世界のMURATA
村田経芳といえば世界にその名を知られた日本のガンスミスとして有名だ。
彼は明治陸軍における技術者であり発明家であった。
彼は薩摩藩随一の射撃の名手でもあり、明治維新後は欧州に渡り技術習得に勤しむ傍ら、各地の射撃大会に顔を出し、好成績を残したことでも知られている。
そうした経緯から、多くの国の銃器技術者とも知己を得る機会を持ち、後の国産銃開発に大きく役立ったと言われている。
しかし、そうした逸話の中には、フランスや英国、ドイツにおいて未だ途上であった連発銃の基本構造をすらすらと諳んじる事が出来たという話がある。
そして、帰国した彼はさっそく国産銃の開発を行い、十六年式村田銃を開発したのはよく知られているが、この開発には多くのエピソードがある。
当時、まだ日本では量産が困難であった無煙火薬をいち早く開発、量産できる体制を構築しようとしたものの、資金的な問題で事業化までは時間を要する事となり、まずは黒色火薬を用いた11ミリ銃弾を開発し、その実包を使用する連発銃である十六年式村田銃を開発するに至った。
十六年式村田銃は当時流行であった管状式弾倉やエンブロッククリップではなく、ストリッパークリップ式5発装填弾倉を備えており、村田式ライフルとして今ではその構造が呼ばれるほどだが、実際のところ、十六年式村田銃ではコイルスプリングを国産するための良質な鋼材や製造設備が整っておらず、古来の技術で製造可能な松葉バネを用いることとなっていた。
十六年式村田銃が採用された明治16(1883)年には各国で無煙火薬の開発が盛んに行われており、村田自身も速やかに無煙火薬を用いた新式実包の実現に注力していたという。
そして、その為の資金調達の一環として、十六年式の基本構造を応用して15.6ミリへと拡大した20ゲージ散弾銃を開発し、その販売益を銃の開発資金に充てるという方針を打ち出した。
しかし、陸軍工廠が民間向け銃器を製造するのは如何なものかという批判を多く受け、その実現は遅々として進みはしなかったが、銃の開発自体は進められていた。
こうして、軍の制式化を得られなかった村田猟銃ではあったが、20ゲージスラッグ専用銃として完成し、銃弾の大型化に伴い5発から3発へと装弾数を減らしながらも、連発式猟銃として現在に至るまでその製造と運用は行われている。
さらに一般的な12ゲージ規格の連発式散弾銃も開発されていたが、こちらは交換式チョークにより様々な弾に対応させようとしたために開発が難航。特許こそ早々に出願したものの、その開発は難航し、完成は村田の死後まで待たなければならなかった。
こうして軍内部からの批判もあった民間向け猟銃開発は法整備にまで話が及び、戦後の一時期を除き狩猟銃組合法による準民兵組織としての性格も持つ狩猟団体が組織され、今に生き続けている。
結局、猟銃開発が新式銃の開発資金を得る手段とはならなかった物の、陸軍としても国産無煙火薬の完成、無煙火薬式の歩兵銃開発への関心は高く、1889年、ふたたび欧州へと出かけた村田は新たな歩兵銃への新技術を取得し帰国、英国で新たに採用されたメトフォード式ライフリングおよび、その実包である303ブリテッシュ弾を参考にした新たな銃の開発を行った。
それがそれから50年、日本陸軍を支えた二十三年式実包であり、二十三年式村田銃であった。
二十三年式村田銃は基本構造を十六年式や村田式猟銃から受け継いでおり、大型の弾倉には新式の二十三年式実包を10発装填可能であった。
ただ、英国の303ブリテッシュ弾をそのまま導入したのではなく、若干規格が異なる7.7×57ミリR村田弾として完成させている。
こうして、外見はリー・エンフィールド同様に弾倉が露出した形状となったが、その構造的特徴は着脱式弾倉ではなく、モシン・ナガンに類似した展開式となっており、ストリッパークリップ装填にしか対応していない。しかし、村田式猟銃では後に12ゲージ銃はリー・エンフィールド同様の着脱式弾倉とすることで「一応装填可能」な弾倉から20ゲージ同様の3発装填を実現している。
村田は二十三年式村田銃の完成と共に予備役へと編入され、以後、銃の研究、改良を有坂成章や南部麒次郎へと受け継がれることとなる。
しかし、日露戦争で活躍した有坂砲と称される近接火器である三十三年式歩兵砲は村田の考案したものだと言われている。
三十三年式歩兵砲は今でいう軽迫撃砲の祖とされる事もあるが、40ミリの薬莢を持つ砲弾は戦後のグレネードランチャーに近いだろう。水平にも曲射にも対応できたが、高コストであったため、より安価で使い勝手のよい四一式擲弾砲に更新されることになるのも致し方なかったのかもしれない。
予備役となった後の村田は村田式猟銃の開発と製造、販売の為に村田銃工業を設立し、民間企業の立場から日本の銃砲開発に携わる事となる。
これが現在のMGIのスタートでもあったが、実は村田自身が考案、開発したものの中には、今でも近接訓練銃として自衛隊で採用され、市販遊戯銃としても販売されるエアーソフトガンの祖である、対人実射訓練銃がある。
この銃は実銃と同じ外観をしており、撃発機構が入るボルト部分に空気ピストンを設け、専用の中空薬莢とコルク弾を用いて実際に近接して人を撃つことが出来る銃だった。
一般には兵士が対人射撃に対する抵抗をなくすために開発された経緯から批判する声もあるが、専用の防護面と共に市販も考えていた事から、エアーソフトガンの祖ともいわれている。と言うのも、対人射撃訓練銃も狩猟銃組合法において今の遊戯銃に近い威力規制値が定められており、市販を考えていたことがうかがえる。
この規定を基に、遊戯銃規制法が制定されたことは有名な話ではあるが、なぜ、100年前からそこまで法律が作られていたのかは、謎と言ってよく、有坂、南部と言った日本のガンスミスが開発し、軍が採用した迫撃砲や軽砲、機関銃など、多くが村田のアイデアを実現した事はよく知られている。
特に、九九式実包として採用された6.5×42ミリ弾は世界初の中間弾薬であり、量産数こそ少なかったが、九九式自動歩兵銃はStG44よりも先に制式化されたアサルトライフルである。
考案者は当然のように村田であり、彼が何故ここまで将来を見通していたのかは謎とされている。