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サアノは千鶴を連れて、とりあえず目ぼしいと思える学校の施設案内をして行った。
今更だが、学校に来て授業を受けて、帰るという最低限の範囲でしか行動してないため、学校を改めて見回すと自分でも、こんなところにこんな部屋があったのかと驚いたりもした。
「広いですね」
「うん」
「そうだ。図書室ってどこにあります」
「図書室?」
サアノが怪訝として千鶴を見た。
「はい。本を借りたいんです」
「なに借りるんですか」
別にそこまで興味はないが、社交辞令としてサアノは尋ねると、千鶴の目が輝いた。
「源氏物語です。日本を来たら、あれを読破したいと思ってました」
「先生、それ、ちょっと難しいと思うけど」
サアノは目を見張って言った。
「それに、あんな最低男の話のどこがいいの」
「おや、サアノさん、源氏物語読んだことあるんですか!」
千鶴が嬉しそうに尋ねてきたのに慌ててサアノは首を横に振った。
「まっさかー。漫画を読んだの。漫画を」
「漫画! 日本のいい文化ですね」
千鶴は終始大げさというくらいにサアノの言葉に目を見張ったり、笑ったりをして相槌を打ってくれる。
たぶん、千鶴が人気なのは、微笑と、この対応だからだ。
話しこんでいるとすぐに図書館についた。
図書室は南校舎の一階の一番端にある。夏はクーラー、冬はストーブが置かれている。昼休みは涼んだり、あたたかさを求めて生徒たちがちょくちょく来る。
図書室のドアを開けると、すぐに受付カウンターがある。カウンターに座る黒髪の娘は、サアノを見ると、嬉しそうに立ち上がった。
「まぁサアノお姉さま」
「よぅ、真理子」
真理子は、サアノの一つ下の一年生だ。
腰くらいある長い黒髪に、赤いヘアバンドをして見るからに優等生の少女だ。真理子はどうしてかサアノに熱をあげている。いつもサアノお姉さまと呼び、きらきらとした星が飛んでいるような目で見つめてくる。そういう目で見られるのは悪くはないし、女子高特有のお姉さま、妹という関係――隣のお高くとまったお嬢様学校ほど激しくはないにしても多少は存在する。
慕われるのは純粋に嬉しい。何よりも真理子はとてもいい子だ。ときどきクッキーを作ったりしてサアノにプレゼントしてくれる。甲斐甲斐しい真理子のことがサアノは大好きだ。どうしてこの娘が、こんな学校に来たのだろう。隣のお嬢様学校のほうが、ずっと似合っている。
「この方は」
「ほら話題の」
サアノがそういうと真理子は頷いて、じっと千鶴を見た。
「はじめまして。千鶴といいます。英語を教えるためにきました」
千鶴のたどたどしい言葉遣いに対して真理子はにっこりと微笑んだ。
「ちょっと、この先生に学校のこと教えてるの」
「サアノお姉さま、ご案内しているの?」
「そういうこと」
真理子はカウンターから出てくると、サアノの右腕にしっかりとしがみついてきた。
いきなりべたべたと甘えてくる真理子にサアノは驚いた。いつもは控えめで、女の子同士でも人前でこんな風に腕組だってしない子なのに。
「図書室の中は私、案内するわ。ねぇお姉さま」
「うん。真理子のほうがよく知ってるし」
真理子の笑顔の迫力に押されるようにサアノは頷いた。
真理子はサアノのお許しを貰うと、腕を組んだまま図書室の中を歩いた。女の子同士だと、スキンシップで腕を組んだりくらいはよくあることなのでサアノはまったく気にならなかった。
図書室なんてただ時々涼んだり、あたたかさを求める程度にしかこないので、中を案内してほしいなんていわれても、出来ないので真理子がいて正直、助かったというのもある。
千鶴は、借り出しカードを作り、宣言したように源氏物語を借りた。
借り出しの本は、二冊。それで二週間が期限となっている。
真理子の説明は丁重であったし、対応だって丁重だったが、なんだか終始千鶴を見る目が厳しかった。
あんなにも人気で若い男なのに、真理子のお気に召さなかったらしい。
図書室を出るとき、真理子はサアノも貸し出しカードを作ればいいのにと誘ってきたが、そのお願いは聞けなかった。サアノが教科書以外で本なんて読んだら、きっと明日は雨が降ってしまう。
千鶴は目当ての本を借りれて上機嫌だった。
サアノとしては、そんな千鶴の機嫌の良さにつられて、自然と笑みが浮かんできた。
「ねぇ、聞いてもいい?」
「はい」
「なんで日本に来たの?」
言ったあと、この質問は、ちょっと無遠慮だったかと思った。
「両親の故郷を見たかったんです」
「ふーん、やっぱりさ、その見た目で苦労とかした?」
サアノは自分の髪の毛を右手でいじりながら言った。
「そうですね、少しだけ」
千鶴はあっさりと肯定するのにサアノは驚いた。なんで、そんなにもあっさりと言い返せるのだろう。
「けど、とってもいいことですよ」
「なんで? 苦労したのに」
「だって、これは両親から貰ったものですから」
千鶴の言葉はサアノには理解しがたい。
自分の見た目で苦労している――もちろんいいこともあるが、それ以上にいやなことも多かった。
両親が嫌いとか、見た目について文句を言ったりするほどに馬鹿ではない。もちろん、ちょっと恨んだこともあったが、そんな時期はすっぱりと越えてしまった。今は、この見た目は不便だな。自分の馬鹿は困ったものだ程度に思っている。
ただ千鶴のように両親から貰って、それがいいことだと言い切れるほどに外見を好きだという気持ちはない。
「サアノさんも、素敵ですよ」
「ありがとう。けど、あんまり、好きじゃないんだけどね」
千鶴が立ち止まった。
二歩進んでサアノも立ち止まり、振り返る。すると、不意に千鶴の手が伸びてきて、サアノの額に触れた。
ぽんぽんという感じの頭を撫でる手。
サアノはぽかんとして千鶴を見た。
「おまじないです」
「なんの」
「マイナスはプラスになるおまじないです」
千鶴は笑っている。その笑みを見てサアノはぽかんとして、すぐにふっと笑った。
「そういう考えって、素敵かもね」
この教師は悪くない。
サアノは自然とそう思った。
千鶴から呼び出しを喰らった。
それは千鶴が学校に赴任して来てから一ヶ月ほど経った日のことだ。教室で授業のあと呼ばれると、放課後に職員室に来てほしいとのことだ。
あれだけ若い教師というので騒いでいた生徒たちもだいぶ落ち着きだしはいた。しかし、千鶴の人気が衰えることはなく、むしろファンクラブなるものまで出来るほどだ。
サアノは、そこそこ悪い生徒であるため、呼び出された理由を一つ二つと考えながら職員室に向かった。その職員室で、ひどく真面目かつ険しい顔をしている千鶴の顔を見ると、自分はそこまで真剣に心配されるようなことを何かしてしまったのだろうかとサアノはひどく不安を覚えた。
「あの、なんですか」
サアノは、とりあえず、下手に出てみることにした。
そうすると、千鶴がどんよりとした顔でサアノを見つめた。
「サアノさん、もうちょっと」
「はいはい」
あんまり大声で言えないことなのか、手招きされて、サアノは素直に顔を近づける。職員室でも、あまり顔を近づけすぎては問題だろうかとサアノは少しだけ邪なことを考えた。職員室は放課後だが、教師は千鶴しかいなかったが、そんなことはありえないとサアノはすぐに否定する。
この真面目な千鶴に限っては、なにかあるということは絶対にないだろうと思っている。
「テストの点、最悪です」
「はぁ?」
いきなり、それか。
テストの点が悪いぐらい、いつものことだ。
サアノの頭の悪さは筋金入りで、決して平均値が高いとはいわないこの学校でもかなりぎりぎりの領域に属している。
しょっちゅう担任の頭を悩ませ、髪の毛が白色になる原因に貢献してきただろう。
幸いなのはサアノの両親は、そこまで深く考える人ではなかったことだ。テストの点が悪くても死ぬことはないというかなり楽天的かつ明るい。だからサアノの深く気にせずに今まで生きてきたが、千鶴の顔を見ると、これはただごとではないと思ってしまう。
「これ、見てください。前にした小テストです」
差し出されたのは二日前に千鶴が抜き打ちでした小テストだ。
見事にバツのオンパレード。つまりは、零点。
これを見ると、サアノとしも気まずい。
「このままではいけませんよ、サアノさん」
「はぁ」
だからといっても、どうしろというのか。
サアノは自分でも英語が苦手なことくらいわかっている。努力してもちんぷんかんぷんで、まったくわからないのだ。
「サアノさん」
千鶴の声に険が篭る。
間抜けな声をあげたサアノに対して怒っているようだ。
「このままでは落第ですよ」
「この点をとっている地点で、そうなんじゃないの」
サアノは言い返すと千鶴は深いため息をついた。
「危機感をもってください」
「すいません」
本人以上に危機感を持っている千鶴の言葉にサアノは苦笑いして頭をかいた。
「これから特訓ですよ」
「と、とっくん?」
まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったサアノはすっとんきょんな声をあげた。
「そーです」
真面目な千鶴の頷きはジョークというわけでもなさそうだ。
今まで成績が悪くて教師に何度が小言を言われてきたが、まさか特訓をするといわれたのは、これがはじめだ。
「いや、うん、えー」
「がんばりましょう」
千鶴がサアノの手をとってぎゅっと握り締めて言う。これはとてもではないが逃げられそうにない。
「がんばろって、具体的には」
「放課後、みっちりとがんばるんです」
「えー」
授業から解放されるべき時間にまだ勉強するというのにサアノは激しい拒絶感を感じた。とてもではないが、自分には、そんなことできそうにない。
「明日から準備室に来てください。勉強を教えます。もちろん、みんなには内緒ですよ」
「えー」
「ねぇ」
千鶴の笑顔を見てサアノは頭が痛くなった。
放課後まで勉強するなんてとんでもない話だ。
サアノとしては、断然お断りである。
千鶴に来いといわれて翌日の放課後、サアノはさっそく帰り支度をはじめていた。千鶴には悪いとは思うが、そんなものに付き合うほどに自分は酔狂ではない。馬鹿なら、馬鹿でもいいじゃないかという開き直りもある。
自由な時間を勉強に費やすなんて、そんなの考えただけで蕁麻疹が出てくる。帰る生徒たちに紛れて、こそこそと学校を出たが、家にそのまま帰るのにも迷ってしまった。そうすると仲のいいクラスメイトがゲームセンターに行こうと誘うので承諾した。ゲームセンターでプリクラをとって、対戦格闘ゲームで時間を費やす。サアノは格闘ゲームが得意で一人で全勝すると友達たちがきゃきゃと喜んでくれた。つい気になって腕時計を見ると一時間以上経っている。さすがに千鶴も諦めるなり腹を立てるなりしているころだろう。きっと明日はお叱りを受けるが、サアノには何を言っても無駄だと思ってくれるはずだ。
「サアノ、そろそろ帰ろうか?」
「え、あー」
サアノは困り果てて頭をかいた。
駅に向かって歩いてくる友達を見てサアノは迷いに迷って首を横に振った。
「ごめん。ちょっと学校」
きっといるはずもない。
サアノは学校に歩いた。
学校の門は閉ざされているのに、サアノは周りをきょろきょろと見て誰もいないのを確認するとスカートがめくれるのも気にせず、鉄門をよじのぼり中に入った。
そのまま準備室に向かった。
いるはずもないと思いながら静かな廊下を歩いて、辿りついた部屋は灯りが灯っていたのに、急いでドアを開けた。
「サアノさん」
「先生」
「来てくれると思いました」
千鶴の笑顔にサアノは驚いた。
「馬鹿じゃないの」
サアノは掠れたように呟き、泣き出したい気持ちになった。