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 自分の周囲の異変に気がついたのは、その日の朝のことだった。

 サアノが教室に入っても、誰も何も言わない。

挨拶しても、くすくすっと忍び笑いが返ってくる。

 その感覚をサアノは知っていた。

 いやというほどに知りすぎていて、逆に全身の鳥肌が立った。そのまま無言で、何もなかったように装うしかなかった。

確かに、なにもなかったといえばなにもなかった。

 昼休みに仲良しのリエが近づいてきた。人目を気にして、サアノが教室から出て廊下を曲がったところで声をかけてきた。

「あのさ」

「なに?」

「早く謝ったほうがいいよ」

 サアノはきょとんとした。

「誰に?」

「みんなに」

 なにを謝ればいいのか。

「だって、サアノ、あんた、千鶴先生のお気に入りなんだって」

「それが」

「ファンクラブに睨まれてるよ」

 原因をつきたてられたサアノは絶句した。

 だが、それは自分のせいだ。

 浮かれすぎていた。だから、周りのことが見えていなかった。

「けどさ、それって謝らないといけないの」

「えっ」

「私が悪いことしたら、謝るけどさ、それって謝らなくちゃいけないことじゃないよ」

 リエが苦しげに睨み付けてきた。

 サアノもわかっている。

 自分が悪いとか、悪くないとかじゃなくて、謝ったほうがいいのだ。よくわからなくても、謝ったら済むことはある。

 そんなことがわからないほどに馬鹿ではないつもり。

 だが、ここで謝って、それでみんなに許してもらう。

 なにかが違う。

 確かに自分にも非はある。もっとうまく隠すべきだったのだ。千鶴とのこと。保障もないのに大丈夫だと思い込んで、そんな確信なんてどこにもないというのに。

 リエが立ち去っていくのをサアノは見送った。

昼休みは一人で過ごして、放課後も誰からも声がかからなかった。まるで自分がこの場にいないみたいな扱い。

 最近は付き合いが悪くなった、千鶴と付き合うようになってから遊びよりも料理の勉強をしはじめたこととか――今回は、それらが全部集まってのことなんだ。

 覚悟していたことだ。――いや、本当は覚悟なんてこれっぽっちもしていなかった。

 自分が悪いこともわかっている。今まで波風たてないように、適度に遊んで、適度に悪ぶっていた。その自由と気軽さが大好きだった。

 高校生になってまで、まさか、こんなことされるなんて思わなかった。

 サアノはため息をついた。

 小学生の頃だ。サアノはいじめられていた。小学生から中学生のころも、軽くいじめられていたように思う。

 原因は、見た目のことだった。

 一人の子が、サアノの見た目を冷やかして、そのあと、みんなが冷やかして、サアノが必死に否定するのに、周りがますます笑った。ただの悪戯程度の嫌がらせがエスカレートして、サアノはどんどん孤独になっていった。それがなんではじめられたのかとか、理由なんてものはほとんどなくなっていたように思う。

サノアは自分の見た目が死ぬほど嫌いになった。

 あの時ほどに自分の父親と母親を憎んだことはない。

 なんで、こんな見た目に生まれたのかわからなくて。

 いじめにあって、気分が悪くなって、サアノは学校に行きたくなくなって、何度も腹痛を覚えた。母が異変に気がついてサアノに声をかけるようになった。サアノは迷った末にぽつぽつと学校のことを話した。話したが、母はなにもしてはくれなかった。

「いきたくないなら、いかなくてもいいよ」

 それだけだった。

 母親の冷たさに、意地でもやめてやるかと思った。

 思えば、あれが母の作戦だったのだ。

 あのとき優しい言葉なんてかけられたら、サアノはそのままずるずると逃げ道に溺れてしまっていた。

 選択肢を出して自分で選ばせる。

 サアノは逃げなかった。とぎとき体調が悪くなって保健室にいったり、家に帰ったりした。そうして、高校生になったとき、ほとんど周りは知らない女の子たちばかりだった。はじめは怯えて、どうなるのだろうと不安になっていたが、高校生になってまで、そんなことを彼女たちはしない。なぜなら、もっとしたいことが山のようにあるから。

 サアノは家に帰ったあと、明日の支度を一人でこっそりとして、ため息をついた。

 自分がしてしまったことは山のようにある。

けど、大丈夫。

 不意に携帯電話が震えた。

 サアノは慌てて携帯電話を手にとった。

 千鶴からだった。

 千鶴からのメールは、なんだか声がついてきているような感じがする。千鶴が耳元で語りかけてくれるような、脳の中で千鶴の声が再現されるのだ。

千鶴は日本語を完璧にマスター出来ていても、カナが苦手で使わない。あと、漢字も難しいのは苦手。

 だから、メールはほとんどひらがなだけ。

 メールをサアノは熱心に読む。読んでいると、サアノは驚いた。

 これから、仕事が増えという。それも、隣のお嬢様学校に行くことが決まったと書いてある。サアノはあまりのことに絶句した。

 隣のお嬢様学校。

 仕事は大歓迎だ。千鶴が自分のしたいことをして、お金を稼いで、一生懸命している姿は大好きだ。

 けれど、隣の学校。

 あそこだけは行ってほしくなかった。

 なぜならば、あそこにいるのは、本当に可愛い女の子たちばかりだから。

 学校が近所で通学路も同じならば、会わないことのほうが珍しい。ときどき通学中に見かける隣のお嬢様学校の女の子たちの可憐なこと。

制服一つだって、有名なデザイナーが作ったものだとかでとても可愛い。サアノの学校なんて、未だにセーラー服だ。

お嬢様だからといって堅苦しいこともなく、真面目だけというかんじもなく、まるで蕩ける蜜のような甘さのある女の子たちだ。一言で言いあわらわすならば、ふわふわふの砂糖菓子。

 もちろん、それだけではない。真面目なタイプの地味な子もいるし、浮いているような派手な子だっているが。基本的には頭もよくて、可愛い子たちばかりだ。――サアノから見れば、そんな学校なのだ。

千鶴もどきどきしてしまわないか。

 自分と比べて、こっちのほうがいいかもとか思わないか。

千鶴に限っては、そんなことはないかもしれないが、いや、もしかしたら、あるかもしれない。

 気分がどん底に叩きつけられたようにサアノは何も出来なくなった。


 二日過ぎた。

 教室では無視され続け、千鶴が隣のお嬢様学校に仕事に行ってしまうということを知ってから、サアノはもうただ憂鬱と過ごした。

なんだか、なにもする気にならない。窓から外を見ると、太陽が燦々と零れていて、暖かそうだ。

「サアノさん」

「あっ」

 振り返ると、千鶴がいてサアノはびっくりした。

 こんなにも近いのに、こんなにも遠い。

「何かありました?」

 尋ねられて、サアノは絶句して、慌てて首を横に振った。

「なにも、とくには」

 いろいろとあった気がするが、それはどれも些細なことで、うまく言葉に出来ない。千鶴が目を細めて、じっとサアノを見る。栗色の瞳が、本当にきれいだ。

「何かあったら、言ってくださいね」

 千鶴の言葉は、なんだかぽんっと背中を叩いてくれるようで、あたたかい。そして、優しい。

 サアノは泣き出したくなった。

 本当になにもなかった。何かあったとすれば、ちょっと無視されていて、寂しいなぁと思うことと、千鶴が他のところに行ってしまって、遠くに感じることとか。

 それくらい。それくらいだよ。

 そんな小さなことが、サアノにとってはとっても大きい。

 それを吐き出しても、いいのだろうか。吐き出しても千鶴は自分のことを嫌いならないだろうか。

「サアノ」

 千鶴が驚いた声をあげて、サアノの手をとって歩き出した。そして、すぐ近くにある視聴覚室に飛び込んだ。

 なんで、いきなり、部屋に隠れるのだろうと思ったときには、視界が歪んでぽろぽろと涙が出てきた。

「サアノ、どうしたの」

 千鶴の声が耳元で囁かれた。

 歪んだ視界は、不思議なことにグレー色に染まっている。そのときになって、サアノはようやく自分が千鶴に抱きしめられているのだと気がついた。

サアノは嗚咽を漏らしながら千鶴の胸に顔を沈めた。

「私、無視されてる」

 声を発すると喉が押し潰れるように痛かった。

「サアノ」

「あと千鶴が、隣のお嬢さん学校にいったの、すげー気になってる」

 ばか。

 サアノは自分のことを罵った。

 だから、それがどうした。

 こんなこと言って呆れられるかも。馬鹿だといわれるかも。愛想突かされるかも。怖い。とても怖い。

 小学生のとき、いじめられていたとき、怖かった。とても怖かったのは、こんな自分を母や父から嫌われないかと思うことだった。母にいじめられていると、うまく言葉にして言えなかった。恥ずかしかった。こんな自分が。

 けれど、母は突き飛ばす態度以外何もしてはくれなかった。それが嬉しかった。サアノの中の負けん気を刺激するだけの母の信頼が。

 だが、千鶴は他人だ。

 こんな自分を。馬鹿で、浅はかで、嫉妬深い自分をどう思うだろう。

「サアノ」

「な、なに」

 怖くなった。抱きしめられているのに、慌ててその腕から逃れて、どこかに身を隠そうとしても何もなくて、ドアに背を預けて、震えるまま千鶴を見た。

「サアノがすきだよ」

「ちーちゃん」

「ちょっと、おいで」

 手招かれて、サアノは深呼吸して前へと踏み出した。顔が近づきそうなくらいの距離で千鶴がはにかんだ笑みを浮かべた。

「あそこの生徒、すげー最悪」

「へっ」

「若い教師だと狙われる」

「まぢ? お嬢様なんでしよ」

「見た目と中身は違うよ」

 千鶴が苦笑いして聞かせてくれた内容にサアノは唖然として、しゃくりあげた。

 千鶴の手が優しく涙をすくいあげてくれる。

「出来ることある?」

「千鶴」

 サアノは言葉を捜した。

 千鶴は笑ってくれている。大好きな笑顔。

「……ううん。大丈夫、自分のことは、自分でする」

 言葉を返したあと、サアノは千鶴の唇に自分の唇を合わせて、すぐに離してはにかんだ笑みを浮かべた。千鶴が驚いたようにサアノを見つめていた。その視線を受けて、サアノはくすくすと笑いながら視聴覚室を出た。

 大丈夫。

 だって自分には千鶴がいる。

 あんなことを口にして自分を千鶴は笑って受け入れてくれた。あたたかい腕のぬくもりを思い出すと頬が静からに火照る。

 唇に指をそっと置くと、キスしたことを思い出してなんだか身もだえしてしまいそうになる。不思議で苦しくて、なんだか馬鹿馬鹿しい。口元が緩んでいくのを感じる。

 大丈夫。

 サアノは口の中で繰り返す。

 教室での無視も、サアノはあんまり気にしない。気にしても仕方がないからだ。それ以上に千鶴とのことを思い出すほうに夢中になってしまった。

 千鶴って不思議。

 あんなにも不安で悲しくなった原因は千鶴なのに。もう立ち直ってしまった。

 それに、こんなことでへこたれていては千鶴のこと好きでいられない。

 サアノは自分に言い聞かせる。

 千鶴と付き合って、こんな風にいじめられている。それはわかる。わかるが、それで千鶴のせいじゃない。千鶴が好き。だから、大丈夫。

 放課後になると千鶴からメールが来た。

 今夜家に来れるかというものだった。

 サアノは一も二もなく返事をした。

 サアノは急いで家に帰って、服を着替えた。今日はワンピース。それにジャケット。そのあと、朝の残りに魚を焼いて、ラップをした。あとで食べてくださいと書き添えて出ていく。千鶴の家にいくと、千鶴は待っていてくれた。

「おどろかそうとおもってた」

「こっちも。僕のほうが上手だった」

「ちぇ」

「はいって」

 千鶴に招かれてはいった部屋でサアノは深呼吸した。

 定期的に訪れる千鶴の部屋。大好きな部屋。サチがサアノのことを出迎えてくれた。しっかりと抱きしめて頭を撫でたあと降ろしてやる。

 もう、ここが自分の家の一つになっているような気がする。だが、千鶴は、ここで制服で着てはいけないというし、サアノも、その点は注意している。

 前に制服で着てはいけない理由を聞くと

「学校だけでいいんだよ。どきどきするのは」

「制服にむらむらするの?」

「ふふふ」

 千鶴が意味深に笑ったのにサアノも笑った。

 サアノが、ここに制服を着てくるのを避けるのは、人の目を気にしていることと、可愛い服を着た自分を見てほしいことがある。

「日本人ってほんと、ヘンだよね」

「なに、いきなり」

「僕が日本にきて思ったこと」

 サアノのために紅茶をいれてくれた千鶴。

 そっと差し出してくれたコップを受け取ってサアノはきょとんとした。

 千鶴がここにきてからの生活を明かしてくれたことははじめてだ。千鶴はなんだってにこにこと笑っていて、そつなくこなすので、そんな愚痴を聞いたのは、はじめてだ。それも生活をはじめてのときは、いやなことが多かったという。

「だって、僕が片言の日本語しかしゃべれないの、みんな馬鹿にするんだよ」

「ばかにされたの」

「うん。だから英語で話してたじゃない?」

 はじめて出会ったときのことを思い出して、サアノはああと頷いた。

「嫌われるでしょ、それは」

「うん。嫌われたね。なんでかわからないけども」

 サアノとしては、なんとなく嫌われた理由がわかる。

 嫌われたとすれば、それは千鶴のせいではない。ただ千鶴の見た目で、ぺらぺらの英語がしゃべれるというのは、なんとなしに羨望と意地の悪い気持ちに人をかきたてるものだ。

 そんなのただの日本人のコンプレックスだけども、それにどうして千鶴がいやな思いをしなくちゃいけないのか。

 思えば、千鶴は大変な努力家だ。

 彼は気がついたら、もう日本語をうまく操っている。

 はじめて会ったときは、片言だった言葉は、今はスムーズになっている。翻訳のお仕事だってしている。アメリカにいたときに、すこしだけ勉強していたというが、それだけでここまでうまくなれるはずもない。それだけ千鶴が努力していたことなのだ。今更だが、サアノは気がついた。

「ヘンだけど好きなんでしょ、日本」

「マイナスはプラスに変えられる、でしょ」

 千鶴がウィンクを投げてきたのにサアノはびっくりした。

「けど、いままで、そんな愚痴きいてなかった」

「言えないよ。だって、サアノに嫌われと思ってた」

「ちーちゃん」

「僕も怖かった。けど、ちゃんと言う」

 千鶴の言葉にサアノはこくこくと頷いて、その胸に自然とすりよった。二人でソファに腰掛けて、身を寄せている。それだけでサアノは胸がいっぱいになった。

 自分だけではなかったのだ。

 嫌われないかと不安になったり、怖がったりする気持ちは。

「教室の」

「うん」

「なんとかなると思う。たぶん」

「ほんと、なにもしなくていい?」

 念を押すように千鶴が尋ねてきた。

「私、自分のことは自分でするもん」

「わかった。もういわない」

 千鶴が頷いてくれたのにサアノはほっとした。

「そのうち、みんな飽きるよ。それにさ、ちーちゃん、私ね、ちーちゃんに会えて、いろいろとしたいこと考えて、それのためにもがんばろうって思うの」

「料理?」

「うん」

 力強くサアノは頷いた。

「応援してる。うん。けど、これは意外と寂しいね」

「なにが」

「頼ってもらえないの」

 千鶴の言葉にサアノは顔をあげた。千鶴が笑っている。どこか遠い微笑みを視るように輝いてみえて、つい目を細めてしまった。

「なにかあったら、頼るよ」

「うん」

 しっかりと肩を抱かれてサアノはどきどきして、目を伏せた。心が締め付けて苦しいが、それでも、なんだか幸せだ。

 不幸も幸せも、いっぱいまじっている。

 大丈夫。


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