第7話 冷たい牢
硬い石の床に身体を横たえていると、冷気が皮膚を刺すように沁みてくる。
目を閉じれば、あの森、あの焚き火、そして笑っていた村の人たち――思い出が流れ込んでは消えた。
だが、もうそこには戻れない。
薄暗い牢の壁が、残酷な現実を何度でも思い出させる。
鉄格子の向こうでは、兵士たちの足音が規則正しく響き、時折怒号と罵声が混じった。
そこに僅かに混ざる笑い声は、耳に触れただけで体が強張るほど醜悪だった。
――ここは、人が声を持たない場所。
泣くことさえ許されないほどの沈黙と恐怖が、この砦の空気のすべてだった。
「……また起きていたのか。」
低い声が牢の前から響いた。
格子越しに現れたのは、鎧に身を包んだ青年騎士。
他の兵士たちとは違い、乱暴な目つきでも汚れた欲望でもなく――ただ冷たい氷のような視線だった。
彼は名乗ったことがない。
それでも何度か面会に来ているうち、兵たちの言葉から名前を知ってしまった。
――カイル・フェンラート。
デューク・ヴァイグルの副官にして、文武に優れた若き騎士。
彼は手に持っていた水袋を投げるように中へ入れ、言う。
「飲め。」
エルナはしばらく動かなかった。
飲みたくないのではない。
――飲むという行為すら、ここでは意思の証明になる。
カイルは眉をひそめた。
「拒むな。死なれると報告が面倒だ。」
その言い方が妙に滑稽で、エルナはわずかに息を吐いた。
そしてゆっくりと水袋に手を伸ばす。
冷え切った水が喉を通ると、身体が震えた。
生きているという感覚が、逆に苦しかった。
水袋を返すと、カイルは目を伏せる。
「……村で暮らしていたと聞いた。」
エルナは返事をしなかった。
「人間と……だ。」
彼の声に、わずかな驚きと、理解できないという戸惑いが混ざっていた。
エルナは静かに答えた。
「……人間だから、という理由で殺されたり、エルフだからという理由で捕らわれたり……。そんな世界は、どこか間違っていると思いました。」
カイルの表情は変わらなかったが、沈黙がわずかに長く続いた。
「世界が間違っているのではない。」
ようやく返ってきた声は、硬く、乾いていた。
「弱者が現実を理解できないだけだ。」
エルナはゆっくりと顔を上げる。
「では、その現実は――誰が決めたのですか?」
初めて、カイルの視線が揺れた。
答えは返ってこない。
代わりに彼は背を向け、短く告げた。
「今夜、閣下――デューク閣下が戻られる。」
心臓が強く打ち、その熱が全身に広がる。
あの男――。
その名を思い出すだけで、身体が縛られるように固まる。
カイルは続けた。
「……忠告する。抵抗するな。そうすれば余計な痛みは避けられる。」
エルナは視線を落とし、静かに答えた。
「……あなたは残酷ですね。」
だがその声は震えていた。
カイルも振り返らなかった。
「違う。俺は――現実を教えているだけだ。」
そのまま足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
残された静寂が、かえって苦しい。
夜になった。
砦の中がざわつき始め、松明の炎が赤く揺れる。
兵士たちの声が耳に届く。
――「デューク様が戻るぞ」
――「次はこの砦の全軍での出撃って話だ」
――「例のエルフ、まだ生きてんのか」
その言葉に、胸が締め付けられる。
足音が近づく。
複数の兵士が列を作り、先頭に歩くのは――あの男。
金髪を持ち、高価なマントを纏い、薄汚れた牢をまるで自分の私室のように歩く。
デューク・ヴァイグル。
彼は鉄格子の前に立つと、ゆっくりと笑った。
「──よく生きていたな。嬉しいぞ。」
その声は、爬虫類のように冷たく、粘り付くように甘かった。
「お前を王都に献上するのは少し惜しい。
献上前に今夜は……俺が楽しむとしよう。」
背中が凍りつき、呼吸ができなくなる。
兵士が鍵を開ける音。
鉄扉が軋むような音を立てて開かれる。
足が動かない。
声も出ない。
デュークはエルナの顎を掴み顔をじっとりと見つめる
続いてその手は下へと降りていき、
体にデュークが手を伸ばした――その瞬間。
――遠くで爆音が響いた。
砦の外で兵の叫び声が上がる。
デュークが舌打ちし、怒鳴る。
「何事だ!」
兵士が駆け込み叫ぶ。
「報告!森の方向、奴隷どもを収容していた離れの棟より爆音!
敵襲です!見張からの報告では襲撃者の掲げる軍旗は――黒い鴉です!!」
その言葉にエルナの心臓が跳ねる。
黒い鴉――
それは、一度だけ聞いた名。
ヴランツの家臣、レルゲンが語った、失われた王家の象徴。
デュークの顔が一瞬だけ歪む。
「ラヴェリア……?ルシタニアではないのか ……! まさか、あの村の小僧か!?」
エルナの胸の奥で、凍り付いていた何かが溶けていく。
息が震え、涙が頬を伝う。
兵士が叫ぶ。
「敵部隊接近!門が破られます!!」
デュークは憤怒に震えながら剣を抜き、言い放った。
「全軍戦闘態勢!あの反逆者を生け捕りにしろ!」
そして去り際――彼は冷たい視線でエルナを見た。
「逃げるなよ。すぐに戻る。その後続きをたっぷりとしてやる」
エルナは答えなかった。
ただ――震える声で、呟いた。
「……ヴランツ。」
牢の奥、闇の中。
希望という名の火が、静かに灯った




