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「何にしてんの」
サアノは、つい声をかけてしまっていた。
慌てて千鶴が顔をあげると耳にしていたウォークマンをとり、サアノの顔を伺う様に微笑んだ。
「ごめん。来てたんだ。気がつかなかった」
「少し前にね」
棘がある声でサアノは言い返した。
「ごめん。ごめん。やめるね」
千鶴が笑ってノートを閉じようとするのにサアノは慌てて腕にしがみついた。
「ねぇ何してるの」
サアノが知りたいのは、千鶴が何をしていかということだ。
サアノは千鶴の家に入り浸るとまではいかないが、風邪を起こしたあとは頻繁に行くようになった。そこで手料理をご馳走すると、千鶴はいたく喜んだ。このときばかりは、料理が出来て本当によかったとサアノは思った。
本当は昼休みのお弁当くらい作ってあげたいのだが、それは出来ない。
周りがライバルだらけだからだ。
千鶴のファンクラブの子たちが、いつも抜け駆けしないかと生徒たちを睨んでいるため、学校で下手に近づくことは出来ない。
だから、サアノは仕方なく千鶴の家に行くようになった。そこでなら好きなだけ千鶴を独占してもいいのだ。その千鶴が今は何か別のことに夢中になっていることがサアノとしては面白くない。サアノが来たら、すぐにやめてくれるが、なんとなく面白くない。いまだってわざと音を立てずに室内に入ったら、まったく気がつかれなかったらしい。
腹が立つ。
自分がわざわざ、ここにきたのに。
千鶴がいて、自分がいるのに。
自分がないがしろにされる原因をサアノは是非とも知っておきたかった。
「なにって、翻訳の仕事だよ」
「翻訳?」
サアノは千鶴の傍らによると、ノートを見た。
大学ノートと、もう一つは綺麗なプリントアウトされた紙。一つは日本語、もう片方は英語でサアノにはまったくちんぷんかんぶんだ。
「大学の友達が紹介してくれたんだ。今のままだと生活厳しいし、将来は英会話の講師とか、自分の今までのことを生かしたいと思っているから。これが以外と楽しくてね」
千鶴が嬉しそうに教えてくれるのにサアノは目を瞬かせた。将来のことを真剣に考えている姿がなんだか遠くて、それでいて眩しい。
自分だって高校生だが、未だに将来のことなんて考えていなかった。二年くらい先にあることが、あんまりにも漠然としたもので、うまくイメージできないのだ。ましてや、千鶴みたいに自分に出来ることを活かすなんて思いつきもしなかったことだ。
考えてみれば、千鶴はなんだかんだといって源氏物語を読み終え、そのあとは味をしためとばかりに様々な書物を読み漁っていた。
千鶴にしてみれば、日本語と親しむことは楽しみであり、自分の祖国の言葉は生きていくために使える手段なのだ。
サアノは、そんな千鶴を羨ましく見つめた。
「じゃあ、しなよ」
「えっ」
「仕事、しなよ」
サアノが言うと千鶴は目を瞬かせたあと、にこりと笑った。
「ありがとう。適当にくつろいでくれる?」
「うん」
とは言っても、ここには千鶴目的できているサアノとしては、くつろげといわれても、なにもできない。
他人の家というのは、何かと――これでも一応は遠慮しているのだ。
テレビを見ようと思っても千鶴の邪魔になるかと思うと下手につけられなくてサアノは困り果ててしまった。
そんなサアノに気がついたのか千鶴がちらちらと気にしていると視線を向けてくる。
「サアノ、暇してる?」
「うん。結構」
素直にサアノは言った。
気にせず仕事をしてくれてもいいといった矢先にギブアップしてしまった。
なんとも情けない。
「今度からは暇つぶしのなんか、もってくる」
「ごめん」
千鶴の言葉にサアノは慌てて首を横に振った。
「いいの」
だって、自分は千鶴と一緒にいたいだけなんだもん。
そんな言葉が口から出そうになる。
この部屋に来る目的、それをサアノは思い出した。暇を持て余しているのだってあるし、千鶴と遊びたいし、かまってほしいという気持ちもある。しかし、それ以上にサアノは千鶴と一緒にいたいという気持ちがあった。ただ一緒にいたい。それだけ。
それだけのためにここにきているのだ。
別に千鶴は来てくれなんていっているわけではないのだし。
「ここにいさせてくれるだけで十分だよ」
本当に、そう思ってサアノは言った。
それに、何かここで千鶴の邪魔をしないように、何かすることだってできるはずだ。勉強は大嫌いだが、やってみようか。もしいやになってやめても千鶴は咎めたりしないだろうし。
掃除をするにしても、料理をしてもいい。千鶴の家は本がいっぱいある。それを読んでみるのだっていい。
傍に千鶴はいるのだから。
そう思ったら、苛々する気持ちはなくなった。千鶴が仕事をしている姿を見れるなんて、すごく特別なことだし。
ただ、まだ一人で時間を潰す方法がわからないだけだ。慣れれば、それもすぐになんとかなるはずだ。
とりあえず、勉強をしようとしても嫌気がさしてやめて、そのあと本を読んでみたが、やっぱり退屈だった。今度ここにくるときは、雑誌でも持って来ようとサアノは決めた。千鶴の傍にいるにしても、邪魔になるようなことだけはしないようにしないと。
千鶴を見ると、彼の真剣さにどきりとした。
千鶴がノートに向かっている姿は、なんだかかっこよくて遠い。胸がきゅんとする。もっと傍で見ていたい。
サアノはそんな気持ちでよろよろと千鶴に顔を近づけていた。千鶴はまるで気づかない。自分で決めたことだが、ちょっとむっとする。
サアノは千鶴の膝に頭を置いてみた。
「え、わぁ」
案の定、まったく気がついていなかった千鶴は驚きの声をあげた。
「さ、サアノ?」
「膝、貸して」
驚いた顔で見つめられても、サアノはまるで気にしないというように千鶴の膝の上を満喫した。一人で我慢しようと決めたが、我慢がきかなくなった。少しくらい千鶴に甘えたい。だって、ここには千鶴を求めてきているんだもん。
「いいよ。こんな膝でよかったら」
幸いにしても邪険にされることはなかった。
そもそも、邪険にされるなんて思ってもなかったので、この態度は当たり前なんだけども。
サアノは膝の上で、一応は極力動かないようにした。ちらりと視線を向ければ、頭上には真剣な顔をして仕事をしている千鶴がいる。
こんなにも真剣な千鶴を間近で見れることができる。それがサアノを喜ばせた。
千鶴の膝の上で千鶴を見れるなんて、きっと自分くらいのものだ。
男性らしくかたくて、少しだけ柔らかさのあるあたたかい膝。これは、今は自分のものなのだ。
そう思うと自然と口元が緩んできた。
幸せ。
何かおいしいものを食べたときみたいな、すごく可愛い服を買ったときのような、胸からむくむくと溢れてくる幸せをサアノはいやというほどに実感した。
嬉しい。
サアノは目を伏せた。
サアノはとっても優しい夢を見た。
ふわふわとした雲の上にいるような、あたたかくて、ずっと、そこにいたいと思う優しさ。
ふと、サアノは目を開けた。
夢から現実にかえると、世界は暗闇に等しかった。
あれとサアノは思いなおして顔を動かして、目の前にうつらうつらと船を漕いでいる千鶴の顔があってびっくりした。
よろよろと起き上がると部屋の中は真っ暗だった。目をこすって、闇の中で目を細めて時計を見ると五時になろうとしていた。
ここにきたのは昼頃だったから、けっこうの時間を寝てしまったようだ。
そう思ったあと、慌てて千鶴を見た。
もしかして、その間中、千鶴は膝枕をしてくれたのだろうか。
こくこくと船を漕いでいる千鶴を見ると、たぶん、自分を起こさないように気を使って仕事をしながら、それが終わったあとも起こさずにいてくれたようだ。
そこまで気を使わなくてもいいのに
呆れた気持ちと嬉しいやら情けないやらいろいろな気持ちがぎゅっと胸の中でいっぱいになると、サアノはたまらずに千鶴の肩を揺さぶっていた。
「ちーちゃん、起きて」
「ん? サアノ? 起きたんだ」
「私のために我慢しててくれたの? 足、大丈夫? 平気?」
「うーん、ちょっと、痺れたかなぁ」
にへらっと千鶴が笑っていいながら、伸びをした。
「いたた。あと肩が少し凝ったかも。これは仕事のしずぎかな」
「ちーちゃん」
なんで、こんなにも優しいのだろう。
千鶴の優しさで胸がいっぱいだ。あの夢で雲の中にいるふわふわとした気持ちと同じ。
「肩揉みしてあげる」
サアノはいそいそと立ち上がり、千鶴の肩に手をおいてもみはじめた。予想していた以上に肩がこっていてサアノは驚いた。
すぐに、千鶴だったらありうるとサアノは思った。
毎日、学校で仕事をして、家でも仕事をして、それでサアノに構っている。
「私も、ご飯作るね」
「うん。サアノのごはん、食べたいなぁ」
「私ね、もっと料理の腕、あげるね」
「ほんと? 嬉しい」
千鶴が振り向いて笑った。本当に喜んでくれている顔だ。
「あ、けど、サアノの料理は今でもプロ並だよ」
「ありがとう。けど、もっと勉強するの。それでちーちゃんの好物、作ってあげる」
今までは自分は中々に料理の腕はあると思っていたが、いまは、それだけではだめだとサアノは思った。
もっと千鶴のためにいろいろとしてあげたい。
千鶴が好きなものを作ってあげたいし、健康にいいものとか、疲れがとれるものとかそういう料理を作ってあげたい。
だって、こんなにも傍にいて、好きなんだもの。
「楽しみにしていてね」
「うん」
「あとね、ちーちゃんの翻訳した本とか、私、読んでみたい」
「僕の? 一応、大学のレポートなんとかの翻訳なんだよ」
「そうなんだ」
翻訳と聞くと、小説なんかの本だと思っていた。
「……けど、読んでくれるなら、特別に僕の好きな本を翻訳してプレゼントしようかなぁ」
「いいの? 大変じゃない?」
千鶴の翻訳した本は読んでみたいが、わざわざしてもらうのは、大変なような気がしてサアノはつい尋ねていた。
「大丈夫、勉強みたいなものだし、それに、翻訳で本とかしてみたいと思っていたからさ」
「じゃあ、楽しみにしてる」