第3話 決断
春が近づくにつれ、雪はゆっくりと解け始めた。
白銀に覆われていた世界は、柔らかな土の色と芽吹きの緑を取り戻し、凍りついていた大地に生命が戻ってくる。
村の空気にも、冬とは違うざわめきがあった。
畑を耕す者、羊を山へ連れていく者、家を修繕する者。
日差しのぬくもりと共に、人々の声が村に満ちていく。
私――エルナ・シュ・メルテーゼもまた、村の一員として働き、笑い、時には歌いながら過ごしていた。
あの冬の絶望がまるで遠い夢のように思えるほど、この場所は穏やかで、温かかった。
けれど、その平和はある日突然、破られる。
村の外れにいた私の耳に、風とは違う重たい音が響いた。
複数の、それも聞き慣れたものではない。
私が気配を辿るよりも早く、村人たちが家の中へ引っ込む気配がした。
振り返ると、馬蹄の音が雪解けの泥を踏みしめ、村の入口へと響いていた。
三人の男が濃い灰色の外套に身を包み、村へと入ってくる。
腰には剣、背には風に翻る黒い紋章旗を背負っていた。
ただ者ではない――そう直感した。
男たちは周囲を気にすることなく、まっすぐヴランツの家へと向かった。
私が戸口から様子を窺っていると、彼らの一人が扉を叩くことなく言った。
「ラヴェリアの正統なる継承者――我らが王、ヴランツ四世陛下はいらっしゃいますか?」
私は息を呑んだ。
王――?
ヴランツが、王……?
戸が開き、彼が姿を現した。驚きも怒りもなく、ただ静かに三人を見つめる。
「……久しいな。お前たち」
三人は膝をついた。
この世界で滅びたはずの王国――その亡霊がここに蘇ったかのようだった。
「陛下!」
「ラヴェリアの血を継ぐ最後の御方!」
「やめろ。俺を王と呼ぶな」
ヴランツの声には、冷たい鋼のような拒絶があった。
男たちの一人が告げる。
「プローゼン王国が、北のルシタニア王国へ侵攻を開始しました。――軍が手薄な今こそ、ラヴェンナを取り戻す絶好の時です!」
空気が張り詰めた。
ヴランツは苦々しい顔をし、深く息を吐いた。
「……俺はその意志を継ぐつもりはない。祖父の野望も、父の誇りも……この手で終わらせる。俺はただの狩人だ」
「しかし――!」
「帰れ。もう二度と来るな」
鋭い声が響き、三人は言葉を失った。
そのとき彼らの視線が私に向いた。
「……エルフ……まさか、陛下」
「彼女は関係ない」
ヴランツは短く言い切った。
その時の彼の表情は、まるで触れてはならない深い傷に触れられたようだった。
三人は渋々立ち去ったが、その背中には諦めと、消えぬ執念が残っていた。
扉が閉じられてしばらくの間、沈黙が室内に満ちていた。
私はどう言葉を選ぶべきか分からなかった。
やがて、ヴランツが椅子に腰を下ろし、ゆっくりと口を開く。
「聞こえてたか?」
「……少しだけ。でも、全部知りたい」
彼はわずかに笑い、そして――語り始めた。
「昔……この地にはラヴェリア王国という王国があった。森と山と河を守り、四つの種族が共存する唯一の国だった。
俺の祖父はその最後の王だ」
私は息をのみ、耳を澄ませた。
「だが、南からプローゼン王国が攻め入り、国は滅んだ。王族の多くは殺され、生き残ったのは祖父と数人の配下だけ。……俺は、その亡国の血を引いてる」
ヴランツの視線はどこか遠く、過去に沈んでいた。
「王族の血など、俺には呪いにしか見えなかった。戦争も、憎しみも、奪い合いも……全部その血が呼んだものだ。だから俺は、王にはならない。戦う気もなかった」
私は静かに言った。
「……あなたも、奪われた者なのね」
ヴランツは驚いたように私を見た。
「私も国を失った。私も名前を奪われた。あなたの痛みが理解できる」
言葉はそこまでだった。
けれど、それで十分だった。
ヴランツは深く目を伏せ、そして小さく笑った。
「ありがとう……エルナ」
ある春先の朝――その平穏は、ついに崩れた。
村へと重々しい軍靴の行進が響いたのだ。
鉄兜を被った兵士、槍と盾を携えた歩兵、そして先頭には騎士が馬に跨り堂々と進む。その旗には、プローゼン王国の王章。
騎士は馬上で声高く名乗った。
「我はプローゼン王国軍第四騎士長――デューク・ヴァイグル! 本日より北方戦線に民兵を徴兵する!」
村人たちは震えながらも逆らえず、若者たちが連れて行かれた。
その光景に胸が締め付けられたが、地獄はまだ終わらない。
デュークの視線が――私に向いた。
「……エルフ、だと? あの卑しい種族にもまだ生き残りがいたのか……」
目が、獲物を見る肉食獣のように光った。
「美しい。これは王都に献上する価値がある。愛玩奴隷としては最高の逸品だ」
村人たちがざわめき、ヴランツと数人の村人が前に出た。
「やめろ。彼女はこの村の者だ。勝手に連れていくな」
デュークは鼻で笑う。
「プローゼンの法律の前に、貴様ら農民の言葉など何の価値もない!」
剣が抜かれ、私を守ろうと抵抗した村人が斬り伏せられた。
血が泥に吸われ、悲鳴が響く。
ヴランツが殴られ、倒れ、それでも叫ぶ。
「エルナに触るなあああッ!!」
だが、その抵抗も虚しく私は捕らえられ、馬の後ろへ無理やり縛られた。
村の景色が遠ざかっていく。
「ヴランツ……!」
叫んだ声は、春風に溶けて消えた。
軍勢が去り、絶望と血痕だけが村に残った。
ヴランツは地に拳を叩きつけ、怒りと悔しさに震えていた。
その時――冬に訪れた三人の男たちが駆け込んできた。
「ヴランツ様! プローゼン軍が!!」
「……すでに去ったよ」
ヴランツは立ち上がり、その瞳にはこれまで見たことのない炎が宿っていた。
「俺は、ずっと目を背けてきた。国など、王など、自分には関係ないと思っていた。だが――」
拳を握る。
「エルナを奪われ、仲間を殺されて、なお黙っていられるほど、俺は臆病じゃない!」
男たちは息を呑む。
その声は、大地を震わせる宣誓だった。
「俺は戦う。エルナを取り返す。この村の人を守る。
――そのためなら、王にでもなんにでもなってやる!!」
風が吹き、雪解けの大地が揺れる。
眠っていた血脈が――今、目を覚ました。
こうして、運命の歯車は回り始めた




