表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
チハTank伝説外伝
12/130

老兵は死なず

 三式戦闘機飛燕と言えばターボプロップと言われるのは後の話であり、当初は水冷エンジンだった。1941年12月に初飛行を行い、その試作機は当時としては驚異的な時速590kmを叩き出して陸軍を驚かせたが、1942年に実戦装備を施した量産型が飛んだ時には時速560km前後に低下していた。


 当時、陸海軍の主力であった零式艦上戦闘機や一式戦闘機隼に比べれば、量産型でも最高速度では優っていたが、それ以外の性能は劣る有様だった。

 何より、水冷エンジンという事で当時の主力戦闘機に対して重量過大でありながら、出力は同程度のため、空気抵抗が少ない分最高速度は出るのだが、上昇能力や旋回能力などは大きく見劣りし、そのことは大きく問題となっていた。


 開発元であった川崎において、エンジンを高出力な新型にするための研究、開発が行われていたが、その成果は芳しくなかった。


 同じベンツ製水冷エンジンを導入し国産化した愛知ではすでに高出力型が試験を行っている状態であるにもかかわらず、川崎ではその試作に難航していた。


 両者の違いは企業としての技術力だったようで、片方が出来たからもう片方もという訳にはいかなかった。


 では、愛知のエンジンを飛燕に積めばよいと思うが、事はそう簡単ではない。確かに、愛知も川崎もベンツ製エンジンのライセンスを有していたが、それは三菱と中島がP&Wのワスプエンジンをベースに金星や栄を開発したのと同じく、もとはベンツDB600だが、川崎のハ40と愛知のアツタでは自社の独自開発により別物と化していた。エンジン架を作って載せれば済むというほど簡単ではなかった。


 そして、もし、飛燕にアツタを載せるとなると、アツタを選定している海軍機からエンジンを奪う事にもなる。

 KAIZENの浸透した軍部において、性能不足な機体が他の優秀な機体からエンジンを奪い、生産の負担を生じさせるなどあってはならなかった。そのような場合、飛燕は生産中止という決定に至ることになりかねない。そのため、川崎ではどうにか自らエンジンを作り上げるしか選択肢が残されていなかった。


 しかし、1942年後半になると更なる事態が訪れる。


 開戦によって戦闘機の損耗は激しく、生産を拡大させる必要に迫られたのだが、多種雑多な乱造では生産効率も整備効率も低いというKAIZEN思想によって、機種の統廃合の話題が持ち上がってきた。生産の集中という事で、性能的に見るところが無い飛燕は、制式化直後に生産中止の悪夢が目の前にもたげてしまう。戦時であるため悠長に新型エンジンの完成を待ってはいられない。かといって、海軍が使うアツタ、或いは陸軍内において他機種が使う空冷へと変更することもままならない。KAIZEN思想にかかれば、「そんな駄作はさっさと切れ」という結論しか出てこない。


 確かにKAIZEN思想は日本の工業力を飛躍的に高めることに貢献はしたが、事、戦争となれば、その鋭利な部分がより先鋭化してくることとなる。KAIZEN思想では無駄は切り捨てられる。平時なら研究などの目的で許されたことも許されなくなってしまう。特に損耗が激しい航空機となればなおさらだった。


 水冷エンジンはハ40かアツタしかない。しかも軍には僅かな機種しか採用されていない、そもそも、水冷エンジン機自体がKAIZEN思想からは「効率化の上での障害」とみなされるようになってきていた。それがもし、海軍の艦爆彗星の様に性能が良い、他に替えが無いというならまだしも。飛燕の場合、低空域なら隼で良い、迎撃には鍾馗があるという状態だった。もちろん、現状ではいずれかを押しのけてその座を奪える存在でもない。


 1943年初頭には飛燕を生産中止として川崎には他社機の生産委託を行う事が水面下で話し合われていた。

 川崎社内、そして陸軍技術本部において、それを良しとしない勢力が居るのは当然で、彼らは起死回生策を探し求めていた。

 そんな折、技術本部において提案されたのが、当時、使い道のなかった実験用ジェットエンジン、ネ20をベースとしたターボプロップ発動機の開発だった。

 日本におけるジェットエンジン開発は1938年に舶用ガスタービンからの技術転用として開始され、瞬く間にネ20の完成へと至るのだが、推力600㎏では使い道が無かった。更に発展させ、十分な推力を持たせる事へと力がそそがれていたのだが、その基礎技術を作り上げたネ20はいわば、この時すでに「枯れた技術」でもあった。

 舶用タービンの経験を活かし、その技術を小型軽量な航空エンジンに転用するために作られたネ20は1941年の完成以来、地上試験において十分な信頼性を示すまでに成熟されていた。


「舶用ガスタービンがあるなら、航空機用ガスタービンだって可能だ。舶用を重油や軽油で動かせるんだから、航空エンジンだってガソリン以外で可能なんじゃないのか?」


 そう考えた陸軍技術本部の技術者たちがネ20を改造して即席のターボプロップエンジンを完成させたのは1943年3月の事だった。

 この改造に際して、ネ20本体には手を付けず、後部の排気部分に軸出力用の駆動用タービンと減速機を取り付けて急ぎ完成されている。

 出来上がった試作エンジンはネ20に出力部を取り付けたため、全長が3メートルを超える大きなものだった。しかし、重量は僅かに670㎏でしかなかった。この改造エンジンの出力は2500馬力に達したが、そのまま航空機に搭載できるものではなく、あくまで実証機だった。


 ジェットエンジンの転用によって軽量高出力化が可能な事を実証した彼らは、改造と同時に設計を始めていた専用エンジンの試作に取り掛かり、これも僅か2か月で成し遂げてしまう。

 こうして出来上がったのが、ハ200系と呼ばれる世界初の量産型ターボプロップであった。


 ハ200はネ20の圧縮部を8段からわずか4段にまで短縮し、足りなくなる圧縮を遠心式インペラーを組み込むことで解決している。

 この発想は、日本のジェットエンジン生みの親である種子島氏が構想していた遠心式圧縮機によるエンジンの短縮化の応用だった。

 ジェットエンジンはタービンを何段も重ねることで圧縮を行うのだが、当然ながらそのためには圧縮部に長さが必要だった。対して、レシプロエンジンに使われる遠心式圧縮機を応用すれば長さを短縮できる。ただ、遠心式はいくつも重ねて圧縮するには向かず、一段とした方が効率が良かった。しかし、一段で必要な圧縮を得ようとすれば大直径になってしまう。


 そこで考え出されたのが、事前にタービンによる圧縮を行い、最後に遠心式を組み込む複合圧縮法だった。これによって圧倒的に全長を短くでき、ハ40に近い全長2メートルに抑える事が可能となった。直径はネ20の600ミリより大きくなったが、780ミリであるため、水冷エンジンからの換装が可能であった。更に驚くことに、エンジン重量はハ40よりはるかに軽く、570㎏しかなかった。その軽量さで開発が難航していたハ140を軽く超える1800馬力なのだから、川崎が飛びつかない訳がない。


 飛燕のハ200への換装は技術本部と連携して行われていたため、作業開始は1943年4月だった。試作エンジンが完成した頃には機体側の設計もほぼ完了しており、エンジン試験と機体への実装は同時並行で行われている。

 ターボプロップによる初飛行は1943年9月と非常に早かったのはこのためである。


 試験飛行において時速712km(高度8000メートル)を記録するなど、非常に性能が良く、装備を満載した状態ですら時速680kmに達していた。エンジンの性質もあり、特に高高度性能は他のレシプロ機の追随を許さず、本来意図していなかった迎撃機として採用されることとなった。


 こうして採用された飛燕Ⅱ型は鍾馗を生産中止に追い込むだけでなく、海軍の雷電や紫電と言った迎撃用の機体すらも生産や開発を中止に追い込んでいる。


 ただ、欠点が無かったわけではない。ターボプロップはタービンエンジンであるため、レシプロに比べてエンジンのレスポンスは非常に悪い。そのため、零戦や隼の生産は続けられ、栄に代わる新型エンジン、誉を搭載した制空用戦闘機の開発は継続されている。しかし、海軍の新型艦戦の開発は中止され、彗星のターボプロップ計画につられる形で計画が大幅変更される事態となったが、エンジンの特性と海軍の要求仕様が折り合う事はなく、結局敗戦までに完成することは無かった。



 こうして息を吹き返しただけでなく、迎撃機として他の量産や開発計画を潰してしまうほどの性能を得た飛燕の生産は順調に行われ、わずか1年で3500機もの生産数を誇る。遅れて制式化された四式戦闘機疾風と変わらない生産機数であり、エンジンの信頼性も高かったために各方面で運用されていたが、軽戦からの乗り換えでは様々なトラブルも起きている。


 特に、レシプロのようなレスポンスが望めないエンジンを無理に操作した事による墜落や被撃墜が多く発生したのは不幸な出来事だった。

 それでも、本気の特性を熟知した飛行第244戦隊などでは本機の高空性能や高速力を生かして爆撃機の撃墜や米戦闘機との空戦で多くの戦果を挙げている。

 飛燕は雷電や紫電の開発中止によって海軍でも局地戦闘機として採用されており、三四三空などで活躍している。


 太平洋戦争におけるこうした活躍の後、多くの機体は北方集団へ引き渡されることとなった。

 敗戦の混乱による燃料ひっ迫によってレシプロ機の飛行が困難になる中で、ターボプロップ機である飛燕だけは燃料を選ばずに飛び続けることが出来た。低オクタン価ガソリンでも、灯油でも、凍結防止剤さえ添加すれば軽油でさえ飛ぶことが出来た。

 そうした事から北方集団は飛燕の保有を第一として、6年にわたって樺太や千島の空を守り続けることとなった。


 サンフランシスコ講和条約により、日本にも再軍備が認められると、北方集団の飛燕が航空自衛隊の戦闘機として日本全国へと再展開し、米国から供与されたF-86が完全に戦力化する1958年まで日本の空を守り続けている。


 戦闘機としての使命はそこで終えることになったが、飛燕は飛ぶことを止めなかった。

 北方集団において航空機は殆ど飛燕一機種しかなく、新規人員の教育に非常な困難が伴う事となっていた。

 そうした中で米国による航空機製造の一部解除を取り付け、複座型飛燕が製作されたのが1948年の事だった。

 練習機としてエンジン出力を絞って運用されたることとなった複座型だったが、これが自衛隊における中等練習機としてそのまま採用されることとなった。


 ただ、尾輪式では都合が悪いという事で前輪式への変更が計画され、1954年の航空機製造全面解禁と共に開発がスタートしている。


 こうして飛燕は前輪式の新たな機体へと変更され、耐用寿命の延長も併せて大きく設計変更がなされることとなった。

 新規に製造された新生飛燕は、T-1練習機と名付けられたが、愛称は飛燕のままであった。

 エンジンもハ200を基に、耐熱金属の広範な使用が可能となった事でさらなる高性能化を果たし、TP2と命名されれいる。TP1の名称はハ200に与えられることとなった。このTP2は2500馬力の出力を有していたが、更なる改良で3200馬力となり、戦後初の国産旅客機YS11のエンジンにも採用されている。


 余談だが、YS11は国産エンジンに拘ったがために海外販売で苦戦し、大赤字を垂れ流すこととなったが、この時構築された北米での整備拠点は飛燕の海外販売に大きく寄与することとなった。


 北米において航空機は大企業や政府機関のみが保有するものではなく、民間での保有も多かった。川崎では小型ターボプロップTP3(600~1000馬力)に換装した飛燕の民間型を開発し、北米市場での販売を目指すこととなった。

 民間航空機の大半がよりローパワー、安価な機体であり、座席も並列式で多くは4~6人乗りであることを考えれば、誰もが川崎の挑戦は無謀だと思われていた。

 しかし、米国において、飛燕の識別ネームである「トニー」を知らない退役米軍人などいなかった。中には「ヒエン」の方がより知られていたとの意見もあるほど有名だった。

 北米で型式証明を取得した飛燕はそうした退役軍人を中心に順調な販売が行われていく。


 そして、エアレースにおいてターボプロップ部門が設けられることとなると、当然のように飛燕による参加を望む者たちが現れることになった。

 川崎ではそうした要望に応えてTP2仕様の単座レーサーの開発を行い、まさに往年の飛燕を復活させることとなった。

 搭載されたのはTP2C-35型。つまり、小型旅客機用の4000馬力近い怪物エンジンだった。


 レーサーが開発された1967年はベトナム戦争のさなかであり、米軍も飛燕に興味を示している。ただ、米国が課した制約によって自衛隊の海外派兵はおろか、兵器輸出すら大幅に制限されていたため、スカイレーダーに代わる攻撃機として飛燕がベトナムの空を舞う事はなかった。


 T-1練習機については、自衛隊の初代中等練習機として採用されて以降、様々な改良が行われ、1970年代にはエンジンを新型のTP5へ変更したり、1990年代にはグラスコクピット化されたりと、未だに現役で使用されている。


 そして2000年代に入り、スイスやブラジルメーカーが炭素繊維やチタンなどの新素材を使用した練習機を発表すると、川崎でも新たな練習機開発が持ち上がった。

 しかし、誰もが飛燕の基本的デザインを変えることを望んでおらず、新たに開発されたT-8中等練習機にも飛燕の愛称が冠されることとなり、その外見はT-1を横に並べない限り、違いを見つけるのは難しかった。


 もちろん、両機は使用された素材から違い、搭載エンジンも最新電子制御式のTP10が装備されて、コックピットも後席が一段高く配置されるなど、全く異なっているのだが、その違いを一見して見せないような設計上の無駄な工夫がなされている。


 そして、練習機としての進化から外れる話だが、T-8には2門の12.7ミリ機関銃が装備されたAT-8という型が存在している。


 ベトナム戦争において米国が注目した攻撃機型、いわゆるCOIN機型が21世紀に入って日本でも採用されることとなった。


 朝鮮戦争後に生まれた三韓の対立は冷戦が終結したのちも続いており、1994年から99年にかけては大韓国と高麗国で大規模な紛争が発生している。その影響で日本海や対馬海峡において海賊が横行し、その警備を目的に作られたのがAT-8である。

 1999年に一応紛争は終結したのだが、それ以後も鬱陵島をめぐる対立は依然続き、両国ともにその約100キロ南東にある竹島の領有も主張しており、竹島周辺には武装漁船がよく徘徊している。その監視と抑止に海上自衛隊が装備するAT-8が運用され、その有効性に着目した航空自衛隊でも樺太国境や千島において警備任務に運用を行う様になっている。


 AT-8のエンジンはTP2Cー35の後継として開発されたTP10B-40であり、4500馬力を誇る。6枚のスキュードプロペラを備え、他国のCOIN機を大幅に超える搭載能力を誇り、3トンの搭載が可能で、大型センサーポッドを胴体下に装備し、対戦車ミサイル12発あるいは、250㎏誘導爆弾8発の搭載が可能となっており、ベトナム戦争で活躍したスカイレーダーを彷彿とさせる。

 ただし、その分高価であり、自衛隊以外の採用例は今のところ存在していない。ただ、冷戦以後の自衛隊の海外展開によって、アフガニスタンへ派遣されたAT-8に米軍が興味を示し、現在、軽攻撃機計画の候補機の一角を占めている。


 もしかすれば近い将来、70年前に敵として戦っていた米空軍において、飛燕が運用される日が来るのかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ