5
千鶴との恋人関係は、大々的な変化をもたらす。と思っていた。しかし、そんなものはまったくない。
変化といえるほどのものは何もなく、逆にサアノが困惑するほどにゆっくりと、それでもちゃんとその変化はあった。
変化というのは、千鶴が学校に来ている日は、サアノは、いつものように準備室に行くことだ。
勉強ではなくて、千鶴と二人きりでしゃべれる時間が存在しはじめた。
千鶴がサアノに家の鍵も渡してくれた。いつでも訪ねてきていいという意味らしい。
サアノとしては、いつ、どう訪ねようかと困ってしまって、もらった鍵はクローバーのキーホルダーにつけられて、その出番をずっと待っている。
二人きりになりたくても、学校は敵ばかりだ。
ファンクラブはいるし、他の生徒の目はあるし、他の先生の目もあるし。
それでもサアノは幸せだ。
放課後に勉強のためといって訪ねればいい。もし、休みがあれば千鶴のところに押しかけてもいいのだ。
もし何か両親から聞かれても千鶴相手だったら信頼されているから、大丈夫なはずだ。
サアノは、そうやって小さな変化を、不安を覚えながらも楽しんだ。
「お祭りがあるんですね」
本日もまた、勉強という名の逢引というよりは独占するための放課後の準備室でしみじみと千鶴は言った。
彼の目下興味は、もうすぐある祭りについてだ。
「行きたいの」
サアノの問いに千鶴は大きく頷いた。
「もちろん。日本の文化です」
「祭りは、どこだってあるじゃん」
「そうですけど」
「ちーちゃんは、日本のお祭りってはじめてなの?」
ちーちゃん。そう呼ぶと自分でも照れるが、それがどこか嬉しい。
「ええ」
「じゃあいく?」
「サアノさん案内してくれるんですか」
「いいけども」
祭りなんて、この何年かいっていない。
母は騒ぐのがすきだから、フラメンコ教室のお友達と毎年いっているらしい。今年は父が戻ってきているので、二人で行くだろう。
母は毎年サアノも祭りに誘うが、サアノとしては、祭りなんて子供ぽいという理由で行こうとしなかった。だが、千鶴が喜んでくれるなに久しぶりに行くのだって悪くない。浴衣くらい着てあげたっていい。
どうせ今年は父と母が二人きりで祭りを楽しみたいだろうし。――皮肉でなくて、あの二人の傍にいるなんてサアノ自身から願い下げだ。
「二人きりですね」
「そりゃあね」
千鶴がにっこりと笑うとサアノも笑みを零した。
「行きましょうね。絶対に」
千鶴の力強い言葉にサアノは、今更だが、これがはじめてのデートになるということを思い出して興奮した。
浴衣を着て、それで祭りを見回る。これってすごく楽しそうだ。
そうした思いは帰るために準備室から出るころには、すこしばかり冷静になっていた。
「他の生徒に見つからないかなぁ」
「うーん」
「千鶴の立場的にやばいんじゃない?」
「そうですね。けど、きっと大丈夫ですよ」
この明るい回答にサアノは苦笑いした。確かに祭りは大勢の人間が集まる。だからそう容易く生徒に会うことはないかもしれないが、大勢ということは、それだけ危険もあるということだ。
浮かれていたが、すぐに現実に戻ってサアノは落ち込んだ。千鶴も察したらしくて苦笑いと共に肩を軽く叩いてくれた。
「じゃあ、たまたま祭りのところで私たちは遭遇したというのはどうですか」
「たまたま?」
「はい、たまたま」
千鶴の言葉にサアノは笑った。
二人して寒く、冷たい廊下をゆっくりと歩く。すでに暗闇に包まれている廊下。けれど、それがサアノにとっては惜しいほどに愛しい。なぜならば、ここには千鶴がいるから。遅い時間だから、千鶴がサアノを家まで送ってくれる。その時間しか一緒にいられない。
「それもいいね」
サアノが応えたとたん、千鶴が大きくくしゃみをした。
「大丈夫なの?」
「ええ。誰かが噂でもしてるんですよ」
千鶴が笑って言ったのにサアノも笑い返した。
その日、サアノは家に帰ると母に祭りに行きたいから夕飯のあとに浴衣を用意してくれるように頼んだ。祭りが大好きな母は喜んで箪笥から浴衣を取り出した。青色の浴衣は、中々にきれいだった。それをサアノにすすめてくれた。元は母が着ていたものらしいが、サアノにぴったりだった。
「今年は親子三人でお祭りだね」
「え、私、友達といくんだけど」
「えー」
髪につける飾りをさぐっていた母が非難の声をあげた。
「せっかく、パパがいるんだよ」
「だからさ、二人でいきなよ」
どうせ、この夫婦の傍に居たら自分が寂しい思いをすることはわかっている。
何年夫婦していても、この二人は傍にいるとべたべたしたがる。どれだけ月日が経っても愛し合えるのはいいことだと思う。しかし、子供から見ると、勘弁してくれというのもある。
「その友達も呼んでいいよ」
「いや」
サアノは言い返した。すると、母が口を曲げた。子供みたいに拗ねる人なのだ。
「そんなこといわずにさぁ」
「いいじゃん、デートすれば」
「デートはできるよ。その気になれば。けど、親子で楽しむのは、そうはできないよ」
「いいじゃん」
「サア」
じっと母が見つめてくるのにサアノはどきりとした。
「何か隠してる?」
「別に」
「うそおっしゃい。サア、吐きな」
顔を出していう母の言葉にサアノは迷った。祭りに行くとなれば、人ごみだ。しかし、母たちと会わないとも限らない。
「えーと、恋人と行くの」
「恋人!」
母は声をあげたあと、慌てて口を手を添えて封じた。
キッチンで食器洗いをしている父は気がついていないようだ。もし気がついたら、すぐさまに飛んでくるはずだ。
「やるじゃん、サア」
「ありがとう」
これが一般的な母親の台詞かどうかは定かではないが、サアノとしては反対されないだけ嬉しい。
「あの千鶴せんせー?」
「へっ」
これにはサアノが声をあげる番だった。
慌てて口を閉ざして母をまじまじと見る。
「なんで、わかったの」
「カン」
「野生の?」
「女のよ」
母がふふんと勝ち誇った笑みを浮かべる。母は昔から妙に鋭いところがあるが、まさか、ここまで鋭いとは思いもしなかった。
「ダーリンには内緒にしておくわ」
「ありがとう」
「ばれたら、殴り飛ばされちゃうからね」
「うん」
サアノとしては、父が暴力を振るうなんてあんまり想像できない。
前に千鶴を痴漢と間違えて殴り飛ばしたが、時間が経つと、あの見た目が優雅な父が暴力を振るったのは本当だったのかと首を傾げてしまう。もしかしたら夢だったのではないかとすら思う。
それくらい父は暴力とは縁遠い。いつも本を読み、ゆったりとした品のよさがある。これが自分の遺伝子の半分の責任者だと思うとサアノとしては、自分は、本当にこの血が混じっているのかと疑問に思うほどだ。
しかし、母の語るところによると、結婚が早かったからそれはそれは大変だったそうだ。今でこそ穏やかな祖父と父が警察を呼ぶほどの激しい乱闘をしたんだといわれても、あんまり想像できない。
「はじめてのデート?」
「うん」
「じゃあ、めかしこまないと」
「ありがとう」
母の理解は、サアノにとっては嬉しかった。
母という大きな味方をつけると、これほどに心強いものもこの世にはなかった。
まず浴衣を調達してくれた。はじめはお古でいいといっていたが、せっかくのデートというので、わざわざ買いなおしてくれたのだ。青色のきれいな浴衣だった。
父がお祭りに一緒に行こうというのも、母が強引に引き止めてくれた。
祭りの日は、母が化粧も施してくれた。けばくならない程度の、薄化粧に青い浴衣姿でサアノは喜び盛んに家を出た。駅で待ち合わせをしているので、いそいそと歩く。浴衣姿の女の子たちがちらちらと見えた。自分も、その中の一人だと思うと妙に誇らしい。
不意に携帯が鳴ったのにサアノは怪訝として、携帯電話を耳に当てた。
「はい?」
「サアノ」
「ちーちゃん?」
携帯電話だから、名前を呼ぶのに警戒しなくていいはずだ。
それにしても、声が低くて、一瞬誰かわからなかった。
「ごめん、祭り、いけない」
それだけ言って携帯電話が切れた。
サアノは混乱し、あまりのことに切れた携帯をじっと見つめたあと、慌てて千鶴の家に走ったのは言うまでもなかった。
走っていて知ったが浴衣はとにかく歩きづらいということ。慣れないのもあるが、せっかくだからきれいなのを見てほしいと思っていたので、しっかりと帯は締めてもらった。だが、今はそんなこと言っている暇はない。
サアノは大股で進み、千鶴のマンションまで来ると、すぐに千鶴の部屋の前まできた。まだ一度だって使ったことのない合鍵を鍵穴に刺し込み、ドアを開ける。
「ちーちゃん」
ドアを開けて中にはいる。
「ちーちゃ……わ、わあああ」
居間で電話を片手に千鶴が倒れていたのにサアノは絶叫した。
「ん……サアノさんの天使が迎えにきました。自分は死ぬのですか?」
「ち、ちーちゃん、ど、どうしたの」
サアノは慌て、千鶴の体に触れると。ひどく熱かった。
千鶴はぐったりとしたまま虚ろとした視線をサアノに送った。
「風邪を、ひいて、しまいました」
息も絶え絶えに言う千鶴にサアノは目を丸めた。そういえば最近、よくくしゃみをしていたが、あれは風邪だったのか。
サアノは泣きそうな顔をして千鶴を見た。なんとか彼をベッドまで運びたいがぐったりとした千鶴は重たい。
「ねぇ立ってよ。ちーちゃん、とにかくベッドに横になろう」
「は、はい」
千鶴がふらふらと立ち上がってくれたのにサアノは肩を貸した。
ベッドまで行くと、千鶴は力つきたように横になってしまった。こんなときはまず何をすればいいのかサアノは困惑した。とりあえず、千鶴の額に触れると、熱かった。どれくらいの熱が出ているのか、まるでわからないが倒れているってことは救急車を呼んだほうがいいのだろうか。いや、風邪で呼んだら怒られるか――混乱する頭でサアノは一生懸命考えて、部屋を飛び出すと、コンビニで風邪薬とお粥の元に飲み物を買って帰ってきた。
粥を作り、飲み物と薬を千鶴が寝ている部屋に運ぶ。
軽く千鶴の体をゆすると、薄目を開けて千鶴がサアノを見つめてきた。
「食べて。ちーちゃん」
「んっ……食べたくないです」
「わがままいわないの」
サアノが優しく叱咤すると、千鶴は渋々であるが起き上がった。まだ起き上がるだけの力はあると思うとサアノとしては安心できた。
粥を差し出すと、食べたくないと言っていたがが、結局ぺろりと平らげ、薬も飲んでくれた。汗をかいているので、出来るだけ水分をとったほうがいいだろう。そう考えたあと、急いでタオルを探した。濡れタオルを作ると、すぐに千鶴の元にかえる。
「これで汗を拭って。服も着替えたほうがいいよ。出来ればシーツもとりかえたほうがいいのかな」
「あんまり、動きたくないです」
「じゃあ、せめて、服だけ着替えよ。どこにあるの、服」
「そこの、押入れの箪笥」
「はいはい」
千鶴の言ったように押入れの箪笥を探ると服が出てきた。それを持っていくと千鶴は素直に着替えてくれた。さすがに着替えのときは一緒にいるのはまずいかと思ったが、千鶴は特に気にする風もなくて、サアノが目のやり場に困ってしまって、俯いた。
そうして服を着替えてさっぱりすると、千鶴はまた眠りについてしまった。
サアノもそれでようやく落ち着いた。
後片付けをしてサアノは、再び千鶴の眠るベッドに近づいた。
すーすーと寝息をたてて眠っている千鶴。
気がついてあげられなかった。
悔しいやら、悲しいやらといった気持ちがいっぱいになった。
こんな風になる前にもっとちゃんと千鶴のことを見ていてあげればよかった。思い返せば、学校でよく咳やくしゃみをしていた。あんなに一緒にいたのに、気にもとめてあげられなかった。サアノは拳を握り締めた。お祭りに浮かれてしまって、見てあげれなかったことが悔しい。
サアノは手を伸ばして、千鶴の手を握り締めた。
ごめんね。
その気持ちで胸がいっぱいになり、サアノは目を伏せた。
「サアノ」
呼ばれてサアノは目を開けた。
そのとき、自分が寝てしまっていることにサアノは気がついた。慌てて起き上がろうとしたとき、千鶴の顔が視界いっぱいあってびっくりした。
「ちーちゃん、寝てなくもいいの?」
「大丈夫」
薄闇の中で千鶴が笑っている。
「ここ」
「もう六時だよ」
ここにきたのは昼頃だったはずだ。それから、随分と時間が経ってしまったらしい
「もう大丈夫。だいぶよくなったよ」
千鶴が笑っていうのにサアノはすぐまさに手を伸ばして、千鶴の額に触れた。熱は下がっているようだ。
「ごめんね、ちーちゃん」
「ん?」
「風邪、気がついてあげられなくて」
「……ううん。看病してもらって、嬉しかったよ。浴衣姿もチャーミングだ」
千鶴の優しい笑みにサアノは胸が一杯になった。
詰られてもいいのに。
考えれば、千鶴は元々アメリカにいたのだ。それが今は一人で日本にいる。友人はいるというが、ほとんどがアメリカにいるとも聞いていた。ここで千鶴は一人だ。一人で、この部屋で倒れて、発見できてよかったと思いながら、もし、あのとき、千鶴が一人だったらと思うと怖い。
サアノは千鶴をしっかりと抱きしめた。
「サアノ?」
「ごめんね、ちーちゃん」
千鶴が愛しくて、愛しくてたまらず、抱きしめずにはいられなかった。
「……サアノがいてよかった」
千鶴が優しくいい、サアノを抱きしめた。
それだけでサアノは満足した。デートも、美味しい食べ物も、なにもいらない。千鶴がいれば十分だ。
「サアノ、二人で外に行こう」
「えっ」
「まだ、きっと間に合うから」
もしかして千鶴は祭りに行こうといっているのだろうか。
サアノは慌てて首を横に振った。
「だ、だめだよ。ちーちゃん、風邪ひいてるんだし、あんまり外にいったら」
「うん。だから、屋上に行くの」
千鶴の言葉にサアノはきょとんとした。
千鶴が笑ってサアノの手をとって家を出ると、そのままエレベーターに乗り込んで、屋上にのぼった。
マンションの15階まで行った。そのあと、階段にいくと立ち入り禁止の看板がかかっていたが千鶴は無視して横を通り過ぎ、上にのぼった。屋上のドアは古びた鉄の鎖がかかっていた、それは何者かによって破壊されたあとがあり、ドアもノブを回すとあっさりと開いた。
千鶴がにやりと悪戯っ子のような笑顔を浮かべた。
屋上に出ると、冷たい風が頬を撫でた。広がる闇に一瞬サアノは怯えたが、つづいて耳にどんっという音がして、はっとした。
空に赤い色が見えた。
「花火っ!」
「うん。ここからだと、ぎりぎり、ちょっと見える」
暗闇にちらり見えた赤い光が、ちらりと見えた。
サアノは、じっと視線を向けた。
続いて鼓膜に響く重い音と共に空に次々とあがる光が遠くに見えた。
花火をはっきりと見えるとはいいがたいが、それでも、ちらりと見える輝きにサアノは満足した。
「ちーちゃん、きれいだね」
「うん。今度は、もっと近くで見ようね」
千鶴がサアノの手を握り締めてきた。
はっとしたサアノは驚いて、俯いた。声をあげることも、手を握り返すこともできない。
「風邪のこと、ぎりぎりまで言えなくて、ごめん」
「ちーちゃん」
「デート、楽しみだったんだ。ほんとうに」
千鶴の言葉にサアノは泣きたくなった。
こんなにも一緒にいることが嬉しくて、愛しい存在。
「ちーちゃん、きれいだね」
「うん」
「ん?」
視線を感じて顔をあげると、傍に千鶴の顔があった。目を見開いたとき、千鶴の唇がサアノの唇に触れた。
どんっと鼓膜を打つ音がした。
「……ごめん。我慢、できなくなった」
「……」
「風邪、もう治ったと思うけど、もしサアノに移したら」
「ちーちゃん」
「ん?」
「もっかい」
サアノは千鶴の腕を掴んでせがんだ。
「え、だ、だめだよ。サアノ、風邪、ひいちゃう」
「風邪ひいてもいい。今、すごく、幸せだった」
サアノが目を輝かせて見上げてくるのに千鶴は苦笑いして、再びキスを落とした。
サアノは今度は驚いて離れないように千鶴の体を抱いて、唇の触れ合いを深くさせた。長いキスを終えて、離れたときにはもう花火はおわっていたらしく、音一つしない。
「えへへ」
「サアノ、強引」
「だって、嬉しいんだもん」
サアノがにやりと笑うと千鶴も照れくさそうに笑った。