自衛隊。
しかし、彼らの苦悩はそれだけにとどまらなかった。
ポラリス艦を運用するという事は、ソ連が爆撃機に搭載して運用する核対艦ミサイルの脅威に直接さらされるという事でもあった。
こうなると海上自衛隊が構想していた対潜部隊の整備など出来ようはずもなく、まずは何を置いても空母を守るタータ―艦(防空システム艦)の整備が優先され、その予算を捻出するために影響は陸空自衛隊にまで及ぶことになってしまう。
もちろん、陸空自衛隊が素直に了承するはずはない。
もはや戦前に戻ったかのような対立が表面化し、そこに核武装反対を唱える野党までが絡んでくることになった。
だが、一度核を手にしてしまった事で政治は放棄という言葉を口にする事は無かった。
もちろん、発射コードは日本だけでなくアメリカの承認も必要な二重鍵となっており、起爆はアメリカしかコードを手にしていないと言われ、仮に日本側が勝手にミサイルを発射できたとしても、弾頭が起爆することはないというのが常識であった。
政治が海上自衛隊の後押しをしたことからタータ―艦の建造が決まり、防衛費も大幅に増額されることになったが、航空自衛隊は第三次F‐Xにおいて選定から高額なF-14、F-15を除外する措置を行い、後にF−16を採用する事になり、ポラリス運用シフトの犠牲となっている。
しかし問題はそれでは収まらず、オイルショックによる不況からターター艦整備に必要な防衛費増額が困難になると陸上自衛隊にも矛先が向けられ、部隊を大幅に縮小して10万人体制へと縮小する事となった。
こうして防衛計画の大幅な変更を行い何とかタータ―艦8隻体制を確立し、空母の防空が完成する見通しが立ったが、それ以外の艦艇整備はとても満足の出来るものではなくなってしまう。
空母の護衛を目的としてタータ―艦8隻を揃える関係から護衛艦隊へ配備すべき大型護衛艦の建造が不可能となり、小型護衛艦をもって護衛艦隊を編成するという苦肉の策を取るしかなくなってしまう。
こうして何とか空母部隊の整備が整う目処が立った1980年、新たな問題に直面してしまった。
多角化核戦略自体がミサイル潜水艦の整備が整った事で陳腐化し、核拡散防止条約との兼ね合いも相まってイタリアが離脱。米ソ雪解けの時期と重なって日本へ厳しい目が向けられることになったが、だからと言って「かつらぎ」の返還を口にするほど素直になれないのが日本政府である。
せっかく手に入れた核である。そう簡単に手放す事など出来なかった。
折しもヨーロッパではソ連が配備した中距離核ミサイルが問題となっており、政府はそれを理由に戦略核としてではなく、戦術核として、日本政府はこれを地域核と呼称し、存続を表明している。
こうして核放棄を先延ばしし、核拡散防止条約にもオブザーバーとしてのみ参加するという態度を取ったことで中国からは激しい批判を受ける事になるが、政府は敢えて米中国交正常化の時に使われた「首輪とリード」論を中国へと語りかける事で対抗した。
「首輪とリード」とは、ポラリスミサイルと言う首輪を嵌める事で日本が独自の道を歩まないように監視する。さらに、起爆コードを米国が持つことで日本が勝手に核を使えないように繋ぎ止めることで中国の懸念を払しょくするというものだった。
中国とすれば自らが認めた事を訴えられては返す言葉も無かった。
なんとか中国の反発を和らげることには成功した日本政府だったが、欧米諸国が中国と国交を樹立していく中、日本だけが取り残され、西ドイツやアメリカの企業が中国へと進出、軍事だけでなく民間事業にも手を広げる中、ただひとり指を咥えてみているしか出来なかった。
もちろん、特殊関係にあるいくつかの企業は中国との貿易を行うことは出来たが、中国政府は市場開放と核放棄がセットであると言って譲らず、国交正常化交渉も平行線をたどるばかりになっていた。
もし、日本が核武装なり核共有なりをするならば、この時期を置いて他に無かっただろうと思う。
この時期ならば米国の力は絶大なので、日本が米軍の肩代わりを云々と言う話は出なかったかもしれない。
それに対して今現在、核共有などと言うならば、まず間違いなくアジアにおける米軍の肩代わりは必須になるだろうね。
日本の核武装論者はそれが分からずに古い理想論に取り付かれてるんだよ。おまんらの理想は70年頃なら実現できたかもしれない。が、21世紀も四半世紀が過ぎた現在、不可能な妄想になっちゃったんだよ。




