第6話 解放
夜明け前の空はまだ深い青を残し、かすかな星の光だけが地上を照らしていた。
砦から逃げ出した者たちは森の奥に身を潜め、焚き火さえ点けず息を潜めていた。
ヴランツは木の根元に腰を下ろし、傷だらけの腕を押さえながら静かに息を吐いた。
「……思ったより消耗したな。」
ヒューズが苦笑しながら座り込む。
「無理もねぇよ。ぶっ壊れた砦の真下を駆け抜けた奴なんざ、そういない。」
レルゲンは手当てしながら呟いた。
「お前が爆発の余波に巻き込まれなかったのは運がいい。少し間違ってたら、今ごろ手足どっちかがねぇ。」
マークは祈りの言葉を終えると、短く言った。
「生きている。それで十分だ。」
その言葉に誰も返事をしなかった。
だが、皆が同じ思いを抱いているのがわかっていた。
――“生きている”ということが、今夜ほど重い意味を持ったことはない。
「……あの、」
その声は弱々しく、それでも必死に絞り出されたものだった。
振り向くと、エルフの少女が立っていた。
まだ幼さの残る顔。襤褸を脱ぎ捨てた彼女の目には涙の跡が残っていた。
「助けていただき……ありがとうございました。」
深々と頭を下げる。
続けて周囲の囚われていた者たちも頭を垂れ、震える声で礼を述べた。
ヴランツは言葉を探し、しかし思い浮かばず、ただ静かに言った。
「礼はいい。――生き延びろ。それで充分だ。」
それでも少女は首を振り、ヴランツを見つめた。
「いいえ。あなたは……ただ我らを救ったのではありません。この世界の秩序を壊したのです。」
その言葉に、レルゲンとヒューズが顔を見合わせる。
マークだけが静かに頷いていた。
少女は続けた。
「私たちの中には……何十年も檻の中で生かされ、ただ所有物として扱われた者もいます。私たちは自由の身になれたことが今でも信じられません。ですが――」
彼女は震える手で地面を掴む。
「あなたが灯した火は、もう消えません。」
火という言葉に、ヴランツの表情がわずかに強張った。
先ほど燃え落ちた砦。
そこから立ち昇る火は、ただの炎ではなかった。
――支配と服従という秩序への、最初の反逆。
少女は言った。
「あなたの名を教えてください。人々が語り継ぐために。」
ヴランツは少し迷い、そして答えた。
「ヴランツ。ただの狩人だ。」
少女は微笑んだ。
「いいえ――あなたはもう、ただの狩人ではありません。」
そのに賛同するように
レルゲン、ヒューズ、そしてマークが立ち上がる
レルゲンが笑って言う。
「お前、もう逃げる気はねぇんだろ?」
ヒューズも肩をすくめた。
「だったら腹括れよ。今さら“狩人です”なんて通る段階じゃねぇ。」
マークは片膝をつき、荒々しい動きとは裏腹に静かな声で言った。
「――ヴランツ・ラヴェンナ。
偉大なる王家の血を継ぐ者よ。」
囚人たちがざわめく。
エルフの少女、ドワーフの老人、傷だらけの者たち、皆が言葉を失った。
ヴランツは眉をひそめ、恥ずかしそうに声を荒げた。
「俺は――王になるつもりなんてなかった!」
ヒューズが笑う。
「なら、言うがな。時代ってのはな、“やりたい奴”が作るんじゃねぇ。」
レルゲンが続ける。
「必要とされた奴が作るんだよ。――お前みたいにな。」
沈黙の中、マークが懐から布を広げた。
そこには――赤黒い鴉と、折れた剣が描かれていた。
「これは先代まで受け継がれたラヴェリアの旗だ。」
布は傷んでいた。血の染みもある。
だがその紋章は揺らぎなく、何かを訴えるように強い存在感を放っていた。
「ヴランツ。」
マークの声は静かだったが、揺るぎない力があった。
「この旗を掲げるか。それとも捨て、逃げるか。選ぶのはお前だ。」
エルフの少女が息を呑む。
老人も、負傷者も、逃げてきた者たちも――その瞬間、皆がヴランツを見ていた。
ヴランツは拳を握り、ゆっくりと立ち上がった。
炎が燃え落ち、仲間が傷つき、奪われた尊厳が思い起こされる。
そして――エルナ。
彼女を奪った騎士長デューク・ヴァイグル。
あのまま軍に連れ去られれば、どうなるかは想像に難くない。
ヴランツは旗を手に取った。
布は冷たかったが、その重みは確かだった。
そして
――彼は宣言した。
「俺は戦う。奪われた者を取り返すために。
沈黙し続けた世界を変えるために。」
旗を高く掲げる。
「――今日より俺は、ヴランツ・ラヴェリア。
滅びた国の王の末裔として、反旗を翻す者だ!」
森の空気が震え、囚われていた者たち、ヴランツについてきた者たちは叫び、涙し、跪いた。
その夜。
歴史は再び動き出した。
ラヴェンナ再興運動――
後に“黒鴉革命”と呼ばれる戦いの、最初の朝が訪れようとしていた。




