鐘楼を見下ろす不穏な影
王都を覆っていた靄は夜半にかけてゆっくりと晴れ、星々が天幕のように瞬き始めていた。
けれど澄んだはずの空気には、言葉にできぬ重苦しさが漂っていた。鐘楼――王都の心臓部ともいえる高塔の上に、確かに何かが影を落としていたからだ。
遠く離れた黒き山の稜線。
そこに、ひとつの人影が立っていた。
男であった。
銀灰の長髪を風に靡かせ、深い紫を宿す双眸が遥か彼方の鐘楼を射抜いている。その眼差しは猛禽のそれを思わせながらも、どこか人を超えた冷徹さと、何より底知れぬ愉悦を湛えていた。
「……残ったな」
男はかすかに笑みを浮かべた。
その手に携えた杖の先には、紫に濁った宝珠。宝珠には塔の内部が映し出されている。
少年がいた。荒い息を吐き、なお立ち上がろうとする姿。涙に濡れた眼差し。外套を胸に抱くその小さな背中。
――鐘を鳴らす、と震えながらも誓った少年の声までも、宝珠は余すことなく刻み込んでいた。
「レオン……カディス」
男ははっきりと、その名を口にした。
唇に広がる笑みは、氷刃のように冷たい。
「師を失い、呪印に選ばれし子。……忌むべき逆祓の残り火か。あの鐘楼の下で燻っているのが、まだ消えぬとは」
*
男の名は アヴェル=ネフィリス。
かつて魔導評議会の重鎮でありながら、紫禍の根源に魅せられ、禁忌の術式を研究した果てに追放された魔導師。
評議会にとっては抹消すべき過去、だが彼自身にとっては“世界の新たな始まり”を切り拓く存在。
彼の足元に、靄がわき立つ。そこから無数の人影が形を取りはじめた。
兵の姿、女や子供の姿。だがその目は虚ろに光り、声はなく、ただ風のように揺れている。
それは「影人形」。王都近隣の村で行方不明となった人々の魂を剥ぎ取り、紫の靄で形を与えた犠牲者たちだった。
「恐怖は紫の糧となる。
鐘楼に閉じ込められた小さな獣は、民衆の憎しみを集めるだろう。鐘を鳴らせば災厄を呼ぶ、と囁かれるその存在は……最も甘美な供物となる」
アヴェルの声は夜気に溶け、あたりの闇そのものを支配してゆくようだった。
*
そのとき、背後から四つの影が現れた。
それぞれが異なる装いをまとい、冷ややかな気配を漂わせている。
一人は黒甲冑に身を固めた騎士。
一人は面紗を纏った女剣士。
一人は獣の毛皮を背負った巨漢。
一人は痩せこけ、無数の符を体に貼り付けた僧形の男。
彼らはアヴェルに跪き、一人が声を発した。
「主よ。南の交易路に紫の靄を流しました。三日のうちに食糧の供給は断たれるでしょう」
「よい」アヴェルは頷いた。
「王都の胃袋を空にせよ。飢えもまた、紫を育てる養分だ」
別の影が言った。
「鐘楼の少年はいかがいたしましょう。評議会の兵が監視を強めていますが……」
アヴェルは一笑に付した。
「放っておけ。あれは檻の中で吠えるだけの子犬だ。だが――」
彼は宝珠を見つめ、瞳を細めた。
「……その吠え声がやがて、誰よりも甘い絶望を響かせることになる」
*
その刹那、宝珠が淡く震えた。
映し出されるレオンの姿――彼が胸を押さえ、息を詰める光景。
呪印が疼いたのだ。アヴェルの気配に応じるかのように。
「……感じているか、レオン・カディス」
アヴェルは囁くように言った。
「お前が誓おうと、抗おうと、紫は必ずお前を喰らう。鐘の音は救いではない。葬送の鐘となるのだ」
その声は夜を震わせ、山の闇に響き渡った。
まるで王都全体に呪いを刻み込むように。
やがて月は雲に覆われ、空は闇一色に沈む。
その暗黒の中で、ただアヴェルの双眸だけが妖しく燃え上がっていた。
「真なる鐘を鳴らすのは――我らだ」
その宣言とともに、山肌を這うように紫の靄が広がり始めた。
それは王都に向かう冷たい奔流のようで、見えぬ災厄の予兆を孕んでいた。
そして、鐘楼の最上層に佇む少年の胸奥では、再び紋の疼きが強く走る。
彼はまだその因縁を知らない。
だが運命はすでに、彼と敵とを結び付けていた――。