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冷酷な夫に「ざまぁ」を仕掛けまくったら、なぜか溺愛度がカンストしていて取り返しがつかなくなりました

作者: いまだ
掲載日:2026/09/04

すれ違いラブコメです。

 侍女たちが一礼して退室し、重厚な扉が閉じられた。


 広い寝所に静寂が訪れる。

 天蓋付きのベッドに腰掛けるエレーニアの前に、一人の男が歩み寄ってきた。


 新婚の初夜だというのに、そこに漂っていたのは、甘美な空気などではなく、凍りつくような緊張感だった。


 エレーニアの目の前に立っているのは、皇帝――フェルムンド・バルツァー。


 暴君であった前皇帝を討ち果たし、武力で玉座を奪い取ったばかりの男。

 その手にかけた腐敗貴族の数は数知れないと噂され、『血塗られた覇王』と恐れられている。冷徹な氷のような銀髪。長身をこの場に相応しくない漆黒の軍服に包み、鋭い切れ長の青眼がエレーニアを射抜いていた。


「よく聞け、エレーニア」


 低い声が、室内に響く。


「この結婚はただの政略に過ぎない……君に、愛や温もりを注ぐつもりは毛頭ない。この城の奥で『お飾り』として、静かに暮らすこと。それが君の唯一の役目だ」


 そうして最後に、「私に関わるな」と付け加えた。


「……左様でございますか」


 エレーニアは淑女の笑みを貼り付け、深々と頭を下げた。

 フェルムンドはエレーニアの返答に満足したのか、一度も振り返ることなく寝所を後にした。



 フェルムンドが去ったあとの寝所で、エレーニアは貼り付けていた淑女の笑顔を瞬時に破り捨てた。


「――ッざけんじゃない! あんの大馬鹿野郎ーーー!!!」


 ふかふかのシルクのクッションを思い切り床に叩きつける。

 防音のしっかりきいた室内だ。エレーニアの大声が外に漏れることはない。


(お飾り? 静かに暮らせ? 強引な勅命で嫁がせておいて、言うことがそれ!? 冗談も大概にしなさいよ!)


「誰がおとなしく引きこもるものですか!」


 エレーニアの実家は中立派の小さな子爵家だが、彼女は幼少期から堅実な領地経営と実務を叩き込まれた筋金入りの『現場主義者』だった。ただの置物として一生を終えるなど、我慢できるはずもない。


「……決めた。大人しく捨てられて泣き寝入りなんて、絶対してあげない」


 エレーニアは拳を固く握りしめ、フェルムンドが消えた重厚な扉を鋭く睨みつけた。


「この王宮の不正や落ち度を私の手で完璧に暴き出して、『こんな有能な妻を放置する無能な夫』の烙印を押してやるわ! ぐうの音も出ないほど正論で叩きのめす! そして、『あなたのせいで私の誇りが傷ついた』と突きつけて、優雅に離婚を勝ち取ってやるんだから……!」


 相手はクーデターを成功させた『血塗られた覇王』だ。

 生半可な手出しをすればこちらが消されるだろう。だからこそ、やるなら徹底的かつ完璧に、足元をすくう「ざまぁ」を仕掛けなければならない。


「見ていなさい、フェルムンド! 私を冷遇したこと、絶対に後悔させてやるんだから……!」


 初夜の静かな部屋で、エレーニアの悪魔のような笑い声が低く響き渡った。


◆


 一方、冷たく扉を閉めて廊下に出た『血塗られた覇王』フェルムンドは、表向きは冷静な表情で自室に歩みを進めていた。しかし、側近のアレンが目に入ると、何食わぬ顔のまま近寄り、彼にだけ聞こえる声で言葉を発した。


「……見たか、アレン。我が妻のあの美しさを……いや、見たら殺すが」


「見ておりませんのでご安心を」


「危うく直視したまま卒倒するところだった。声が震えていなかっただろうか……」


「はあ……しかし、陛下。他に方法はなかったのでしょうか。あれでは、単なる冷遇宣言です」


 フェルムンドは、緩んでいた声色を引き締めた。


「今の我が王宮は、先のクーデターで粛清しきれなかった旧体制の残党や暗殺者がうごめく泥沼だ。エレーニアという、可憐な花が表立って関わってみろ。真っ先に狙われる。あえて『興味がないお飾り』と冷たく突き放すことで、敵の目を逸らす。それが結果的に、彼女の命を守ることになるのだ」


「王宮が落ち着いてからお迎えすれば良かったのでは……」


「──先を越されては困るからな」


 冷酷王は、重度の過保護ゆえに妻を隠し通そうと必死だった。


 まさかその妻が、寝室で「打倒! フェルムンド!」と決意していることなど、この時、当の本人は知る由もなかった。


◆


 初夜の『お飾り宣告』から数日。

 エレーニアは、後宮の片隅にある図書室で、山積みになった書類と睨み合っていた。


「……信じられない。この王宮に、まともな文官はいないの?」


 エレーニアの手にあるのは、王宮の財政と各部署の予算配分を記した帳簿の写しだ。メイドをうまく丸め込み、こっそりと調達させたものである。


 エレーニアの目から見れば、この王宮の財政は穴だらけだった。

 特に酷いのは、先代皇帝時代から居座っている『旧体制派』の貴族たちが管理する部署だ。無駄な経費、水増しされた仕入れ値、あからさまな横領の痕跡……。


(クーデターを起こし、武力で制圧したはいいけれど、実務のほうにはまだ手が回ってないってこと? あの『血塗られた覇王』サマも、ざまぁないわね)


 エレーニアの唇の端が、ニィッと意地悪く吊り上がる。

 完璧な「ざまぁ」のシナリオが、頭の中で組み上がっていく。


「決めたわ。この旧体制派の横領ルートを、私が全部叩き潰してあげる」


 皇帝の許可もなく、一介の『お飾り妻』が王宮の予算編成を勝手に書き換え、貴族たちの資金源を断ち切る。


 そんな真似をすれば、当然ながら王宮内は味方と敵が入り乱れて大混乱に陥るはずだ。政治のバランスを崩されたフェルムンドは激怒し、エレーニアを呼び出すだろう。


 そこで言ってやるのだ。

『私をお飾り扱いした挙句、こんな杜撰な財政管理を放置するなんて! これほどの無能ぶりを見せつけられるのは、妻の誇りに対する重大な侮辱です。さあ、慰謝料と共にこの離婚届にサインを!』と。


「ふふっ、完璧! 待ってなさいよフェルムンド!」


 エレーニアは万年筆を握りしめ、猛烈な勢いで予算書の修正と、横領の証拠リストの作成に取り掛かった。


◆


 その翌日。皇帝の執務室。


 フェルムンド・バルツァーは、自身のデスクに置かれた見慣れぬ書類の束に目を通し……わなわなと肩を震わせていた。


「へ、陛下……お気を確かに」


 側近のアレンが、顔面を蒼白にして控えている。

 皇帝のデスクに、出所不明の『王宮財政の是正案および、旧体制派による横領の告発書』が置かれていたのだ。


「誰が……これを……」


 フェルムンドの声が低く唸る。氷のような青眼が見開かれ、書類を持つ手が小刻みに震えている。

 無理もない、とアレンは冷や汗を拭った。


 旧体制派の資金源をどう断つかは最も頭を悩ませていた課題だった。フェルムンドとて、無能ではない。ただ、下手に動けば反乱の火種になる。これ以上、国を疲弊させるわけにはいかない。そのため、慎重に証拠を集めていた最中だったのだ。


 それを、何者かが一夜にして完璧に暴き立て、あろうことか『このように予算を削れば合法的に奴らを無力化できますよ?』という完璧なスキームまで構築してのけたのである。


「アレン。この筆跡……私には見覚えがある」


「えっ? 一体どなたが……!?」


「……婚姻の誓約書に書かれていた文字と同じだ。間違いない」


 フェルムンドは、ふらりと立ち上がった。

 そして、顔を両手で覆い――歓喜のあまり天を仰いだ。


「なんと美しく、なんと完璧な仕事だ……! エレーニア……私の愛しい妻!!」


「は……? えっ!? まさか、奥様がこれを?」


「彼女は私が旧体制派の処理に手こずっているのを察し、自らの知力を駆使して助け舟を出してくれたのだ! 『愛を注ぐ気はない』と、冷たく突き放したというのに……健気にも、裏で私のためにこんな完璧な仕事を……」


「いや、それは、さすがに都合良く解釈しすぎでは……?」


『冷遇されたのに、健気に尽くす妻の図』は確かに美しいが、疑念を抱かざるを得ない。普段のフェルムンドであれば、アレンと同じような解釈をしただろうが……。


「おまけにこの予算の削り方の容赦のなさ! 一切の情を挟まない冷徹な数字の暴力! ああっ、なんて素晴らしいんだ。私の見込んだ通り……いや、それ以上の最高に優秀で残酷な女性だ」


 興奮のあまり、覇王の語彙力は崩壊していた。

 ……どうやらこの皇帝、エレーニアに関してのみ、若干認識が歪んでいるようだ。アレンは呆れ果ててため息をつく。


「……で、どうされるのですか。このままでは奥様が目立ってしまいますが」


「本来なら、彼女の手柄として自慢して回りたいが……やむを得まい。すぐさまこの是正案を『私自身の勅令』として発動させる。エレーニアの手柄であることは、絶対に隠し通す……今はまだ、な。彼女にヘイトが向かないように」


「はあ……」


「そして!私のためにここまで身を粉にしてくれた愛しい妻に、最高で最大限の報奨を与えねばならぬな」


「宝物庫を開けますか?」


「いや、彼女は実務を愛する女性だ。ドレスや宝石などといった物では、心は動かないだろう」


「では、何を?」


「王宮書庫の全閲覧権を与え、彼女が望む資料はすべて私の直属の近衛兵に秘密裏に奥宮へ運ばせよ。それから、持ち主の筆圧に即座に馴染むというドワーフ製の幻の万年筆、インクが一切滲まず長期保存に優れた特製の羊皮紙の束! さらに、隣国から取り寄せた最新の経済白書もすべてエレーニアに届けよ。彼女のことだ。喜ぶに違いない。──もちろんこの発令は、極秘任務と捉えよ。彼女を表立たせないよう細心の注意を払え」


◆


「は……? え? 何これ」


 近衛兵たちが、木箱を運び込んできた。

 呆然とするエレーニアの目の前で、箱が開けられる。


 中から現れたのは、実務家向けに特殊な加工が施された滑らかな羊皮紙の山と、分厚い専門書の数々。そして、重厚なケースに鎮座する、美しい意匠の万年筆だった。


「あ、あの……これは一体……?」


 エレーニアが震える声で尋ねると、近衛兵の隊長が恭しく頭を下げた。


「陛下からの贈り物でございます。『見事な働きであった。我が愛しの妻の知性にふさわしい品々を贈ろう』との伝言をお預かりしております」


「…………っ!」


 エレーニアは、ケースの中の万年筆を見て息を呑んだ。

 間違いない、以前からずっと欲しかった至極の逸品だ。専門書も、貴重なものばかりである。エレーニアにとって、これほど心が躍る贈り物はなかった。


(な、なんで!? なんで私の好みを完全に把握してるの!? く……悔しいけど、ちょっとセンス良すぎでは……?)


 不覚にも高鳴りかけた胸を、エレーニアは必死に押さえつけた。

 待て、落ち着け。冷静に考えるのだ。


 皇帝の政治バランスを崩して大混乱に陥れ、激怒させて離婚を叩きつけるはずだった。それなのに、なぜか大量の「最高級の仕事道具」が贈られ、「愛しの妻」などという気味の悪い伝言付で、『王宮書庫の全閲覧権』まで届いている。


(書類は匿名で提出した。私の筆跡を見る機会もそうないはずだけど……)


「! まさか……」


 エレーニアの中で、最悪の推測が導き出される。


(婚姻誓約書の署名の筆跡で判断した……!? なんてねちっこい奴! 私がやったと気づいた上で、咎めるどころか最高級の仕事道具を送りつけてきたってわけ……!?)


 つまり、こういうことだ。


(私をお飾りとして奥に押し込めておくはずが、いざ裏で有能な働きを見せたら方針転換して、『ほら、お望みの道具をやったぞ。これからもせいぜい我が国のためにタダ働きしろ』ってこと!? 私のことを都合のいい便利な事務奴隷か、無料の下請けか何かと勘違いしてない!?)


 舐められている。完全に舐められている。

 この程度では、あの覇王の痛手にはならないどころか、都合よく利用されてしまうのだ。


「……いいわ。上等じゃない」


 エレーニアは、届いたばかりの万年筆を早速構えると──ビクッと肩を震わせた。……恐ろしいほどなめらかで、本当によく手に馴染む。


(感動してる場合じゃないわ……けど……)


 エレーニアは首を振り、なんとか正気を取り戻し、思い浮かんだアイデアを羊皮紙に書き綴っていく。


(うぐっ……この書き心地! 最高だけど、ほだされてはダメ……!)


 エレーニアは、その極上の万年筆を、決意と共に改めて握り直す。


「この私をタダ働きの道具扱いしたこと、後悔させてあげる」


 唇の端に、これまでで一番の悪役じみた笑みが浮かんだ。

 離婚に向けたエレーニアの「ざまぁ計画」は、明後日の方向へとエスカレートしていくのだった。


◆


 王宮書庫の全閲覧権と、幻のドワーフ製万年筆という最強の武器を手に入れたエレーニアの進撃は、誰にも止められなかった。


『旧体制派の貴族たちを一掃して、フェルムンドの無能っぷりを証明してやる!』


 そんな恐ろしい(?)野望を胸に、エレーニアはフェルムンドから贈られた最新の経済白書を片手に、怒涛の勢いで王宮内の不正を暴き立てていった。


 まずは、軍馬の購入費を水増ししていた兵站局の長官。

 エレーニアは隣国の市場価格と過去十年の相場推移を完璧にリスト化し、言い逃れ不可能な告発書を作成。長官は即座に更迭され、横領分はすべて国庫へ没収された。


 次に、領地の莫大な税収を誤魔化していた地方伯。彼が提出した帳簿の偽装を一晩で全件洗い出し、完璧な監査報告書として突きつけた。地方伯は青ざめて失神し、投獄された。


 これだけ立て続けに重鎮を排除すれば、当然、王宮の政務は一時的にストップし、大混乱に陥るはずだった。


 過激な告発を連発して組織を一時的に麻痺させ、その全責任を「無能なトップ」であるフェルムンドに取らせる。そうして、その数々の無能さを盾に、離婚届を叩きつける。それがエレーニアの狙いだった。


 ……しかし、現実は違った。


「以前より政務がスムーズに回っている……!」


 エレーニアは頭を抱えた。


 エレーニアは、嫌がらせの効果を最大化するため、フェルムンドが討伐遠征などで王宮を留守にしているタイミングをわざと狙って、司法局に匿名で告発状を送りつけていた。


 言い逃れ不可能な「反逆や横領の完璧な証拠」を突きつけられれば、司法局は皇帝の決裁を待たずに重鎮たちを緊急拘束せざるを得ない。トップ不在のまま現場に強行突破させれば、事後処理の指示を出せる者がおらず、王宮は間違いなくパニックに陥るはずだった。


 ……しかし、それが完全に裏目に出た。


 ある時は、エレーニアが不正な流通ルートを書類で封鎖した翌日、遠征中のフェルムンドが、補給を断たれて混乱した密輸拠点を物理的に制圧していた。


 またある時は、エレーニアが地方貴族の裏帳簿を告発して資金源を絶ったと同時に、フェルムンドが弱体化したその領地の反乱軍を討伐していた。


 エレーニアとしては「夫の不在時に背後から撃つ」つもりだったのが、結果的に「夫が外の脅威を粉砕するのに合わせて、内部の病巣を完璧なタイミングで切り取る神アシスト」になってしまっていたのである。


 結果として空いたポストには優秀で真面目な若手文官たちが次々と登用され、王宮はかつてないほどのクリーンさと効率の良さを手に入れてしまったのだ。


「これじゃあ、私がフェルムンドの内政を完璧にサポートしてるみたいじゃないの!」


 エレーニアはギリッと奥歯を噛む。


 気づけば徹夜明け。憎たらしいことに、フェルムンドから贈られた万年筆は手に馴染みすぎているせいで、疲労感すら忘れて没頭してしまったのだ。


(私の嫌がらせが、全部この国の利益に変換されてる……!)


 完全に悪循環だった。


(……いや、国のことを考えると好循環だけど。それ自体はいいことだけど……!)

 

 このままではただの「めちゃくちゃ優秀な皇帝の右腕」で終わってしまう。


(次こそは絶対に、取り返しのつかない致命傷を与えてやる……!)


 エレーニアが怒りの炎を燃やし、狙いを定めたのは、旧体制派の筆頭であり、強大な派閥を率いる財務卿・ガルドス侯爵だった。


 前皇帝の腐敗の元凶であると噂されてはいるが、確固たる証拠がないまま今に至っている。クーデターを起こしたフェルムンドでさえ、反乱を恐れて迂闊に手出しできていない最大の『目の上のたんこぶ』である。


「このガルドス侯爵の不正さえ暴けば、旧体制派は一網打尽。私が完璧に後始末まで済ませて、『政治も外交も妻任せの無能皇帝』の烙印を決定づけてやるわ!」


 エレーニアは3徹して裏帳簿と国家予算を照らし合わせ、ついにガルドス侯爵が敵国と内通して横領を行っていた決定的な証拠を、いつも通り『完璧な書類』として完成させた。


「できた! 今度こそこれで……! さあ、離婚届にサインをもらいに行きましょう!」


◆


「フェルムンド陛下! お話があります!」


 勢いよく執務室の扉を開け放ち、エレーニアは堂々と乗り込んだ。


 執務机に向かって座るフェルムンドと、側近のアレンが驚いたように目を丸くする。初夜以来、エレーニアが直接彼に接触するのはこれが初めてだった。


「エレーニア……? どうした、城の奥にいろとあれほど……」


「これをご覧ください」


 エレーニアは、バサッと分厚い書類の束をフェルムンドのデスクに叩きつけた。

 それは、ガルドス侯爵の横領と内通を示す完璧な告発書と、それに伴う旧体制派の一斉摘発リストだった。


「これだけではありませんわ。ここに至るまで、あなたの目を盗んで王宮内の貴族たちを次々と告発し、混乱を招いてきたのは、何を隠そうこの私です。そして今回、あなたの重要な政治基盤であるガルドス侯爵の不正も、この通りすべて暴き立ててやりました」


 エレーニアは、勝ち誇った笑みを浮かべた。


「これほど杜撰な組織管理を放置していた挙句、私を都合のいいタダ働き要員として利用しようだなんて、なんて血も涙もない悪徳雇い主なんでしょうね? あなたのような皇帝の下で働く気も、妻で居続ける気も、一切ありません。私のプライドを傷つけたことを認めて、大人しくこの離婚届にサインを――」


「エレーニア……!」


 ガタッ、とフェルムンドが立ち上がった。


 その顔は、怒りではなく、深い感動に打ち震えていた。氷のような青眼には、あろうことか熱い涙すら浮かんでいる。


「え、な、何?」


「すべて優秀な君の手によるものだと、当然気づいていたよ」


「は?」


「そしてまさか、私が即位以来、慎重に機会を窺うことしかできなかった最大の敵まで、完璧な『合法の書類』のみで君自身が討ち破ってしまうとは……!」


「……はい?」


「──ガルドス侯爵は、君を狙っていた。本来なら、国が落ち着いてから君を迎えるべきだったが……先を越されるのは絶対に嫌だったから、気が急いてしまった」


「へ?」


「一目見た時から君に惹かれていた。皇帝の妻として愛される君が表立っては、真っ先に狙われる。だからこそ、安全な奥宮に隠し、あえて『お飾り』と冷たく突き放すことで敵の目を逸らしていた」


 フェルムンドは伏し目がちに言葉を切った。


「……しかし、君を『お飾り』扱いしたことは、理由があったとて事実だ。……すまなかった」


 そして、エレーニアが叩きつけた「離婚届」を、一切の躊躇なく破り捨てた。


「なっ、何をするの!」


「許しは乞わない。君は、私の謝罪を受け入れなくていい。だが……手放す気も毛頭ない」


 フェルムンドは顔を上げ、覇王としての、そして一人の男としての強烈な独占欲を孕んだ瞳でエレーニアを射抜いた。


「君が寝る間も惜しんで戦ってくれていたおかげで、外に蔓延る反乱軍の鎮圧も、想定よりずっと早く、すべて終わらせることができた。ガルドス侯爵という最後の病巣も、君自身の手で摘出された。もう君を隠す必要はない。エレーニア……私の命、権力、財産、そのすべてを君に捧げる。君が望めば何でも……。だから、私の傍にいてくれ」


「…………はぁ」


 エレーニアは、深く深くため息をついた。


「勝手な人……」


(この男、もしかして、冷酷な覇王なんかじゃなくて、ただの『激重で過保護な不器用男』だったのでは……?)


 非情な皇帝だと思っていた夫は、実は自分を守るために外で血を流し、その上で莫大な権力と財力を自分に全振りしようとしている。


(富や権力は、正直、興味ないのだけど……)


 エレーニアの脳内で、とてつもない速度で計算が弾き出された。


 ここで離婚して実家に帰るのと、このまま帝国の全権力を握り、自分に絶対服従する無敵の皇帝をボディーガードとして従えながら、思う存分「国家規模の運営」を回すのと、どちらがエレーニアにとって得か。


(――それに……)


 エレーニアは、目の前で自分を熱烈に見つめるフェルムンドを直視できず、スッと視線を逸らした。


 不器用だが、その青い瞳に宿る熱情は本物だ。

 おまけに、悔しいが顔は極上で、戦場を駆ける男の体躯は頼もしく、こんな風にストレートに愛を向けられて、心が微塵も揺るがないほどエレーニアも鉄面皮ではない。


(た、ただのビジネスよ。国家規模の運営なんて、実務家として最高だからってだけで……決して絆されたわけじゃないわ。絶対に)


 必死に自分に言い訳をして照れをねじ伏せると、エレーニアはフェルムンドのデスクにあった『皇帝の代理印』をスチャッと手に取り、不敵な、それこそ悪役のような笑みを浮かべてみせた。


「……いいでしょう。そこまで言うなら、残って差し上げます。ただし――」


 エレーニアは真っ赤になった耳まで隠すように、ツンと顎を上げた。


「私は、高くつきますわよ?」


「ああ……私は君の、最強の盾、そして剣であり続けよう」


 フェルムンドは感極まった様子でエレーニアをきつく抱きしめた。


 逞しい腕の中にすっぽりと収められ、エレーニアは(うぐっ、やっぱり顔がいい……!)と内心で白旗を揚げながらも、今度は大人しくその抱擁を受け入れた。


◆


 こうして。

 お飾りの妻として冷遇され、腹いせに離婚を叩きつけるはずだったエレーニアの計画は、見事に頓挫した。


「アレン! 各省庁の予算案、再提出分を全部ここに持ってきなさい! それから陛下、あなたにはこれから隣国の特使との会談が入っていますよね? 一秒たりとも遅れることは許しませんからね!」


「君の意のままに。……ああ、ようやく君のことが自慢できるよ。こんなに有能で素敵な女性が、私の妻だってね」


 気がつけばエレーニアは、愛用の万年筆を片手に覇王を尻に敷く「最強の皇后」として君臨することになったのである。


 今日も王宮には、有能すぎる妻の声と、それに嬉々として従う皇帝の足音が響き渡っていた。

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