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またね、の呪文

作者: イチジク

血が指の隙間をすり抜けるように、記憶もすり抜けていった。

いや、記憶が血をすり抜けたのか。どっちでもいい。順序なんて、今はもう関係ない。

彼女の名前を呼んだ。呼んでから後悔した。呼ぶべきではなかった。

だが声は出る。出てしまう。声は魔法の一部だったからだ。呪文は言葉から生まれる。言葉は呼吸だ。だから僕は呪った。

「お前を――」と、息の端で小さく呟いた瞬間、彼女の足元に石ころほどの黒い結晶が生まれた。結晶は僕の記憶の欠片を映す小さな鏡だった。鏡の中の僕は若くて、笑っていて、何より――無力だった。

彼女は笑った。笑い方は昔と変わっていない。変わったのはその手の動きだ。彼女の指先はひそやかな運動をしていて、運動はやがて詩になり、詩は刃になった。魔法は手仕事だ。手で紡いで、手で壊す。

「懐かしいね、イチジク。」

──そう呼ぶその声を、僕はまだ好きだった。嫌いになれなかった。だから余計に苦しい。好きだった女と、殺し合う日が来るなんて、どうして誰も予言してくれなかったのだろう。予言があれば、僕らはそれに向けて別れを練習できたかもしれない。だが現実は、練習を許さない。

彼女が紡ぐのは「忘却の糸」。触れたものの色を消し、触れたものの形を溶かす魔法だ。彼女はこっそり僕の名前を消していく。消されるたびに、僕は少し軽くなった。軽くなった途端、体が冷たくなる。

僕が返すのは「思い出の矢」。小さな光の矢を、過去の断片に向けて放つと、断片は爆ぜて鮮やかな痛みを残す。痛みは彼女の胸に刺さり、彼女は顔をしかめる。しかめた顔で笑う。笑うという行為がすでに残酷だ。

こうして二人は、会話の代わりに呪文を交わし、キスの代わりに術式を与え合った。向かい合うテーブルに残ったのはコーヒーと灰皿、そして儀式の残骸だけ。灰皿の灰は、僕らがかつて一緒に吸った日々の灰だった。僕が一服するたび、そこから彼女の指紋が浮かび上がる。

「なぜ、こんなことをする?」と僕は訊ねた。問いは呪文になる。問いは矢となる。矢は飛ぶ。彼女は答えない。答えの代わりに小さな蝶をひとつ出した。蝶は紙屑みたいに軽く、羽を動かすたびに僕の名前を一文字ずつ剥がしていく。

剥がされた名前はどこに行くのか。僕はそれを追いかけたかったが、足はすでに重い。魔法の代償は重い。代償はいつも最後に支払わされる。

「覚えているか?」と彼女は言った。声には昔の匂いが残っている。雨の匂い、図書館の古いページの匂い、君と僕が同じ傘を差した夜の匂い。僕は頷く。頷くたびに、胸のどこかが裂ける。裂けると同時に、そこからまた呪文が漏れる。

僕らの魔法は感情を材料にして作られていた。憎しみではなく、愛がより鋭く魔力を増幅した。だからこの戦いは残酷だった。愛が剣になり、親しみが炎になり、思いやりが氷になった。

最後の時、彼女が使ったのは「名前の凍結」。一度凍らせた名前は二度と口から出ない。彼女は僕の名前を氷の小箱に封じ込めた。僕は何度も叫んだ。叫ぶことは出来たが、音はただの風になって流れた。風は僕を通り過ぎた。

僕が使ったのは「記憶の火」。燃やすと残るのは灰ではなく真実のみ。真実は手触りが鋭い。燃やした真実は彼女の目を切りつけた。彼女の目は泣きながら笑い、笑いながら消えた。

消える前に彼女は言った。言葉は液体のように滑って、テーブルの脚元へ落ちた。そこから小さな芽が出る。それは僕らのあれこれの欠片で作られた花だった。花は短く、美しかった。僕はその花を摘んで鼻に近づけた。匂いは僕の幼さだった。

「これでいいのか?」僕は自分に問いかけるように言った。問いかけはもう誰にも届かない。問いかけは自分自身の胸に刺さるだけだ。

彼女は消えた。消える過程は静かすぎて、僕の心は驚いて笑った。笑ってから泣くのはやめておけ、とどこかで誰かが言っていた。だが僕は笑い、そして泣いた。涙は魔法の燃料になる。涙の一滴で僕はまた彼女を呼べるかもしれない。呼べないかもしれない。どちらでもいい。結果はもう見えているのに、僕はまだその順序に固執する。

最後に残ったのは、彼女が残した小箱と僕の重さのない手。小箱の中には、僕がかつて置いた一通の手紙が入っていた。読み返した。そこには「さよなら」ではなく「またね」とだけ書いてあった。文字は揺れていて、どこかで泣きながら書かれたものだった。

「またね」──その言葉は呪文のようにかかって、僕の体を解体し、同時に保存した。保存された僕は、どこか遠い図書館の棚の背表紙の裏で、小さな光を放っている。光は弱いが消えない。彼女がいない世界で、光はただそれだけで十分だった。

僕は立ちあがった。足はまだ冷たい。世界は既に変わっている。変わった世界で、僕は歩く。歩くたびに、誰かが僕の名前を拾ってくれるかもしれない。拾われなければ、それでもいい。名前はなくても、僕は僕だ。たぶん。

だが夜になると、誰かの耳に僕らの戦いの音が届く。ガラスが震えるような、遠い祈りのような。誰も近づかないでほしい。近づくと、また呪文が始まるから。僕はそう思いながら、もう一度小箱を閉じた。

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