3
サアノは滅多に机に向かわない。
勉強をするなんて考えただけで頭が痛くなる話だ。
そんなサアノが今、白いルーズリーフを手に机に向かってシャーペンで、文字を書いていた。
千鶴に関して知る限りのすべてを書き出していた。
そうすると、あんまりにも情報が少なくてもサアノは愕然とした。
知っていると思っていたが、本当は千鶴のことをほとんど知らなかったのだ。それがなんだか情けない。
千鶴が好き。
放課後に馬鹿みたいに自分のことを待っていてくれた千鶴。彼は、サアノのことを責めることもなければ詰ることもなく、笑顔で迎えてくれた。絶対に自分がさぼろうとしたことわかっているはずなのに、それについてはまったく触れずにサアノは淡々と勉強を教えてくれた。
それがサアノの気持ちを苦しくさせた。
同時に、千鶴のそうした気遣いが、愛しくてたまらなかった。
胸が苦しくて、つま先が痺れる様な感覚。
自分は千鶴に恋しているのだ。
だのに千鶴のことをあんまり知らない真実に、少しだけショックを受けた。きっとファンクラブの女の子なんかは、自分の知らないことをもっとよく知っているだろうが、さりげなく聞きだそうにも彼女たちの結束は固い。
下手すると彼女たちを刺激して危ういことになりかねない。なによりも自分はファンとは違う。間違いなく恋をしている。
考え直すと、あの最悪な出会いも、自分と千鶴の二人だけの特別な出会いで嬉しくなる。学校以外で、普通の生徒たちとは違う出会いが出来たのだ。
勉強はいやだが、放課後に思う存分に会える。
一緒にいる時間が、いまのところ、大切なのだ。
二人で埃ぽい、放課後らしい静かな教室で、サアノが動かすかりかりとペンの音だけがする。
千鶴が製作した小テストをしたあと、間違えた単語をノートに何度も書く。千鶴が、そのときどきに単語の説明もしてくれる。サアノとしては、こんなにも単語を書いて、千鶴が説明してくれるのに覚えがいまいち悪いのは、なんとも申し訳ない気持ちに陥る。
「ねぇ」
「はい」
「千鶴ってさ」
そこでサアノは慌てて言い直した。
「千鶴先生」
「千鶴でいいですよ」
千鶴が微笑んだ。
思えば、千鶴は呼び捨てにされるのも、みんながつけた「ちずちゃん」という愛称もいやがってはいなかった。
「……呼び捨てとかいやじゃない?」
「フランクでいいと思いますが」
千鶴のあっけらかんとした言葉にサアノは笑った。
「あ、けど、先生と呼ばれるのは、嬉しいです。なんだか賢くなったみたいです。照れます」
「ふーん、あのさ」
「はい?」
千鶴が身を乗り出してきた。質問はなんだって受け付ける千鶴はサアノに話しかけられることを一つも苦痛としていない。どんな馬鹿な問い――たとえば、なんで英語なんてあるんだろうとサアノが愚痴ると「世界は広いんですよ。覚えたら、また一つハッピーになりますよ」などと明るく言い返してくる。
だから、こんな問いをしたって、きっと千鶴は応えてくれるはずだとサアノは確信していた。
「なんで千鶴なんて名前なの?」
本当は、もっと別のことを聞こうと思っていたが、つい、そんなことを口にしていた。
「千鶴ですか?」
「千の鶴って書くんでしょ?」
女の子みたいな名前だとサアノは思う。名前を裏切らず、千鶴は童顔で、なんとも可愛らしい男性だ。
「母の趣味ですね。母は、日本の古い文化が好きな人なんです。ええっと、京都の出身なんですよ」
「けど、アメリカ行ったわけでしょ。矛盾してない?」
サアノのずけずけとした言葉に千鶴は笑って頷いた。
「アメリカも好きな人なんです。それに、たぶん、好きだから、離れていたほうがいいというのもあるんです」
一年の大半を離れていても愛し合っている自分の母と父を思い出すと、どことなく理解できなくもないので、とりあえず頷いておいた。
「サアノさんのお名前もいいでよすね」
「私の?」
サアノは自分の名前を褒められて驚いた。
「サアノなんて日本人ぽくないもん」
見た目だって日本人ぽくないのに。
「なんて書くんですか?」
「えーとね」
サアノは少し迷いながらシャーペンをノートに走らせた。
沙亜乃。
書き終わってサアノは満足した。漢字でもカナでもひらがなでもいい響きの名前だと思う。
「パパの故郷では健康とか、そういう意味があるんだってさ」
「いい名前ですね」
千鶴に褒められてサアノは嬉しくなった。
「サンキュウ。あ、それでさ」
「はい?」
「嫌いなものとかある?」
「嫌いなものですか?」
千鶴が少し迷うように首を傾げたが、すぐに笑顔になった。
「虫は苦手です。とくに足の多いのは」
「違う。違う。そういうのじゃない」
サアノは慌てて首を横に振って、じっと真剣な顔で千鶴を見た。
出来るだけばれないように遠まわしに聞こうと思ったが、千鶴相手に、そんなことしては先に進むものも進みそうにない。
「えーとね、食べ物で嫌いなものとかあるってこと」
「食べ物ですか?」
「そうそう」
「そーですね」
千鶴が迷うように視線を巡らせた。
「何でも食べますよ……あ、けど、納豆苦手ですね。あと、辛いものはちょっと苦手です」
「じゃあさ、甘いものとかは?」
ここが一番重要だ。
サアノの問いに千鶴は蕩ける様な笑顔を浮かべた。
「大好きです」
サアノの決断は、早々に決まった。
家に帰る道で、サアノは、まずスーパーで買い物を済ませた。帰って早々に母と自分のための夕飯を作り終えてからキッチンを独占した。元々、母はキッチンを使わないのだから、気にすることはないのだが
ボウルで生地を作りながらサアノは頬を緩ませた。
料理なんて面倒だと思っていたが、こうなると自分が料理できる女でよかったとつくづく思う。
生地を適当な大きさにしてオーブンで焼いていく。
家のキッチンは無駄に料理用品の品ぞろえがいい。
それは十歳のときにお菓子作りに凝っていたサアノに誕生日プレゼントとして父が買ってくれたのだ。
そのうえ父の親戚たちは、サアノのために本格的な料理用品をすべて買ってくれた。
年に何度も会うこともない父はサアノに甘かった。そして、父の親類はさらに年に一度会えるか程度で、彼らは父に輪をかけて甘かった。サアノがほしいものというものを喜んで与えてくれる。それだけの経済的な余裕もある人たちなのだ。十四のときに父に連れられて行った親類の家は、豪華な庭――というか平野にあり、何個も部屋があった。びっくりしたことに、貴族なのだ。
その頃は貴族がなんなのかわからなかったが、そこは、とっても大きくて豪華で優雅で知的で、サアノを甘やかすだけ甘やかしてくれる素敵な大人たちがいたところだった。
「サァ、なにしてるの?」
「クッキー焼いてるの」
甘い匂いに誘われて母が顔を出してきた
褐色の肌、目がぱっちりとしたきれいな人だ。きれいというよりも可愛いタイプ。今は趣味で駅を二つ超えたところでフラメンコを教えている。黒い髪にウェーブがかかり、腰まである。情熱をそのまま人間に収めたら、きっと母みたいな人だとサアノは思う。
そして、自分はこの母によく似ている。
ものの考えとか行動とかが。そしてよく二人は反発しあう。母は大人で保護者なくせに、サアノに本気で怒り、挙句に泣き喚くなんてこともやる。
「ワォ。ママ、あつあつほしい」
「二枚だけね」
「けちー」
焼きたてのクッキーを目の前にすると母の顔色は蕩けるほどに笑顔になった。一枚つまんで、あつあつと言いながら一口頬張ると、ぱっと笑う。
父は、母の笑顔を常夏の太陽のようだと言う。確かに母の笑顔は太陽のようだ。人を惹き付けてやまない。
「おいしいー。あーん、もっとたべたーい」
「だめよ」
「けちー」
母が口を尖らせる。
「あー、じゃあ、五枚だけね」
「やったぁ。サァ、大好き」
母がサアノをしっかりと抱きしめて頬にキスを落とす。すると、すぐに離れてクッキーを食べることに夢中になる。
「ねぇママ」
「なぁに?」
「パパはなんでママなんかと結婚したの」
つくづく謎だ。
あの優雅で上品で、貴族というものを地でいく浮世はなれした男性を、母はどのように射止めたのだろうか。
「それはパパの一目惚れよ」
クッキーを一口食べたあと、ふふんっと笑う母は付け足した。
「ママも一目惚れ。運命の赤い糸が二人を導いたの」
「ふーん」
世間なんて世知辛いとサアノは子供の頃から思っているが、どうしても恋や愛というものには夢がくっついてしまう。
一通りのことは体験したし、クラスメイトたちの話だって聞いている。自分の容姿だけで口説いてくるナンパ男たちに辟易しても、やっぱり運命の赤い糸はあるのだと思う。
それは情熱的に愛し合っている両親のせいだ。
「私も、そういう出会いしたい」
「サァはできるよ。ママの子だもん」
「ありがとう。けどさ」
「なぁん?」
「よく、こんなずぼらなママでもパパは離婚しなかったね」
サアノが言うと母は目をつりあげると片手をあげてサアノの頭をぽかりと殴った。
放課後までサアノは落ち着かなかった。何度も鞄を見てはクッキーがあることを確認して――女の子過ぎなくて、自分の気持ちがばれない程度と考えてあえて小さな透明なプラティックの容器にいれてきた。昼休みはしきりにクッキーが気になってしかたがなかったが、我慢、我慢と自分に言い聞かせた。
ようやく待ちに待った放課後が来ると、サアノは早々と教室を出た。帰る友達たちは「何かいい約束?」とまで声をかけられてしまった。いかん、いかん。顔が緩む。準備室に行くと、千鶴はまだ来ていなかった。サアノは仕方なく手前の席の椅子をひいて座って待つ。クッキーを見て千鶴はなんていうだろう。喜ぶかな。それとも、下手をして迷惑顔されたら、どうしよう。サアノは一瞬悪い考えに至って慌てて頭をふって、それを否定した。千鶴に限って、そんなことは絶対にない。何よりも甘いものは好きだといっていた。しかし、もしその甘いものが好きだというのに例外的にクッキーが嫌いだったら?
ありえない妄想に一人で悶々として頭を抱えてサアノはじたばたとする。
「サアノさん?」
「うわぁ」
「頭でもいたいんですか?」
入ってきた千鶴が笑いかけるのにサアノは慌てて首を横に振った。
「ううん。全然」
「よかったです。じゃあ、勉強をしましよう」
「うん」
大きく頷いて、あっとサアノは思う。
クッキーを渡すタイミングを失った。
私の馬鹿。
タイミングを逃して、そのままいつものように小テストをして、単語を覚えるために書いてという静かな、それでいて緊張とした勉強の時間が過ぎた。
「はい。今日はここまでにしましょう」
「はい」
「今日はいつもより静かでしたね。サアノさん。体調悪いんですか?」
千鶴が心配して声をかけてくる。
そういえば、今日はいつもより早く終わったと思った。もしかしたら心配して早く切り上げてくれたのだろうか。
確かにいつものサアノだったら悪口から悪態までぶつぶつとついてやっていただろう。しかし、今日はクッキーのことが気になって、まったく何かをしゃべる気になれなかったのだ。
「ううん」
「本当に?」
心配そうに首を傾げてくる千鶴にサアノは大きく頷いた。
「あのさー」
「はい?」
「えーとね」
「はい」
「んーとね」
中々言葉が出てこないサアノを千鶴は辛抱強く待った。
「えーと、これ」
サアノは自分のまどろっこしさに耐えかねて鞄からクッキーのはいった箱を差し出した。受け取った千鶴は怪訝とした顔をした。そしてちらりとサアノを見たあと、蓋を開けてふぅと声を漏らした。
「クッキーですね」
「うん。食べてみて」
サアノに言われて千鶴はクッキーを一つつまんだ。
「おいしい」
「よかった」
緊張の糸がぷっつりと切れて、ほっとした声をあげていた。
とりあえず、千鶴はクッキーが嫌いではなかったようだし、更に言うと口にもあったようだ。
「これ、サアノさんが作ったんですか」
「まぁーね」
「すごく美味しいです」
そういいながら千鶴はクッキーを食べる姿を見ていると、自然とサアノは笑みがこぼれた。
自分が作ったものを賞賛され、そして食べてもらうというのは気持ちがいい。はじめてサアノが作った料理を食べてくれたのは両親だった。その両親は口々に美味しいといって食べてくれた。それが嬉しくてサアノは料理を自分から進んでするようになったのだ。
「けど、こんないいものをどうして?」
「え、えーと……ほら、日ごろ、勉強見てもらってるからお礼」
サアノは慌てて言い返したのに千鶴は納得したというように頷いた。
「ありがとう。サアノさん」
「ううん。どーいたしまして」
千鶴の笑顔を見ると、なんだか距離が縮んだようにサアノには思えて、嬉しかった。
「では、残りはあとでゆっくりと食べますね」
「うん。食べてね。口にあってよかった」
サアノは自然と口を開くと千鶴もほっとした顔をした。
「こんなものをいただけると思いませんでした。本当に、今日、いただけてよかった」
しみじみといわれてサアノは首を傾げた。
「今日で、勉強会は、おわりです」
「はぁ?」
思わず声を荒らげてサアノは千鶴を睨む。
「なんで」
「そと、暗いですよね。帰り道、危ないです」
「そんなの、関係ないもん」
サアノは不服そうな顔を作った。
だが、こうもあからさまにいやだと言ったら、自分の気持ちがばれてしまうのではないかと思ってサアノは慌てて口を閉ざした。
「サアノさん、そんなにも勉強が好きだったんですね。嬉しいです」
「あー」
違うんだけども、否定はしないサアノに千鶴は微笑みかけた。
「だから、大丈夫ですよ。もう。サアノさん、ちゃんと勉強できます」
「あー、うん」
「こんな夜にサアノさん、帰るの危険ですからね。送りますよ」
「ううん。いいよ」
サアノはそういうと千鶴をちらりと見た。
その笑顔を見ると、胸が苦しくなった。自分と関わることが終わってそんなにも嬉しいのか。自分は胸が押しつぶされてしまいそうなのに。
「帰る」
それだけ言ってサアノは背を向けると踵返した。
千鶴が呼ぶ声がするが、それを無視してずかずかと歩いて校舎を出ると、門をくぐり出た。夕暮れの暗い道に出ると、冷たい風が頬を撫でる。なんだか無性に悲しい気持ちでいっぱいになった。
もう千鶴との二人きりの秘密の時間はないのだ。
それが、ひどく悲しい。
帰り道をただ歩きながら泣きそうになる。そもそも、変態なんて私に絡んでくるはずないし! 絡んできたら、小さいって言ってやって、それで、それを蹴り付けてやるんだ。
考えに没頭して、まったく周りのことを気にしていなかった。
「ねぇ、君」
不意に腕を掴まれて、引き寄せられる。
サアノはあまりのことに絶句した。
なに、いきなり。
「かわいいね。外国人、わぁ制服なんてきてる」
背広をきた三十そこそこくらいの男がにやにやと笑ってサアノに迫ってきた。
変態だ。本物の変態で絡んできた。
それだけでサアノの頭はパンクした。先ほどまで変態が自分になんて絡んでくることなんてないと思っていて、もしものときは絶対に撃退してやるとも。けど、現実に起こったらどうすればいいかなんてわからない。
気がつくと周りには誰も居ない。閑静な住宅街なので、叫べば誰かが出てきてくれるかもしれないし、少し走ればあの愛想のわるいおまわりがいる交番だが
「や、やだ」
サアノは震えたが男は気にせず近づいてくる。
「助けて、千鶴!」
「サアノ!」
今まで聞いたことのないハスキーな声の怒声だった。
ほとんど同時だった男がふっとばされたのは
「あっ」
千鶴がいる。
千鶴が自分の前にいる。
サアノは、その現実を確認しただけで胸がいっぱいになった。千鶴がサアノの知らない言葉を吐き散らして、男を蹴っていく。そのあまりの怖さにサアノは唖然として、慌てて千鶴の服を掴んだ。
「ち、千鶴、そ、それ以上したら、死ぬ。死ぬよ。その人」
道路に倒れている男を蹴っていた千鶴が恐ろしい形相でふりかえってサアノを見た。そして口を開くと、罵られた。
サアノの知らぬ言葉でだ。
肩で息している千鶴は深呼吸をしたのちに、じっとサアノを見た。
「馬鹿」
千鶴からようやくわかる言葉が出てきたが、それはあまりにもぶっきらぼうだった。
「とっても心配しましたよ。サアノさん! 一人で帰って、最近学校の近辺に変質者が出てるの、あなた、しらなかったんですか」
「ごめんなさい」
千鶴に怒られてサアノは俯いた。
「とりあえず、この男、しょっぴきますよ」
千鶴が怒りを滲ませて吐き出すのにサアノはこくこくと頷いた。
千鶴はその小さな体に見合わない怪力を発揮して男を担いで、近くの交番に突き出した。事情を聞いたのは、年配のおまわりさんで、ほーとか、へーとかいいながら顔が血まみれの変質者を見て苦笑いした。
「うん。けど、これはちょっとやりすぎだね」
「すいません」
「うん。まぁ、女の子になにもなくてよかったよ。なにもなかった?」
サアノはこくこくと頷いた。
「うん。よかった。よかった。けど、怖かったろう? 事情聴取はしなくちゃいけないけども、それは後日にするから。親御さん呼んで迎えに来てもらう?」
「あー、えーと……あの、うちママしか、いまはいなくて、それで、ママは六時半までフラメンコ教室のほうにいるんです」
「それは」
年配のおまわりさんが困ったように頭をかいた。
「私、送っていきます。この子は大切な生徒です」
千鶴が言うと年配のおまわりさんはうんうんと頷いて笑った。
「じゃあ、お願いします。あなたにも、後日事情を伺いますから」
「はい」
千鶴がサアノに笑いかけた。
サアノは小さく頷いた。
千鶴は自然とした動きでサアノの左手をとると歩き出してくれた。そのおかげでサアノは歩けた。
交番から道を歩きながらサアノは自分に何が起こったのかわからなくて混乱していたが、冷えた空気に頭を撫でられて落ち着いてきた。
「……千鶴、助けてくれて、ありがとう」
「いいですよ」
「けど、よく居合わせたよね」
「サアノさん一人で帰るの、慌てて追いかけたんですよ。歩くの早いですね」
「まぁね」
そこで会話が途切れた。
とたんに涙が溢れてきた。
「怖かったよ」
握られた手をぎゅっと握り返してサアノはぽろぽろと涙を零した。
「私も、心底、怖かったです」
「千鶴も?」
「サアノさんに、何かあったのかと思ったら、頭に血がのぼってました」
「怖かったよ。千鶴」
「ふふ、怒ると怖いんですよ」
千鶴が笑うのにサアノも弱弱しく洟をすすりながら笑った。
「あのね」
「はい」
「私ね、千鶴が好き」
口に出したあと、すごい深い不安と嬉しいような安堵が胸に広がった。
「サアノさん」
「サア!」
甲高い声がしてサアノは驚いた。それは千鶴も同じだったらしい。二人とも驚いて前を見た。とたんに千鶴が殴り飛ばされた。
「え、あ、ああああ」
サアノが叫ぶのに、その突然の闖入者はサアノを背でかばうように立った。
「うちの娘に何をするか!」
「ぱ、パパぁ!」
サアノは混乱した声をあげた。