第五十三話 身分証
警察の事情聴取には、長い時間を要した。
色々と説明することが多いのと、なんといっても俺とソルスの正体を隠してしなければならないため、大いに手間取った。だがようやく説明をし終えると、なんとか警察にも納得してもらうことが出来た。
俺はほっと息を吐き出し、長椅子に座り込んだ。
そのとき、手術室の赤ランプが消えた。
ほどなくして手術室の扉が開く。
中から医師が、口元のマスクを取りながら出てきた。そして――
「なんとか命を取り留めることが出来ました。当分の間は絶対安静ですが、もう大丈夫でしょう」
警察官たちから、おおという声が上がる。
医師は深くお辞儀をすると、手術室から運び出されるストレッチャー上の来栖と、その警備をする警察官数名と共に立ち去っていった。
「お手柄だったな」
刑事のひとりが、俺の肩を叩いて声をかけてきた。
俺はなんと返していいかわからず、ただ軽く会釈をした。
「お手柄お手柄」
他の刑事たちも声をかけてくる。
俺は肩をすくめ、刑事たちに軽く頭を下げた。
刑事たちが去っていき、ひとりの制服警察官が残った。
警察官は左手に回覧板に使うようなクリップ式のボードを持ち、右手でペンを握って俺に問いかけた。
「橘陣さんですよね?マイナンバーカードはお持ちですか?」
なんだって?
「えっと、マイ……ナンバー……カード……ですか?」
俺のたどたどしい問いに、制服の警察官が笑顔で言った。
「ええ、そうです。今、お持ちですか?」
なんだそれは。まあ、とりあえず持ってないよな。
「いや、持ってない」
「では免許証は?」
「持ってない」
「そうですか。それなら、他に何か身分を証明するものはありますか?」
身分証明証なんて、俺が持っているはずがない。
「いや、ないけど……」
「そうですか……それだとちょっと懸賞金の支払いをするにしても、身分証の提示がないとお渡し出来ないと思いますよ」
軽く眩暈がした。
それもそうか。犯人を捕まえたといっても、何処の誰ともわからない者に警察が懸賞金を出せるはずがない。
迂闊だった。そこまで考えが回らなかった。
俺が呆けた顔をしてふらつくと、千弦が会話を聞いていたようで割り込んできた。
「後で持ってくればいいだろう。それで構いませんよね?」
千弦は警察官にそう尋ねた。
警察官は笑みを浮かべた。
「そうですね。でしたら、後ほど署の方にお立ち寄りください。その際に身分証を提示していただければ構いませんので」
「わかりました」
千弦はそう言うと、警察官に頭を下げた。
警察官は敬礼を返し、去っていった。
俺は千弦に向かって言った。
「まずった」
「大丈夫だ。俺に任せろ」
「マジで?」
「ああ、心配するな。悪いようにはしない」
「そうか、助かるよ」
千弦は口元に笑みを浮かべて言った。
「では、俺たちも戻るとしよう」
そうして俺たちは、疲れた心と身体を引きずって、一旦組長宅に戻ることにした。
「そうか……それはとんだことになったな」
春夏冬組の組長が、険しい顔つきで呟くように言った。
「はい。そんなわけでして、橘とソルスの両名と共に戻ってきました」
千弦が頭を下げつつ言った。
ここは、先程までいた組長の本宅内にある、温泉旅館の大広間のような百畳くらいはありそうな畳敷きの部屋である。
そこでまずは組長に報告をし、今後のことを話し合うこととなった。
「どうも、早速世話になるよ」
先程組長との別れ際に、いつでも困ったことがあったら来るように言われたが、まさかこんなに早く来ることになるとは俺も思っていなかった。
俺の言葉に、組長が笑った。
「ずいぶんと早かったな」
俺は肩をすくめて苦笑する。
「まさかねえ、こんなことになるとはねえ」
と千弦が割って入った。
「組長、それで懸賞金のことですが」
組長は大きくうなずいた。
「こちらで出そう」
「え!?いいのか!?」
組長は笑みを浮かべてうなずいた。
「構わない。そもそも懸賞金の半分以上は、わたしが出すはずのものだからな」
俺は軽く首を傾けた。
「懸賞金って、警察が出すんじゃないの?」
千弦が組長に代わって答える。
「警察が出すのは三百万円までだ。それが上限なんだ。残りの金額は遺族などが謝礼として払う」
「そうなのか。なら、八百万円から三百万円を引いた五百万円がそうか」
「そうだな。だが――」
千弦は話している途中で組長を見た。組長は笑みを湛えてうなずいた。
「二千万円だそう」
組長の言葉に俺は仰け反らんばかりに驚いた。
「マジで?」
「一度、千弦が二千万円を提示したと聞いた。ならばそれでどうだ」
「いや、でも……いいのか?」
俺は横の千弦を見た。
千弦も笑みを湛えていた。
「俺たちの気持ちだ。受け取ってくれ。それにさっき、身分証を作らせるように手配をした。もちろん偽造だが、持っていた方が何かと便利だろう」
「あ、ありがてえ……」
「それと、住む家も用意させてもらおう」
「何から何まで、至れり尽くせり……」
「感謝の証だ。遠慮なく受け取ってくれ」
「遠慮なくいただきます!」
俺は素直に施しを受けることにした。
と、千弦とは反対側に座るソルスがにんまりして言った。
「楽しい新生活の始まりだな」
「何を笑っている」
「俺は車が欲しいな」
何を言うかと思えば、そんなことか。
「お前、そんなに乗り物好きなのか」
「好きだな。速いし面白い。車にも色々あるのだろう?出来るだけ速いのにしてくれ」
「お前、もしかして俺と一緒に住むつもりか」
「そうだ。こちらの世界は面白い。他にも一杯楽しめそうだ」
「いや、普段は冥界に帰れよ」
「いやだ、面倒くさい」
「そうは言うが、その姿でいると疲れるんだろ?さすがに元の死神の姿では一緒に住めないぞ」
「大丈夫だ。あれは嘘だから」
俺の片眉がピンと跳ね上がる。
「な・ん・だ・と?」
ソルスは正面を向いたまま、悪びれずに言う。
「あれは嘘だ。別に疲れない」
ちーん……頭の中で祇園精舎の鐘の声が聞こえた気がする。この野郎、嘘ぶっこきやがったんかい!
「お前、たいがいにしやがれよ」
と、ソルスがくるっと俺に向き直った。
「それに、レベッカもいる。楽しみは尽きない」
レベッカ――あの女、どういう因果で来栖と。
またいつか何処かでみたいなことを言っていやがったが――
俺はふと大広間の開いた障子の向こうを眺めた。そこには見事な日本庭園が広がっていた。綺麗に剪定された松の木や、大きな石が連なって囲いとした中に水を張った池がある。手前には苔むした灯篭が立ち、実に趣があった。
俺はその素晴らしい借景を見ているうちに、なんだかどうでもよくなった。
「まあ……いいか」
そうして俺たちは、千弦が用意してくれた家で暮らすこととなった。




