ゆき派さくら派戦争
さくら派と、ゆき派の戦争が続いている。
僕とアイコ、たった二人の戦争だ。
僕とアイコは、同じ映画が好きで、二人ともキーマカレーが好きで、ソフトクリームは絶対チョコミックスで、要するに似た者同士なのだ。
でも、たった一つ、唯一相容れないものが、好きな季節。桜が好きか、雪が好きか。
別にそれくらいどうだっていいじゃないか、と周りは言う。だけど、僕たちの戦争は苛烈を極め、終わることを知らない。他に対立する部分がない分、一点に集中してしまっているのかもしれない。
「だからあ、暖かな空気と寒く冷たい空気、どちらが良いかなんて一目瞭然でしょ?森の熊さんが目覚め、植物たちが芽吹き出す。そう!桜の季節じゃん」もう何度目か分からない、アイコの春が好き、桜が好き話である。
「春のパステルなエネルギーは勘弁してほしい。冬の静かな空気に暖かな暖炉の明かり、寒いからこそ暖かさに幸せを感じるんだよ。幸せな空気に満たされた部屋から見える、雪が降る風景なんて、最高じゃないか」冬派、雪派である僕も、何度同じことを言っていることか。
外では蝉の鳴く。扇風機とうちわで暑さに耐える僕ら。僕はテーブルに突っ伏して、アイコは畳に寝ころんでいる。
僕らは今、戦争中だ。
「“暖かい”が幸せってのは、認めてるんでしょ?じゃあ、寒い冬が終わって、春のうららかな陽気にも幸せを感じるはずでしょ?」
この返しには慣れていて、もう返しの返しまで用意してある。
「いや、春は空気全部が暖かくなる。あったかくなったなあ、と思うのは春になったばかりの最初の頃だけだ。冬の暖かさは局所的で、部屋のなか、布団のなか、外はすぐ寒いのに内は暖かい。なにより、雪が綺麗だ。春は雪が降らない」僕はただ寒いのが好きなのではない。寒さと暖かさのコントラスト。生命の源である水の結晶が天空からやってくる、冬だから好きなのだ。
「桜だって降ってるようなもんじゃん。ひらひら舞い落ちてるよ、花びら」
アイコはそろそろエネルギー切れのようだ。声のボリュームが下がってきている。
「冬は雪のおかげで静かだ。春はにぎやかすぎる」僕もアイコに合わせてボリュームのつまみを徐々にひねる。
「あるー日、森のなかっ、熊さんにっ、でああった」ボリュームをしぼった、つぶやくような歌。
アイコが歌い出したら議論は終わり。もう疲れましたよ、という合図だ。一時停戦。
そのうち、森山直太郎の「さくら(独唱)」を歌いはじめる。目一杯デフォルメした歌い出し。
「ぶぉぉくらは~、きっとぉ~待ってる~」
そこに、さらにデフォルメして僕も参加する。もう独唱ではない。
僕だって、春が嫌いなわけでも、桜が嫌なわけでもない。ただ、冬と雪のほうが好きというだけ。桜ソングだって歌うときは歌うのだ。
戦争が激しくなるのは、夏と秋。春と冬は、それぞれが活き活きとし、それぞれが辟易としとしているため、勝負にならない。
葉桜の季節の今、アイコは桜の木を植えようとしている。
結婚二年目の僕らが暮らすアパートには、そんな土地はない。
近くの公園に植えるつもりらしい。
「ここに私たちの桜の木を植えよう」
近所のスーパーからの買い物帰り、レジ袋を二つ僕に持たせたまま、アイコは両手を広げて宣言した。
「いや、ここにはたくさん桜があるよ」
住宅街の隙間にある、子供が走り回って遊べる広さの公園には、周りをぐるっと囲むように桜が植えてあった。
「私たちの、って言ってるじゃん。この桜は市民のじゃん」
「ここは市民の公園だから、君の桜は植えられないよ」やさしい言葉は禁物。アイコなら本当に植えかねない。
「私の、じゃなくて、私たちの」アイコはスマホを取り出しながら言った。
そこを訂正するのか。
僕は何も応えない。言い争うことだけが戦争ではない。いなしたり、スルーしたり、それも攻防のうちだ。現実味のうすい話にわざわざ強く反論する必要もない。
「Amazonで注文したらどうやって届くんだろう」アイコがつぶやいた。
こいつ、ネット通販で桜の木を買うつもりのようだ。
たぶん、本当に植える。
勝手に植えたら怒られるのだろうか。怒られるとしたら誰に怒られるんだろう。そもそも怒られるのか?正式な許可をとるなら市役所?許可なんて出るのかな。でも、きっとバレないはず。バレたとしても、ちょっと注意されるくらいかな。
僕は植えたあとのことを考えていた。
それぞれの季節に対する愛は互角かもしれないが、アイコの性格と、この実行力のせいで、雪派の僕はいつも劣勢な気がする。
アイコは桜が好きなのに、桜グッズをほとんど身につけない。
しかし、僕に身につけるように強制してくるのだ。
「私は不幸なことにピンクが似合わないから」とアイコは言うけれど、僕はそんなことはないと思う。
なにより、代わりに僕に桜柄のTシャツを着せようとするのをやめてほしい。
アイコが持っている桜グッズは、桜柄のスマホケース、当然、待受画面は桜の木。手帳は黒だけど、ボールペンは桜の模様だ。
「ピンク色の手帳は世間が許してくれない。スマホケースは許してほしい。どうか見逃してくれ、世間」
ピンクを身につけるかどうかに、世間の許しは必要ないのに。好きなら、似合わないと思っていても身につければいいのに。と僕は言うけれど、アイコは絶対にピンクの物を身につけない。
しかし、身につけるもの以外、部屋に置く雑貨などは容赦なく桜だ。壁には、自前の一眼レフで撮った桜の写真。桜模様のペアのマグカップ。僕も頑張って、雪の結晶が大きくついたマグカップをペアで買った。キーボードとマウスも桜模様。
僕はといえば、スノードームを何個かコレクションしてるくらい。雑貨を置くような趣味もないので、部屋は桜に浸食され続けている。ここでも雪派は劣勢。
こんなに部屋がピンクなのだから、ピンクを身につけたっていいじゃないかと思う。
なにより、捌け口が僕になってしまうのが困る。
白地に桜模様のついたスラックスを買ってきたときは驚愕した。これを僕に履かせる気なのかと。
きっとこの戦争に敗北したら、僕の身につけるものは全てピンク、桜柄になってしまうだろう。敗北は許されない。
「最近、暑いですね」と誰かと世間話をする。
「冬が恋しいですね。僕、雪が好きなんですよ」と続くのは僕。
「それに比べて、春は過ごしやすいですよね。私、桜が好きなんです」と続くのがアイコ。
現時点でどちら派か判明していない相手が、白なのかピンクなのかを見定めるためだ。敵なのか味方なのか。中立ならば引き入れることができるのか。
少数精鋭、戦略のみで勝利する軍師もいるが、仲間が多いに越したことはない。
「やわらかな大気に無数の花びら。命の欠片が舞い落ちる光景は幻想的ですよね」とアイコ。
「生命の源、水の結晶。それが雪です。無機質でさらさらした輝きは、さながら天空の使者のようですよね」と僕。
大抵の、というか、この世間話に巻き込まれた人、全員が置いてけぼりになる。
これは第三者を通じた冷戦のようなもので、実質僕ら二人の会話なのだ。被害にあった人には、本当に申し訳ないと思っている。
秋、アイコが妊娠していることが分かった。出産予定は来年の夏。
「名前は『さくら』!男の子でも女の子でも『さくら』だからね!」妊娠の報告よりも先に、大声で僕に詰め寄った。
僕は、その言葉、興奮ぐあいから想像して、アイコが子どもを授かったことを察した。
「もしかして、僕らの子どもができたの?」
「そう、さくら」
「そうか!女の子なら『雪』でいいな。男の子だったら、そうだな、『雪弥』なんてどうだろう」
僕らはちぐはぐに、一緒になって喜んだ。
わーっと抱きついて、そのまま跳びはねて喜んだ。
「あぶない、あぶない。こんなことしたら、お腹の子に障るよ」
「そうだね、気をつけなきゃ。これからは三人で過ごすことになるんだね」
喜びのなか、僕は考えた。
父親と母親、赤ちゃんと過ごす時間が長いのは、当然母親だ。赤ちゃんの時期だけではない。一生涯を通じて、子と過ごす時間が長いのは母親のほうだ。その分、アイコの影響を強く受け、桜色に染まっていくに違いない。もし、我が子が桜派になってしまったら。もしも、アイコの血を色濃く継いだ子とアイコの二人に攻められたら。僕の敗北は免れない。
この戦争の要は、成長をした子を仲間にできるかどうかのようだ。
アイコより一足先に冷静になった僕は、ある提案をした。
「ベビー用品は一緒に買いに行くことにしよう。お互いが好きなものを好きなだけ買ったら。物であふれちゃうからね」
過ごす時間のハンデを考えたら、見につける物のセレクトは全て僕でもいいくらいだったけど、そこまで提案することはできない。
アイコも僕の意図を察したようだ。
「そうね、二人で選びましょう」
一部停戦協定。ベビー用品による、一方的な侵略は行わないものとする。暗黙のうち、ここに締結された。
秋がおわり、冬がきた。僕の季節だ。
僕は溌剌として、アイコはしょんぼりしていた。
このしょんぼりが、お腹の子に影響がないか心配だったけど、その分春は元気なのでバランスがとれているだろうと思った。
冬がおわり、僕はしょんぼり、アイコは快活。春、アイコの季節だ。
お腹も結構大きくなった。
そして夏がきて、アイコは産気づいた。
実は、前の年の夏、「ここに私たちの桜の木を植えよう」と宣言した二週間後、僕らは(僕も手伝わないわけにはいかない、夫だし、男手だし)その場所に桜の苗木を植えていた。Amazonで注文した苗木は二メートルほどあって、宅配便のお兄さんが届けてくれた。
「植えるんですか?」と、珍しい届けものに興味本位で聞いたお兄さん。
「はい、桜の木です。ところでお兄さんは桜が好きですか?」
それから十五分間、アイコの桜話が続いた。最初は愛想よく聞いていたお兄さんも、5分ほど経ったあたりから、そわそわしてきた。彼は仕事中なのだ。
しかし、お兄さん。自業自得だ。
そうして届いた桜の苗木を、日曜日の昼間に堂々と植えに行った。今のところ、誰からも怒られていない。
入道雲は白く、空が青い夏の日に、僕らの赤ちゃんは生まれた。男の子だ。
「今日が何の日か分かる?」
人生の一大イベントを終えて、ぐったりと幸せそうなアイコが聞いてきた。
「あの子の誕生日?」
「ううん、それもそうだけど、違う。手帳とって」
テーブルに置いてあったバッグから、黒い手帳を取りだして渡す。
ぴらぴらとめくって、「ほら」と、開いたまま手帳を差しだしてきた。
僕は覗きこんでから、戦争の敗北の決定打が打たれていたことを知った。一年前の今日は、あの桜の木を植えた日だったのだ。なんという運命。いや、まさか、謀ったのか。
呆けた表情のままアイコを見ると、勝ち誇った笑みを浮かべている。「あの子の名前は『さくら』で決定だね」言葉にしなくたって、そう言いたいのが分かる。
しかし、僕もすぐに笑みがこぼれた。
幸せな敗北じゃないか。こんな良き日の敗北なら、喜んで白旗をあげよう。
せめて、その旗には雪のマークを描かせてもらう。
僕は敗北を認め、アイコは勝ち誇っていた。二人とも幸せに違いない。
しかし、驚いたことに、僕らの赤ちゃんの名前は、『さくら』でも『雪弥』でもなかった。
僕らの、桜と雪への人並み外れた愛を、僕らの両親は知っていた。きっと揉めに揉めるだろうと予想した両家はあらかじめ話し合って名前を決めておいたそうだ。
僕らの子どもなのに。
僕らは猛抗議したが、時すでに遅し。市役所に早々に届けたそうだ。信じられない、我らの両親。
「あんたらが決めたら、絶対に桜か雪でしょ。それに、いつ決まるか分かりゃしない」と僕の母。
僕らの子どもの名前は『青葉』になった。
青葉かがやく季節に生まれたから。
自分たちがつけた名前ではないにしろ、青葉への愛情は変わらない。僕らは納得した。
この事件もあって、僕の敗北がうやむやになった。
青葉はすくすくと育ち、ケンカもしない、もちろん戦争もしない、心優しい少年に育った。
ベビー用品は雪でも桜でもない無難なものを選び、大きくなっていくにつれ必要になっていく物も、キャラクターがついた、春も冬も関係ないものを買い与えた。
その甲斐あってか、青葉は桜派にならず、また、雪派にもなることもなかった。
僕らも過度な干渉は避けた。いつかは桜が好き、雪が好き、と言いだすのを期待して待った。
たまに誰かが被害者となる、冷戦のようなことも青葉の前ではしなかった。
スイスのような中立な息子、青葉である。
青葉が小学二年生の、夏休みのある日。
僕は畳に寝っ転がって、アイコはホットケーキを焼いていた。
青葉は深刻そうな表情をしていた。
「あのね、ぼく、お父さんとお母さんに大事な話があるんだ」
「どうしたの?」と僕は起き上がり、アイコは手を止めて振りむいた。
「あのね、ぼく…」もじもじと二秒間。
「あのね、ぼくね、夏が一番好きみたい」
僕とアイコは顔を見合わせた。
アイコは目をまんまるくしている。きっと僕も同じ顔だ。
「まて、青葉、冬っていう季節はな…」
「まって、青葉、春っていう季節はね…」
僕とアイコは同時に、我が季節の素晴らしさを伝えようとした。
「まって、お父さんお母さん、夏っていう季節はね、すごくぴかぴかしてて、世界が輝いてるんだ」
語りだす青葉を前に、僕らはまた、顔を見合わせた。
三角の対立となった戦争はさらに激しさを増し、この先も終わることを知らない。これからもずっと、末永く続いていくようだ。