第四十八話 春夏冬葉子
春夏冬葉子の震えるような声を聞き、誰もが目を見開いて驚いている。
俺はそんな彼らに向かい、断言するように言った。
「春夏冬葉子だ。好きに話すといい」
組員たちからどよめきが起こった。
組長が目を見開き、よろよろとした足取りで前に一歩を踏み出した。
「本当か?本当に葉子なのか」
組長はそう言って、また一歩前に歩を進めて、捲れた空間に近づいていく。
ソルスの姿を見て恐れおののいていた看護師は、ビビりながらもなんとか組長の身体を支えている。
「葉子……葉子……」
組長がうわ言のように呻き、葉子の名前を呼び続ける。
葉子は、万感の思いを込めて言った。
「お父さん……」
「おお、葉子!」
「お父さん」
感動の再会――だが――
「そこまでだ。それ以上行くと吸い込まれる」
俺は片手をかざして、組長の行く手を塞いだ。
組長はちらと俺を見るも、また一歩前に出ようとした。
「ダメだって。それ以上は前に出るなと言っているだろう」
「構わんよ。わたしはもう、構わんのだ」
組長を支える看護師が、恐怖に引き歪んだ顔で俺に助けを求める視線を送っている。
わかってるよ。
俺は強硬手段とばかりに、組長の前に敢然と立ち塞がった。
「止まれ。あんたを冥界に行かせるために、ここに連れて来たんじゃない」
「葉子がそこにいるのなら、行かせてくれ。もうわたしはいいんだ!」
と、それまで聞いたことのない大きな声で葉子が言った。
「お父さん止めて。こっちへ来てはだめ。お願いだから、わたしのために生きて」
葉子の言葉を聞き、組長は途端に全身の力が抜けたようになった。
俺は看護師だけでは足りないと思い、組長の身体を正面から受け止めた。
そこへ千弦と柴崎が駆けつけた。
千弦は組長の脇を抱えて、諭すように言った。
「組長、元気出してください。葉子に会えただけでもうれしいじゃないですか」
組長はその言葉を聞いて、その場に泣き崩れた。
と、葉子がか細い声で恋人の名前を呼んだ。
「令司さん……」
千弦令司もまた、闇の中に瞬く二つの光を暖かい眼差しで見つめながら、万感の思いを込めて恋人の名を呼んだ。
「葉子……」
二人はしばしの間、無言で見つめ合った。それは傍から見れば、心の中で会話をしているように見えた。
俺はしばらくの間、黙って見ていた。
他の者たちもそれは同じだった。
透き通るような青空の元、しばしの間沈黙の会話が続いた。
と、闇の中に浮かび上がる双眸が、激しく瞬いた。
「あれは、来栖……」
葉子が最後列にいた来栖を見つけた。
俺はようやく出番とばかりに、口を開いた。
「そうだ。来栖京介を捕まえてきた」
葉子は一言だけ呟くように言った。
「そう……」
俺は鼻から息を吐き出し、言った。
「どうしたい?」
俺の問いかけに、葉子が戸惑いを見せた。
「わたし?……わたしは……」
「殺したいか?」
単刀直入に俺は尋ねた。
葉子はしばしの沈黙のうち、答えた。
「さあ……そのときは恨んだし、今もそれは消えたとは思わない。でも、来栖を殺したところで……どうにもなりはしないわ」
死んだ者は決してこの世には帰って来ない。なにをどうしたところで、戻ることは決してない。だから来栖を殺したところで――自分は生き返らない。
「殺しても意味はないか」
「そうね……少なくともわたしにとっては、そうなるのかな……よく、わからないわ」
本心なのだろう。死んでしまっては、今更どうしたって――
他人の俺でも虚しさが募る。実に嫌な気分だ。だから殺人は、取り返しがつかない大罪なんだ。
「千弦は、やっぱり来栖を殺したいか?」
俺は改めて千弦に尋ねてみた。
千弦は闇の中の二つの光を見つめながら、答えた。
「そうだな。確かに殺したところで葉子は帰って来はしない。だが、やはり殺したいかと尋ねられたら、
殺したいというのが正直なところだ」
――やはりか。
だがそこで、葉子が言った。
「やめて令司さん。わたしは貴方にそんなことはしてほしくはないわ」
千弦令司は、フッと息を吐き出した。
「葉子、そう言うと思ったが……俺はヤクザだぜ」
「それでもよ。わたしは貴方を愛しています。それは今でも変わらない。でも、そんなことを言う貴方は、わたしは嫌いです」
千弦は、寂しそうに笑った。
「葉子は、ヤクザ稼業は嫌いだものな」
「ええ、嫌いよ……ずっと嫌いだった。だからアルバイトを始めたの。最初はアルバイトでも、いずれ正社員になって、お給料ももっともらえるようになって、そうしたら……そんなことをずっと考えていたわ」
そうしたら――か。そうしたら――千弦に足を洗わせて、二人で何処かで家庭を作る――そんなところだろうか。
千弦は初めて葉子から視線を外し、うつむいた。
しばらくして、千弦が呟くように言った。
「わかった」
「ありがとう」
光が瞬いている。俺にはその輝きが、喜んでいるように見えた。
「お父さんも、お願い。わたしのために人殺しなんてしないで……」
葉子は、父親である組長に対してもそう言った。
泣き崩れていた組長は顔を上げ、とめどなく流れる涙を気にすることなく大きく何度もうなずいた。
俺は頃合いとみて、葉子に問いかけた。
「どうだ?これで成仏できそうか?」
またも二つの光が闇の中で瞬いた。
「ええ。ありがとう……これなら安心して旅立てる気がするわ」
「そうか。それならよかった」
俺がそう言うなり、輝きが鈍くなった。光がゆっくりと弱くなっていく。
それを見て、千弦が呟く。
「葉子……」
「これでさようなら。令司さん、元気でね」
葉子の言葉に、千弦が顔を歪める。
「お父さん、さようなら」
「葉子……」
組長は、もはや声にならないほどであった。
「みんなもさようなら。ヤクザなみんなは嫌いだったけど、そうでないみんなは大好きだったわ」
強面のやくざたちが一斉にうつむき、むせび泣いた。
愛していたし、愛されていたんだな。
俺はそう思い、なんかうらやましかった。
だがこれで――
「さようなら……」
葉子が最後にもう一度だけ、別れの言葉を告げた。
そして光は、消え失せた。
これで終わりだ。
捲れた空間が、音もなく元に戻っていく。
全ての決着はついた。あとは来栖を警察に突き出すだけだ。
俺はそこでふとソルスを見た。
ソルスは不敵に笑っていた。焼け爛れた口の端を上げ、何故か笑って来栖を見つめていた。




