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最悪の出会いは、本当に突然だった。
サアノは、その男に声をかけられたとき、一瞬ナンパかと思った。
自慢ではないが、よくナンパされる。それが自分の見た目のせいだということをサアノは良く知っているから、うんざりとするのだ。またかよとおもって振り返ると、ちょっといつもと違っていた。いつも声をかけてくる男は、どこから湧くのか無駄な自信を全身に纏わせた気障たらしい二枚目と決まっているのだが、この男はそんな雰囲気はない。むしろ、おどおどとしている。子犬みたいだ。
栗色の髪の毛に、栗色の瞳。整っているが、色濃く焼けた肌に童顔といってもいいくらい幼さのある顔立ち。たぶん、高校生のサアノよりも年上のはずだが、不本意にも、可愛い人と思ってしまった。
「すいません、あれ、なんて読むんですか」
「はぁ?」
男が指差して尋ねてくるのにサアノは怪訝として、そちらの方向を見た。
「えーと、山下」
「ええっと、では、ここらへんに女子高があると思うんですが」
「どっちのこと?」
サアノが尋ねると、男が驚いた顔をした。この男は、土地勘がないらしい。
「どっち、というと?」
「二つあんの。ここらへんに女子高って」
「えーと、東高校です」
「ああ、近いよ」
そこは頭の悪いサアノをなんとか受け入れてくれた高校である。近所からは馬鹿高と呼ばれている。しょっちゅう学生が問題を起こったりと、何かと騒がしいが、そういうところもサアノは明るいと思って気に入っている。妙に偉ぶったものが嫌いだし、どちらかというと馬鹿だと自覚しているサアノとしては過ごしやすい。
ただ一つだけいただけないものがある。それは近くにお嬢様学校で、その高校とちょくちょく争うことだ。なんでみんな比べることが好きなのか。
ちなみに比べているのは、主に両方の学校の生徒同士だ。サアノの傍にいる子たちも、お嬢様学校の悪口を言うのにいつも躍起になっている。
どうにもお嬢様というやつは人の感情を逆撫でするらしい、または女特有のプライドか、いつも東高校の娘は、隣のお嬢様高校をなにかと引っ張りだして馬鹿にする。それがますます自分たちを惨めにすることをわからないくらい馬鹿なのか。つまりは犬猿の仲なのだ。
「良く見れば、あなたのその制服……東高校のですね」
「うん、まぁね」
「嬉しいです」
男が笑顔になって、いきなり手を掴んできたのにサアノは驚いた。
「ああ、これもきっと運命ですね。うん。そう運命」
「ちょ、はなしてよ」
サアノは慌てて男の手を払った。
「あんた、なにすんのよ」
「えっ」
「いきなり手なんて掴んじゃって」
「いえ、ああ、嬉しくて。すいません。あの、よかったら、そこに案内していただけませんか?」
「いやよ、あんたみたいな変態」
こいつ制服マニア?
警戒するサアノに男が眉を寄せたあと、すぐに早口に何か言った。その言葉はまるで聞いたこともない言葉なのにサアノは驚いた。
「え、ちょ」
男が怪訝とした顔で早口で何か言う。先ほどのたどたどしさがまったくない。真剣で、どこか怒っているような、悲しんでいるような顔つきだ。
「ちょ、もう、意味わかんないし」
サアノは地団駄を踏みしめて叫んだ。
そうすると男はぴたりと黙った。
「えーと、あーっと」
この男は何者かわからない。
わからないが、危険だ。そして、意味不明で、関わりたくない。変態とか変質者とかそういう類のものを今まで見たことがなかわけではないが、そういうのとこいつはまた違うように思える。
サアノは苛立ちと焦りを覚えながらだっと走り出した。
二つの学校の少し行ったところには交番があることをサアノは思い出して、天に向かってありがとうと言いたくなった。
「おまわりさん、た、たすけて」
サアノは慌てて交番にはいると、五十代くらいのはげ頭の警官は驚いた顔をした。
この交番には四十代くらいの愛想のいい警官と二十代くらいの愛想がまったくない面白いほどに極端な警官が二人いるのだ。
四十代くらいのおまわりさんがいたことをサアノとしてはほっとした。このおじさんのおまわりさんは愛想がよくて、毎朝、登校途中の生徒たちに挨拶してくれるのだ。だから生徒たちも「おじさん」といってよく知っている。
しかし、反対に若い警官は愛想もなく挨拶もない。ただ無表情に生徒たちをちらりと見るくらいだ。生徒たちにしてみれば宇宙人みたいな存在で、あんまりお近づきになりたくないタイプだ。
振り返ると男もついてきていた。
男は息を切らしてサアノの後ろから交番にはいると、またしても早口でちんぷんかんぷんなことを言い出した。
「は、はい?」
おじさん警官も困惑とした顔をする。サアノはおじさん警官を盾にした。
「なにかあったんですか?」
奥から騒ぎを聞きつけたのか若い警官が出てきた。
そうすると男がまた早口に何か言うと若い警官が頷き、意味不明な言葉を返す。二人がそうして会話するのをサアノとおじさん警官はただ見つめていた。
「あのさ、おじさん」
「あ、ああ」
「二人、なにはなしてるの」
「さぁ」
おじさん警官が首を軽く曲げた。
おおよそ十分ほど二人は話し、若い警官が外に出て、何かしら教えると男は頭をさげて行ってしまった。
そのあとに残されたサアノとおじさん警官が若い警官を見る。
「ありゃ、なにはなしてたんだ」
「なにって、英語ですよ。あの人はアメリカ人だそうです」
若い警官が、いそいそと交番に戻ってきた。
「俺、まだ奥で作業の途中なんで、失礼します」
それだけ言うと奥に引っ込んでしまった。
まったく愛想がない。せめて、どういうこと話したとか、いろいろと説明してくれてもいいじゃないか。
サアノは唖然としたあと、ふつふつと怒りが湧いてきた。
「なに、あいつ」
「細野はなぁ、どうも、こー、真面目だな」
「ああいうの、ただ単に愛想がないって言うんだよ」
サアノは言い返した。
本当に最低、最悪。
意味がわからない。
それに、細野のサアノを見る目は、どう見ても何かしら含みがあるように思えた。
きっと、サアノの見た目で、英語が理解できないのかと思っているに違いない。
これは、大いなる被害妄想だが、サアノには、そう思えてならないのだ。今までだって、この見た目でさんざんその手のことはあった。あの愛想のない警官だって、そう思っているに違いない。
そう思うと、ますます怒りでおなかがすいてきた。
怒るとおなかがすく。
サアノは家に帰る傍らコンビニに寄って、ポッキーを買って戻った。
コンビニを出るとき、不意に透明な硝子に自分の見た目が映ってサアノはなんともいえない気持ちになった。
サアノの見た目は、金髪碧眼。
一言でいうならば、日本人ではない。顔立ちも鼻はすっきりとしていて、睫もながい。肌だって同級生に羨ましがられるほどに白い。髪の毛は腰ほどで軽くカールしているが、これは天然パーマだから。背も伸びに伸びて百七十にもうすぐ手が届きそう。足が長くて、スカートを短くしていると太ももが見えてなんともセクシーじゃないかと自分で思っている。
サアノの父親と母親は日本人ではない。
父親はイタリアとイギリス人のハーフ。母はスペインと日本人のハーフ。
この異国の血を持つ二人は日本で出会い、恋に落ちた。父が仕事で日本を訪れたとき、学生であった母に一目惚れをして二人の体に流れる情熱的な血は沸騰するんじゃないかっていうほどに熱い恋を短期間で――父は世界中を飛び回るサラリーマン。母は学生だったわけだから、日本から動けない。
父は今もそうだが、基本的に二ヶ月に一度は転勤するというかなり慌しく不規則な生活をしていた。日本にいるのも二ヶ月少し。その間に二人は恋を燃やし、父はあろうことか母親にサアノという贈り物をして一度日本を離れた。そのあと父は短期間でまた日本に戻り母との結婚を許してもらえるようにとりつけて、二人は短期間の炎のような恋愛を経てめでたく結婚した。世間では炎のような愛はさめるのも早いというが、例外だってちゃんとある。サアノの両親は未だに沸騰しそうな愛を保ち続けているのだ。
だからサアノの体に流れる四分の一は日本の血だ。サアノが生まれ育ったのも日本。日本語しかしゃべれない。
ただし、母と父の遺伝子に流れる異国の血はサアノの見た目に強く作用した。生まれて小さいときは可愛いともてはやされていた。今は、この見た目がいやで、いやでしかたがない。
だいたい関わってくる男は、サアノの見た目の物珍しさに引き寄せられてばかりだ。性格なんて二の次。それでずっと付き合っていけるわけもない。はじめのうちはもてることが嬉しかったが、今では男たちの口説き台詞にはうんざりとしている。
なにより、自分はこの見た目でも、日本語しか話せないのだ。そういうと大概の者は驚き、次には馬鹿にした目でサアノを見る。
その見た目で英語が話せないのは、タチの悪いジョークでないのかという目で見てくるが、本当に話せないとなると、笑ってくる。それが許せない。
実際まったく話せないのは仕方がない。学校で一番苦手な教科は、英語なのだし。
日本から一度だって出たことはないし、両親もいつも日本語でやりとりしている。なんといっても二人とも国が違うので、唯一の共通語が日本語だからだ。父親は恐ろしいほどの記憶力のよさをもって、ほんどのお国の言葉を話せるらしいが、母は日本語とスペイン語しか話せないので、それにあわせている。
ときどき二人は二人にしかわからない国の言葉――父が母のスペイン語にスペイン語で返すことがあり、サアノはそれを聞いて育った。英語ではなくてスペイン語ならば、たどたどしくも話せる。
見た目で、なんで、そこまで言われなくちゃいけないのか。
サアノは本気でむっつりとしてため息をついた。
こんな見た目になりたくてなったわけではないのに。
サアノは自分の見た目が嫌いだ。この見た目は、いつも自分のどうしようもなさを思い出させる。
幸いなのは、あの男にはもう会うことはないだろうということだ。
寝てしまえば忘れてしまうくらい、サアノは楽天的な上に物事にこだわらないおおらかさを――大雑把な性格の持ち主だ。
翌朝、不愉快なことはきれいさっぱり忘れてしまい、サアノとしてはいつもの日常のつもりでいた。多少の変化があるとすれば、朝から教室が騒がしかったことだ。
「臨時にくるらしいよ」
「臨時?」
「ほら、前にきていたアメリカ人のマイクの代わりにさ」
ああとサアノは頷いた。
英語の教師が連れてくる外国人の講師のことだ。週に二回来るのだが、マイクは腹のでっぷりと出た男で愛嬌がよかった。見た目はいまいちだが、優しくて親しみがあった。
「若い男だといいね」
クラスメイトが、そんなことを言うのをサアノは笑った。
そうしたささやかな変化があっても、サアノの日常は平和そのものだった。教室にその男が来ない限りは。
「これから英語をみなさんに教えます、月島千鶴です。よろしくおねがいします」
目の前に昨日の男がいた。
こういう場合、どうすればいいのだろうか。
サアノの混乱は、もうピークに達していた。
なんで。
どうして。
あの男がいるの。
あの変態――いや、これは間違えてのことだけども。交番のお世話になった彼は、にこにこと笑って学校の教壇に立っている。
「先生日本人ですかー?」
一人の生徒が尋ねると千鶴は嬉しそうに笑う。
「ううん。アメリカ人だよ。両親が日本人で、アメリカに永住して、あっちで生まれたんだ。千鶴は、母がつけました。日本語も、勉強してしゃべる程度は出来ます。日本語も読めますが、カナと漢字はまだ読めません」
そんなことを千鶴はきらきらした笑顔で説明する。
人とのふれあいが楽しくてたまらないという顔だ。なんだが犬を思い出す。とっても人懐っこい近所のポメラニアン。
クラスメイトたちが千鶴珍しさに――女子高にしてみれば男との接触は大切だ。放課後の合コンから、ナンパから(こういうのにいい出会いなし)、教師だって、十六歳にしてみれば立派な恋愛対象だ。ただし、相手の年齢にもよる。この学校、どうも若い男が少ない。教師といえるのは、ほとんど五十台で、腹が出ていて頭はするっぱげ。そんなのがいいという生徒は、たぶん、いないだろう。――サアノはお目にかかったことがない。
その中に、千鶴だ。
見た目は、どう見ても二十代の後半くらい。三十には達してはいないだろう。これは、もう狼の群れに羊が一匹迷い込んだようなものだ。きっと骨までおいしくしゃぶられてしまうだろう。サアノから見れば、今の教室は盛りのついた雌狼たちだらけ。
サアノだって男の子のことが、たぶん、クラスメイト並みに興味と感心があって好きだ。
合コンもするし、ナンパされるのも心の中では嬉しいし、恋人だって月並みにはいた。――はず。
けれど、千鶴を見ると、昨日のことを思い出してしまって、どうにも動きが鈍る。
千鶴の存在に、その日は学校中がお祭り騒ぎのように賑やかだった。若い、それもちょっと興味をそそられる生い立ちの英語の教師をひと目見ようと別のクラスから教師がやってくる。休み時間に携帯電話を見ると、メールが三十件くらいきていた。そのほとんどが別クラスの女の子たちで、若い教師が羨ましいという内容。昼休みは群がってきた野次馬たちがうるさくて、サアノはさっさと教室を出た。
サアノの母は料理がかなり下手だ。
父はなぜかプロ並にうまいので、支障はない。ただし、父が海外に仕事に行くときは問題だ。
父がいないと母は家事の一切を怠けてしまう。父がいると、なんだか別人というほどにきびきびと動くのに……料理も放棄してしまうが、母の料理のまずさを知っているサアノしてみれば、これはすごくありがたいことだ。料理は大抵サアノが作る。サアノは父のおかげで料理の腕はそこそこに自信がある。作ると母はベタ褒めしてくれるし。――たとえ、それが親の贔屓目だとしても。
ただ今日は寝坊して弁当を作ることを忘れてしまった。仕方ないので、食堂に行くことにした。購買でパンを買ってもいいかもしれないが、やはり白い米が恋しい。こんな見た目をしていても立派な日本人の子のように米が恋しい。
「サアノさん」
「いきなり下の名前を呼ぶな!」
サアノは叫んで振り返った。
千鶴がにこにこと笑って立っている。
「やっぱり、昨日の子だ」
「……なによ」
「また会えましたね。その制服だから、きっと会えると思ってました」
千鶴の言葉にサアノは眉を寄せて、険しい顔をした。
「昨日は、こちらの学校に赴任するので、挨拶に行こうとしたんです。そしたら、迷ってしまったんです」
「ふーん」
サアノは歩く。
その横を千鶴がついてくる。
「なによ」
「僕も食堂なんですよ」
「ふーん」
「そうだ。よかったら、サアノさん」
「あのさ、私には土倉っていう苗字あんだけど」
「けど、サアノって名前も素敵ですよ」
さらりと千鶴が言うのにサアノは頭を抱えそうになった。
「それで、なんで話しかけてるの」
「えー、それは、もちろん、サアノさんにお願いがあって」
「お願い?」
思わず足をとめて、サアノは千鶴を見た。
「はい」
「なに」
「学校の案内を」
「却下」
さらりとサアノは言い返した。
こんな男を連れて学校を歩くなんて、全生徒を敵に回すようなものだ。今だって、千鶴が話しかけてるということで、知らないところで敵を作っているかもしれないのだ。
「悪いけども」
「昨日、僕たちは知り合いになりましたよ」
「それがどうしたのよ」
「いい出会いだったでしょ。それって運命だと思うんです」
千鶴の言葉にサアノは困惑した。
あれがいい出会い。
変態と間違えて思わず逃げ出して交番に駆け込んだ赤っ恥が。
「学校の案内してもらえます?」
千鶴が微笑む。その笑顔には抵抗できない不思議な力があるらしい。
サアノは一瞬断りの言葉を出そうとして、結局は言い返す言葉もなくて、ゆるゆると頷いた。
「放課後なら、いいよ」
「ありがとう。サアノさん」
千鶴の笑みが、本当に嬉しそうでサアノは見惚れてしまった。
たぶん、若いだけではなくて、こういう雰囲気が生徒たちの人気をかっさらっているのだろう。
なんてあんなこと言ったんだろう。
サアノは、自分の発言をひどく後悔した。ときどき感情に任せてアホなことを言うことはたびたびある。それで後悔する。けれども今日ほどに後悔することなんてきっとない。
学校の案内をするなんて。
それもわざわざ放課後に。
いっそ忘れたふりして帰ろうかなぁと思うが、そのあとが千鶴に会ったら――彼は責めたりはしないだろうが、ひどく悲しい顔をするだろうことは予想できる。そんな顔を見たら、今度は自分がひどく許せなくなるに決まっている。
放課後、たっぷり五分ほど悩んで、サアノは諦めて教室を出た。その頃には、部活にはいっている者以外はほとんど帰宅しており、学校の中は静かだ。サアノはその中を一人でとぼとぼと歩いた。
「あ、サアノさん」
「うわぁ」
背から声がして振り返ると千鶴がいた。
「あっ」
「迎えに来てくれたんですか。用事があって今から職員室に戻るところなんですが」
「……へー」
「ちょうどよかった。ここから案内してもらえますか?」
千鶴の笑顔にサアノはどきりとした。
「……は、はい」
やっぱりこの笑顔は反則だ。