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「馬鹿、馬鹿、馬鹿」
サアノは泣き喚きながらぽかぽかと父の背中を叩いた。
娘を助けて、感謝されるはずが恨まれて父親はぽかんと口を開けて愛娘を見つめた。
「千鶴は先生で、私のこと助けてくれたのに」
「へっ」
「パパの馬鹿ぁ!」
サアノは懇親の力を込めて思いっきり父親の頬を殴った。
「サアノさん、落ち着いて」
殴られた千鶴が慌てて割って入った。
「君、なんで下の名前で呼ぶんだ」
「パパぁ!」
「だって、サァ!」
「あのー、二人とも、目立ちますよ」
睨みあう親子に千鶴が弱弱しく助言した。
確かに、親子の喧嘩の煩さに近所の家から人々が興味深々と顔を出していた。
「本当にすいません」
サアノの父であるユーリは頭を下げた。
「いいえー」
「頬、大丈夫かい?」
「ちょっと痛いだけです」
千鶴がタオルで冷やしている右頬をひきつらせて笑った。
「千鶴、ごめんね。ほんっと」
「大丈夫ですよ。サアノさん」
ユーリがむっと千鶴を睨みつけるのにサアノは無言で父を睨み返した。それに慌てて父は慌てて視線を逸らした。
「さぁてと、料理つくろうか」
「ダーリン、はやくぅ。おなかすいた」
「はいはい」
母がべたべたしてくるのに父は嬉しそうに笑って応じながらキッチンにいそいそと行く。その背を見て、我が親ながらとサアノは複雑になった。
親子の喧嘩を千鶴にいさめられた後、ユーリが急いで携帯電話でどこかに連絡すると車がやってきた。金髪の男がにこやかな笑顔と共に出迎えてくれ、家まで送ってくれた。いったいどういう友達なのかはサアノ自身も知らないが、父親の交流関係は広く、そして派手だ。
家につくと、家に母がいた。
「ダーリン」
「やぁ、ハニィ」
二人は抱きしめあい、キスを交わす。
娘の前でも、娘が世話になっている教師の前でも抱擁とキスの挨拶はやめるつもりはないらしい。
「どこ行ってたの。寂しかったよ」
「ごめんね。ハニィ、サァを驚かせようと思ったら、いろいろとあってね」
車の中であったことはすべて話した。そのとき、ユーリは怒り狂い。その友人も一緒に怒ってくれた。
二人揃って、犯人め、娑婆にでられると思うなよ。などと凄みをきかせていうのを聞いていると、先程までの怒りが醒めていく。自分以上に怒る人を見ると人間、冷静になるものだ。
家の中で母はサアノにもキスをして、千鶴の頬にもキスを送った。母のスキンシップに千鶴は驚くこともなくにこやかに頬にキスを返す。挨拶だということはわかるが、それでもサアノとしては面白くない。
「てか、パパ、いつ帰ってきたの」
料理をしている間は危険だというのでキッチンから追い出されて寂しそうな母にサアノは尋ねた。
「今日だよ」
その言葉を証明するように、居間には大きなスーツケースがある。
「私、知らなかったんだけども」
「ああ、言うのわすれてた」
「ママー」
サアノは呻いた。
「ごめん。ごめん。けど、いきなりの、どっきりもいいでしょう?」
「もう」
サアノが睨むが母はからからと笑う。
「ハニィ、お皿運んで」
「はぁーい」
にこにこと笑って母が立ち上がりキッチンに行くのにはぁとサアノはため息をついて千鶴を見た。まだタオルで頬を冷やしている千鶴を改めてみると、思い出す。
自分は告白したのだ。
それも父の出現でうやむやになってしまったが、答えはほしい。怖いけども、不安だけども、知らないままはいやだ。
「あの」
千鶴に呼びかけようとしたとき、母が料理をもってきてしまった。本当にタイミングが悪い。
サアノはタイミングの悪さに、うんざりとした。
だが、それも父の手製の料理を見ると、消し飛んでしまう。現金だといわれても、ユーリの手料理は最高においしいのだ。
見た目も、どうして、そんなおいしそうにできるのかというくらいに凝っていて、そこらへんのお店には絶対に負けない。
「センセーも食べて」
「けど」
「さぁさぁ、お詫びしたいし」
母の押しの強さに千鶴は苦笑いをしつつ頷いた。
四人でテーブルを囲む。
食べるのには当然のように箸しかないのに千鶴は苦戦していた。箸が思うように扱えないのだ。それを見かねて父がフォークを千鶴にすすめた。
「すいません」
「いや、私も、ここに来た頃はそうだったよ」
「お二人はきれいに食べますね」
「ハニィに教わったんだ、ね?」
「私は、自分のパパに教わったの」
母がにこにこと笑って応える。
母は見た目はスペイン人そのままだが、一応は日本の血も混ざっているのだ。リカはユーリと結婚するまえにスペイン人の母と日本人の父の元で育った。スペイン人である母は鷹揚な人であったが、日本人の父はそうではなかった。厳格で真面目を地でいく彼は、娘が異国の身なりでも日本の文化を容赦なく叩き込んだ。たとえ娘であろうとも容赦なく蹴って叩いては日常茶飯事だったらしい。今でこそサアノを見るとお小遣いをくれる優しい老人になったが、若い頃はかなり激しかったとリカは言っていた。一度リカは笑いながら、実の父と殴り合いをして家出もしたことを語ってくれた。
ベタベタに甘やかされている孫でもある立場にあるサアノとしては、それを聞いてもなんといえばいいかわからなかった。しかし、自由を地でいく母と真面目な祖父が合わないだろうことはサアノも感じていたので驚きはしなかった。
リカはそうした父の教育のおかげで、かなりがさつだが日本の礼儀マナーは見事なものだった。箸の持ち方も綺麗であるし、とてもおいしそうに食べるが、決して食べ零したりはしない。
そうしたリカのことをユーリは嬉しそうに見る。
以前、母の何が好きかと尋ねたとき、ユーリはおいしそうにたべる顔だとはっきりと応えていた。
「ほら、ビール。二人とも飲んで」
「え、それは、さすがに」
「まぁまぁ先生、どうぞ。一杯」
リカが強引に千鶴にビールを勧めるのにサアノははらはらした面持ちで見送った。それを父であるユーリはくすくすと笑っている。
そんな笑う暇あったら止めてくれとサアノは思う。
「ダーリンもビール」
「はいはい」
ユーリまでビールを飲みだしてしまった。
サアノは頭を抱えたい気持ちになった。
まともな大人なんていない。
母であるリカと付き合っていてわかっていたことだったけども。
リカの勧めたビールで千鶴はべろんべろに酔っ払ってしまったし、リカも酔っ払い、ユーリも酔っ払った。
テーブルには食べ終わった料理に、山となっているビール。
元々、ビールはリカが好きで、ダンボール買いしているのだ。
酔い倒れた千鶴とリカは仲良くテーブルに平伏している。ユーリは酔っ払っても顔色は相変わらずだ。
「どうしよう、これ」
「泊まって貰えばいいよ。お客さん用の布団はあるし。よし、ひいてこようか」
ユーリがよっこいしょといいながら立ち上がり伸びをする。今日日本に戻り、その足で娘を迎えに行き、暴れて、料理をして、ビールを飲んでと慌しい日々だというのにユーリは疲れ一つ感じさせない。
「食器をとりあえず、洗っておかないと」
「あ、それ、やるからさ」
慌ててサアノは立ち上がった。
「そう? じゃあ、パパ、布団ひいてくるから、食器をお願いね」
「うん」
サアノは頷いて、食器を片付けて流しにもっていくと、洗い物をはじめた。
料理するのも好きだが、こうして後片付けをするのもサアノは好きなので、あんまり苦にならない。
「サァ」
「なに、パパ」
「手伝うよ」
ユーリは言いながら青いエプロンをつけて、腕まくりした。
「じゃあ、水洗いして、食器を拭いて」
「りょーかい」
二人は黙って食器を洗うことに専念した。
「ママ、嬉しそうだったね」
「うん。ハニィの喜びはすごいね」
ユーリは、リカのことをハニィと呼ぶ。ハニーではなく、ハニィという独断のアクセント。それには甘ったるい砂糖菓子のような含みがあった。
父は母が本当に好きなのだとサアノはいつも思う。
「パパ」
「ん?」
「いろいろとありがとう」
サアノが言うとユーリは目を見開いたあと、朗らかな笑みを浮かべた。
「どーいたしまして。さぁさぁ、そろそろお前も寝なさい。あとのことはパパがしておくから」
「うん」
本当は旅帰りで疲れている父にこれ以上なにかさせるのは忍びないが、娘として素直に甘えることにする。
サアノは居間にいったあと少しだけ考えて客間のほうに顔を出した。敷かれた布団の上に千鶴が寝ている。
気配を殺してゆっくりと近づく。
千鶴の寝顔、そう見れるものではない。
「……サアノさん?」
「起きて、たの?」
あと少しで飛び上がるところだった。それほどにサアノは驚いた。
千鶴の目がうっすらと開いている。その瞳に自分はどのように映っているのだろう。
「サアノさん」
「なに?」
「……僕もサアノさんが好きです」
千鶴は笑って言ったあと目を伏せた。
それは寝言なのか、それとも告白の答えなのか。
サアノには判断つきかねた。ただ頬が、すごく熱く感じられた。
サアノには、今のところ千鶴と特別な関係でいるという自覚がない。
千鶴の答えはあんまりにもずるくて残酷だった。あんな風な返事では、どう思えばいいのかわからない。恋人になれるなんて考えていなかった。
恋人になるつもりも告白するつもりだって、あんまりなかった。――告白しても高確率で断られるだろうし、そうなったら授業で顔を合わせるのなんて苦痛だ。だから、少しだけ生徒の中でお気に入り、ちょびっと近い存在。それでよかったのに。
自分のバカ。
痴漢なんて来るから告白しちゃったじゃない。
その上パパまで来て、千鶴を殴って家になんてあげちゃうから。
サアノはため息をついた。
翌朝は土曜日だったので、サアノは寝坊することが許された。とはいっても八時には起きた。それで家を見ると、パパ――ユーリが完璧に家事をしているのだ。眩暈がした。寝るとき、昨日のことは淡い夢だと思っていたのに。
ふらふらと客間を見ると千鶴がいた。
千鶴と母のリカは八時半にユーリによって起こされた。二人ともひどい二日酔いで――確認すると、ストックしていたビールすべてなくなっていた。おおよそ三十本ばかりあったはずだ。それだけ飲めばこうなるだろう。
そんな二人のためにユーリはホットミルクを淹れた。
サアノはそんな酒臭い人たちを横目にトーストをかじり、紅茶を飲んだ。コーヒーは苦手だが、紅茶は大好きだ。
サアノが一息いれてるころ、ようやくリカと千鶴は食べ終えた。ただし、二人とも頭を痛そうに抱えている。自業自得。
「その、失礼、します。うぷっ」
「私、千鶴のこと送ってくよ。ついでに遊んでくるから」
千鶴が驚いたように顔をあげた。
サアノはそんな千鶴を一瞥しただけで、自分の部屋に戻った。部屋に入って、すぐに身支度をしてしまう。
部屋から出ると居間にいる千鶴が困ったような顔をした。すぐに玄関に行って外に出る。そのまま千鶴と一緒にサアノは歩く。
「ねぇ、千鶴って、どこに暮らしてるの」
「来るんですか」
千鶴が驚いた声をあげた。
「送るっていったじゃん。とりあえず、どこ行くか教えてくれない?」
「そーですけど」
千鶴が俯いた、そのあと早口にマンションがあるところを教えてくれた。
「近くじゃん」
「はい」
「送るよ」
あわよくば千鶴の住んでいるところを知りたいというのもある。
千鶴とサアノは離れて、ゆっくりと歩いた。本当は千鶴の横を歩きたい。歩いて、腕を組みたい。けれども、そんなことはできない。もし生徒に見られたら危険だ。そう思うと、どうしても足が重くなる。
サアノは千鶴の肩を見つめて気持ちがいっぱいになった。
千鶴の住むマンションは白い建物だった。その二階の真ん中に彼は住んでいるそうだ。ドアの前でお別れするのだと思っていたが、千鶴が家のドアを開けると思いがけないことを口にした。
「中にはいってください。お茶を出しますね」
「うん」
サアノは、ここぞとばかりに家の中にあがった。
きれいに整理整頓された部屋が、どことなく千鶴らしいとサアノは思った。千鶴はサアノのために紅茶を淹れた。
「おいしい」
「パパさんのほうが美味しかったです」
「千鶴のほうが美味しいよ」
サアノは唇を尖らせて言い返した。その言葉に嘘はない。ユーリが淹れたものより千鶴の淹れたもののほうが美味しいとサアノは思った。
「ねぇサアノさん」
「なに?」
「これから、二人きりのときは、サアノって呼んでもいいですか」
思わず吹き込んだ。
飲んでいたお茶が気管にはいったらしい、サアノは咳き込んで咽たのに千鶴が慌てて背中を撫でた。
「な、なに、いきなり」
「だって、恋人同士だから」
「……ほ、本気でいってる?」
「はい」
千鶴が大真面目に頷くのにサアノは眩暈がした。
昨日のことを千鶴の中ではしっかりと現実として受け止めている。それも、現在進行型で大変な現実で目の前につきつけられている。
これで混乱するなというほうが酷というものだろう。
だが、これは現実なのだ。
千鶴は昨日の告白のことを覚えている。そして、その告白が有効だとも告げている。嬉しいけれども、こんな嬉しいことが現実に起こると、信じろというほうが無理だ。思わず自分のほっぺたをつまんでみるが、確かに痛い。
「サアノさん!」
「ん、ああ、現実か確認してみたの」
サアノは笑顔で言い返して千鶴をじっと見た。
「でさ、私のことサアノって呼ぶの?」
「はい」
千鶴が頷いたあと、少し照れたようにはにかんだ笑みと共に
「サアノ」
まるで宝物を自慢するような声だったのにサアノは嬉しくて胸がいっぱいになった。そして、この特別なのを千鶴だけが体験できるというのは急にずるいように思えてきた。
「私も特別な呼び方ほしいんだけども」
真剣な顔で言うと千鶴はにこりと笑った。
「好きなように呼んでください」
「うっ」
千鶴のことはいつも千鶴と呼んでいる。これでは、呼び捨てだけでは特別という感じがしない。
これだったら、真面目に千鶴先生とか、そういう風に読んでおけばよかったとサアノは改めて後悔した。
千鶴の顔を見るとにこにこと笑っている。なんて呼ばれるのか期待している顔だ。
「千鶴ってさ、友達とかはなんて呼んでいるの?」
「友達ですか? ……うーん、チアと呼ばれてますね。マリーには」
「マリー?」
なんで、ここで女の名前なんだ。
「はい。マリーとジュナはチアと呼びますよ」
またしても女の名前にサアノは顔を険しくさせた。その険しさに千鶴は驚いたように目を瞬かせた。
「サアノ?」
「なんで女の名前なの。ここで」
「……え、えっと、友達で」
「嘘でも男の名前をいってよ」
「ええっと、マイクも、アルノーもチアと読んでますよ」
それで今更男の名前をあげる千鶴にサアノは苦笑いした。
千鶴は可愛い。それもとても魅力的だ。こんな彼を自分の知らない彼の友人は愛していたに違いない。
千鶴はきっと誰にだって愛されてしまう。そういう人だ。
「じゃあ、私はねぇ」
サアノは考えた。
チアというのは素敵な呼び方だと思う。千鶴の可愛らしさなんかをぎゅっと凝縮し、愛を感じさせる。だが、それでは女ぽさもある。
なによりも、自分は友達ではない。
「ちーちゃんって呼ぶ」
真っ直ぐにサアノは千鶴を睨むように見つめた。
「ちーちゃん?」
「そう」
だめかなぁと思ってサアノは小首を傾げた。サアノとしてはいろいろと考えて呼んだつもりだが、男がちゃんづけなんていやだったかもしれない。
「嬉しいです」
くしゃりと笑顔を浮かべる千鶴にサアノはほっとした。