三賢人の日本史
平賀源内と言うと誰もが知る賢人の一人として有名である。
彼の功績は非常に大きく、日本における産業革命の父や日本のレオナルド・ダ・ヴィンチなどと呼ばれる事もあるほどだ。
源内は讃岐高松藩の足軽身分の侍の子として生まれ、幼少期より細工が得意であったという。その評判を買われ、藩医の下で学ぶ機会を得、1752年には長崎への遊学の機会を得る。この時触れたオランダ語と舶来書物に大きな衝撃を受けたとされ高松への帰ると妹に婿養子をとらせ、自らは藩の職を辞し、家督放棄も行い大阪へと飛び出していった。
この行いから後の破天荒な人生が幕開けしたともいわれている。
その後、1756年には江戸へと下って二度目の長崎遊学へと向かい、鉱山学を学ぶことになる。
この時にはオランダ語もほぼマスターしており、蘭書を自ら読み漁れるようになっていたと言われている。
一説にはこの時、蒸気機関に関する書籍にも触れていたとされるが、その様な書籍が日本まで届いていたかどうかを証明する物は存在していない。
そしてこの後、1759年には高松藩に任用されるものの、江戸へ戻るために職を辞し、奉公構となる。当人もそれを分かって辞職した節があり、常識では考えられない思考の持ち主であったことがうかがえる。
その後、伊豆周辺での探鉱を行い、鉱床を発見。更に手を伸ばして相良の地で油田の発見にもつなげている。
この頃には長崎で得た蒸気機関に関する知識を基に実際に制作を行おうとしていたが、書籍の記述だけではうまくいかず、1763年には更なる書籍を求めて洋書を漁る事になるが、そこで出会ったエレキテルから点火装置を発案、相良で産する石油を用いて小規模な動力機関を作れないかと考える様になっていく。
その後は開発費を得るために明和年間には様々な事業に手を出し、鉱山開発にも関わり、石綿の発見をはじめ、各地で活動を続け、平賀機関(内燃機関)資金の捻出に勤しんでいる。
さらに源内の功績として大きいのは温度計の開発が挙げられる。これによって日常的な温度域の測定が可能になり、源内は積極的に活用するようになっていく。
温度計を開発して以降、再び蒸気機関にも注目するが、それは内燃機関開発において点火装置や燃料の混合についてよく理解できていなかったからだとされている。実際、マグネトーらしきモノは開発に成功するがコンデンサが存在せず実用性に乏しかったうえ、燃料を気筒上の筒や管から垂れ流しても燃焼させることは出来ていなかった。燃料気化或いは霧化という概念がなく、上手く燃焼させられなかったからだとされている。
そんな彼を支えた一人に田沼意次が居るが、源内が高松藩によって奉公講となっていたことから仕官ではなく、もっぱら依頼という形での支援が行われていた。
ただ、他の幕閣からすれば贔屓が過ぎるとも見られてはいたのだが、挙げた業績を考えれば誰も批判することは出来なかった。
そんな源内が初心に返り蒸気機関の実用化に成功したのは1774年の事で、蘭書のセイヴァリ機関ないしニューコメン機関を改良したワット機関に近い新型蒸気機関であった。このような事が実現できたのも、源内が内燃機関を構想し、往復運動を回転運動に変換する発想や爆発サイクルの考え方を早い段階から持っていたからだとされている。
こうして開発された蒸気機関は揚水ポンプとして稼働するだけでなく、回転運動を利用した巻き上げ装置としても利用されることになった。
こうした事から琵琶湖運河計画に蒸気機関を用いたインクラインや閘門を導入しようとする計画を着想するが、支持を得られず断念している。
その後、源内は蒸気機関を幕府に売却して内燃機関の開発に没頭したが、1790年、今でいうグローエンジンの試作機稼働試験の際に爆発事故を起こし重傷を負い、その怪我がもとで亡くなってしまう。
グローエンジンは実用性に乏しかった電気点火装置の代わりに熱した棒を用いる事を発案し、気筒登頂に熱した棒を挿し込んで着火しようとしていた。燃料はガスを用いることで簡単に着火できることを発見し、エンジンの始動を行おうとしたのだが、ガス漏れを起こして爆発したのが原因だった。
この事で内燃機関開発は潰えたかに思えたが、同時に制作を始めていた石油を用いたエンジンを門弟たちが諦めずに稼働試験を行ったところ、見事に成功する事が出来た。
こちらは今でいう焼玉エンジンに近い着想からグロープラグにポンプで送り込んだ燃料を吹きかける事で気化、燃焼を行うエンジンだった事から成功したものと思われる。
ただ、頭脳を失った門弟たちはエンジンの更なる発展を進めることができず、源内の遺した研究を引き継いで細々とした実験を繰り返す事となった。
しかし、その中には圧力鋳造法、後のダイカスト法などもあり、歩みは遅いものの欧米に頼らない技術発展の基礎となったのは確かである。




