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折り返さない

作者: トミヤマ
掲載日:2026/03/01


 ──三十八歳。


 奥村緑は、時々、自分の年齢を確認しては、複雑な気持ちになった。


 スマートフォンの画面に表示される日付を見るたびに、頭の中で自動的に計算してしまう。生まれた年から引き算をして、出てくる数字。三十八。その二桁の数字が、まるで他人のもののように感じられることがある。


 人生まだまだこれから、と思う自分と、もう十分頑張ってきた、と思う自分がいる。


 前者の自分は、人生これからが本番、今まではプロローグみたいなものだった、と言う。まだ何も始まっていない。本当にやりたいことは、まだ手をつけてすらいない。だから怖くない。だから諦めなくていい。


 後者の自分は、もうそろそろ人生折り返し地点じゃないか、と言う。同級生たちはとっくに家庭を持ち、子どもを育て、それぞれの人生の形を決めている。今さら走り出したところで、息切れするだけじゃないのか。


 どちらの自分も本物で、どちらも本音だった。


 自分がどちらの声に従うべきなのか、分からなくなっていた。


 ただ一つだけ確かなことがあるとすれば、こうして迷い続けている間にも、時間は止まらないということだった。


---



 派遣切り。


 緑が、会社から今期での契約満了を言い渡されたのはつい先月だ。


 六年間、勤めてきた会社だった。事務の仕事は決して華やかではなかったが、覚えてしまえば手際よくこなせたし、同じフロアで働くパート仲間の田中さんや、営業の若い子たちとの他愛もない雑談が、緑にとっての小さな楽しみだった。昼休みに近くのコンビニまで一緒に行って、新しいスイーツを試すのが習慣になっていた。


 なんとなくこれから先もここで働き、ずっとこの生活が続くものだと思っていた緑は、会社からの急な宣告に、心が追いつかなかった。ただぼんやりと、その言葉を受け入れるしかなかった。


 これからどうしよう、という薄ぼんやりとした不安を抱えながら、残りの日数を数えた。


 ──三十日。二十九日。二十八日。


 「──申し訳ないですが」


 緑を別室に呼び出し、その言葉を告げた山本課長は、少しも申し訳なさそうではなかった。いつも通りの無表情で、いつも通り書類に視線を落としたまま、ただ淡々と、緑にその決定を突きつけた。


 緑も、課長の態度につられて、淡々と「分かりました」と答えた。


 それだけだった。


 別室を出て、自分のデスクに戻る途中、トイレに寄った。個室の鍵を閉めて、便座の蓋を下ろして、そこに腰かけた。泣くつもりはなかった。ただ、少しだけ一人でいたかった。


 五分ほどそうしてから、緑は立ち上がり、鍵を開けた。鏡の前で手を洗い、自分の顔を見た。特に何も変わっていなかった。


 それから残り二十七日間、緑はいつも通りに出勤し、いつも通りに仕事をこなした。田中さんには話せなかった。心配をかけたくなかったし、何より、自分でもまだうまく言葉にできなかった。


---



「やりたいことをやりなよ」


 ある日、急に大和が言った。


 三月の終わりの夜だった。緑は実家に戻っていた。母親が「顔を見せなさい」と電話をしてきたのがきっかけだったが、本当のところは、一人でアパートにいると、薄ぼんやりとした不安がじわじわと大きくなる気がして、緑自身も誰かに会いたかったのだと思う。


 母が風呂に入っている間、緑と大和は二人でリビングに残された。テレビがついていたが、どちらも見ていなかった。


 大和は緑の三歳下の弟だ。昔から口数が少なく、自分の気持ちをあまり表に出さないタイプだった。緑とは性格が正反対で、子どもの頃はよく喧嘩もした。でも今は、一番気を遣わずに話せる相手でもあった。


「急にどうしたの?」


 緑は言われた言葉に驚いていた。大和がそんなことを言うなんて思っていなかったから。


 緑は、「やりたいこと」を弟に話したこともなければ、そもそも「やりたいこと」を考えたこともなかった。少なくとも、ここ数年は。やりたいことを考えるより、目の前のことをこなすほうが精一杯だったし、それで十分だと思い込もうとしていた。


「姉ちゃんにはさ、介護士が向いてると思うんだよ。だからさ、やりたいことをやりなよ」


 介護士は、緑が昔、断念した資格だった。正確には、介護福祉士。


 ヘルパー二級の資格取得のために実習に行ったときのことを思い出した。


 あれは、二十三歳の頃だった。


 緑は、自分には向いていない、と思った。うまくできないことを詰られ、全然駄目だ、と言われた。車椅子の階段上げも出来ず、お風呂に入れることも、着替えの補助にも手こずった。


 レクリエーションで入所者さんたちの前に出て話をしたときも、声が小さくて聞こえないと叱られた。


 入所者さんの前で、あまりの自分の不甲斐なさに泣いてしまったことに対して、さらに職員から叱られて泣いた。


 ──そのとき、一人の入所者の女性が、緑の手をそっと握ってくれた。


「あんた、優しい子やね」


 職員に叱られながら、それでも入所者さんのそばを離れなかった緑に、その女性は皺だらけの手で、小さくそう言った。緑はそのとき、また泣いた。今度は違う理由で。


 ヘルパー二級の資格は取得できたが、緑には、自分にはその資格がないとずっと思ってきた。優しい気持ちがあるだけでは、仕事にはならない。そう思い込んで、その扉に鍵をかけた。


「なんで私に向いてると思うの?」


「だって姉ちゃん、好きでしょ?」


 好き。好きか嫌いかと言われたら、嫌いではない、と思った。他人と接すること。誰かの助けになれること。あの女性の手の温かさが、十五年以上経った今でも、ふと思い出されることがあった。


 自分はこれからどうしたらいいのだろう、と迷っていた。


 緑が迷っていることに、大和は気づいていたらしい。大和は、昔から他人の感情に聡い子だった。親には心配をかけまいと明るく振る舞っていても、弟だけはいつも見抜いていた。


「やりたいことをやったほうがいいよ」


 大和がさらに言った。それだけだった。説教でもなく、励ましでもなく、ただ事実を告げるような、静かな声だった。


 緑は、大和のその言葉で、少しずつやる気になっていた。


 やりたいことを、やろう。やりたかったことを、やろう。後悔しないように。


「うん、ありがとう」


 緑は言った。大和は照れたように視線をテレビに戻した。画面の中では、誰かがにぎやかに笑っていた。


---



 それから緑はインターネットで、今からでも介護福祉士の資格が取れる方法を調べた。


 働きながら、通信教育で資格取得を目指すことができる方法を。


 検索画面に「介護福祉士 通信 三十代 今から」と打ち込んだとき、少しだけ手が震えた。恥ずかしいような、それでいて何か大切なものに触れているような気がした。


 結果は、思っていたより多くヒットした。通信制の養成校。実務経験ルート。介護職員初任者研修から始める方法。いくつかのページを読み込むうちに、十五年前に閉めた扉の輪郭が、少しずつ見えてくるような気がした。


 緑は、一つひとつのページをメモ帳に書き写した。スマートフォンではなく、引き出しの中にあった古いノートに、ボールペンで。そうしないと、現実感がなかった。


 結果的に、前者の自分の声に従うことにしたのだった。人生これからが本番、という声に。


 後者の自分はまだそこにいて、本当に大丈夫か、と問いかけてくる。緑はその声を無視しなかった。ただ、こう答えることにした。


 ──大丈夫かどうかは、やってみないと分からない。


---



 四月の初め、緑は一件の求人に応募した。


 介護老人保健施設、通称「老健」──利用者の在宅復帰を目指す施設だった。求人票には「未経験者歓迎」と書かれていた。三十八歳という年齢が引っかかるかもしれないと思ったが、担当者からはすぐに面接の連絡がきた。


 面接当日、緑はスーツを引っ張り出してきた。六年ぶりに着るそれは、少しだけきつくなっていた。


 施設長の西村という六十代の男性が、穏やかな目をして緑を迎えた。


「以前、ヘルパー二級の実習をされているんですね」


「はい。ただ、正直あまりうまくできなくて……」


「うまくできなかったことを、覚えている人のほうが、長続きするんですよ」


 西村施設長は、そう言って微笑んだ。緑はその言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。


 採用の連絡は翌々日に来た。


---



 初出勤の日、緑は少し早めに家を出た。


 施設の玄関を入ると、消毒液と、微かに温かい空気の匂いがした。ナースステーションに案内されると、先輩スタッフの中村さんという三十代の女性が出迎えてくれた。


「奥村さん、よろしくお願いします。まず今日は私と一緒に回りましょう」


 中村さんは手際よく動きながら、利用者一人ひとりの名前を緑に教えてくれた。


 ホールに出ると、車椅子に座った男性が、緑を見て手を振った。


「新しい人?」


「はい、今日から来ました。奥村と言います」


「そうか。よろしくな」


 男性は、満足そうに頷いた。それだけのことだったが、緑の胸の中で、何かが小さく灯った。


 その日の帰り道、緑はスマートフォンで大和にメッセージを送った。


 『今日、初日だった。なんとかなりそう』


 しばらくして、既読がついた。返信は短かった。


 『そりゃそうだろ』


 緑は笑った。声に出して笑ったのは、久しぶりな気がした。


 夜風が、思っていたより温かかった。


---



 それから三ヶ月が過ぎた。


 緑はまだ、うまくできないことだらけだった。体位交換の力加減、認知症の利用者さんへの声のかけ方、記録の書き方。毎日何かしら失敗して、毎日何かしら中村さんに教わった。


 でも不思議と、あの実習のときのように、涙は出なかった。


 いや、正確には一度だけ出た。八十七歳の女性の利用者、浜田さんが、ある朝急変して、夕方に息を引き取ったときだ。前日まで緑と話をしていた浜田さんが、翌日にはもういない。緑は着替えを手伝いながら、ひとりでに涙が落ちた。


 中村さんが隣に来て、「泣いていいんですよ」と言った。「ちゃんと泣ける人のほうが、この仕事続けられるから」


 緑は西村施設長の言葉を思い出した。うまくできなかったことを覚えている人。ちゃんと泣ける人。この施設には、そういう言葉が流れているのかもしれない、と思った。


---



 秋になった頃、緑は通信制の介護福祉士養成校に入学手続きを済ませた。


 仕事終わりにテキストを開き、土日にレポートを書く生活が始まった。三十八歳で、また学生になった。


 ある夜、テキストを読みながらふと、二つの声のことを考えた。


 人生まだまだこれから、という声と、もう十分頑張ってきた、という声。


 どちらも、まだそこにいた。


 でも今は、二つの声が争っている感じはしなかった。


 もう十分頑張ってきた──そうだ、確かに頑張ってきた。それがあったから、今ここにいる。


 人生まだまだこれから──そうだ、だからまだ続けられる。


 二つの声は、どちらも正しかった。どちらかを選ぶ必要など、最初からなかったのかもしれない。


 折り返し地点なんて、たぶん最初からなかった。


 緑はテキストに視線を戻した。


 窓の外で、虫が鳴いていた。



──完──

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