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滅紫の殲葬送者  作者: 宵興愛華
第1章 王都の靄
8/9

鐘楼を見下ろす不穏な影

王都を覆っていた靄は夜半にかけてゆっくりと晴れ、星々が天幕のように瞬き始めていた。

 けれど澄んだはずの空気には、言葉にできぬ重苦しさが漂っていた。鐘楼――王都の心臓部ともいえる高塔の上に、確かに何かが影を落としていたからだ。


 遠く離れた黒き山の稜線。

 そこに、ひとつの人影が立っていた。


 男であった。

 銀灰の長髪を風に靡かせ、深い紫を宿す双眸が遥か彼方の鐘楼を射抜いている。その眼差しは猛禽のそれを思わせながらも、どこか人を超えた冷徹さと、何より底知れぬ愉悦を湛えていた。


 「……残ったな」

 男はかすかに笑みを浮かべた。


 その手に携えた杖の先には、紫に濁った宝珠。宝珠には塔の内部が映し出されている。

 少年がいた。荒い息を吐き、なお立ち上がろうとする姿。涙に濡れた眼差し。外套を胸に抱くその小さな背中。

 ――鐘を鳴らす、と震えながらも誓った少年の声までも、宝珠は余すことなく刻み込んでいた。


 「レオン……カディス」

 男ははっきりと、その名を口にした。


 唇に広がる笑みは、氷刃のように冷たい。

 「師を失い、呪印に選ばれし子。……忌むべき逆祓の残り火か。あの鐘楼の下で燻っているのが、まだ消えぬとは」



 男の名は アヴェル=ネフィリス。

 かつて魔導評議会の重鎮でありながら、紫禍の根源に魅せられ、禁忌の術式を研究した果てに追放された魔導師。

 評議会にとっては抹消すべき過去、だが彼自身にとっては“世界の新たな始まり”を切り拓く存在。


 彼の足元に、靄がわき立つ。そこから無数の人影が形を取りはじめた。

 兵の姿、女や子供の姿。だがその目は虚ろに光り、声はなく、ただ風のように揺れている。

 それは「影人形」。王都近隣の村で行方不明となった人々の魂を剥ぎ取り、紫の靄で形を与えた犠牲者たちだった。


 「恐怖は紫の糧となる。

  鐘楼に閉じ込められた小さな獣は、民衆の憎しみを集めるだろう。鐘を鳴らせば災厄を呼ぶ、と囁かれるその存在は……最も甘美な供物となる」


 アヴェルの声は夜気に溶け、あたりの闇そのものを支配してゆくようだった。



 そのとき、背後から四つの影が現れた。

 それぞれが異なる装いをまとい、冷ややかな気配を漂わせている。

 一人は黒甲冑に身を固めた騎士。

 一人は面紗を纏った女剣士。

 一人は獣の毛皮を背負った巨漢。

 一人は痩せこけ、無数の符を体に貼り付けた僧形の男。


 彼らはアヴェルに跪き、一人が声を発した。

 「主よ。南の交易路に紫の靄を流しました。三日のうちに食糧の供給は断たれるでしょう」


 「よい」アヴェルは頷いた。

 「王都の胃袋を空にせよ。飢えもまた、紫を育てる養分だ」


 別の影が言った。

 「鐘楼の少年はいかがいたしましょう。評議会の兵が監視を強めていますが……」


 アヴェルは一笑に付した。

 「放っておけ。あれは檻の中で吠えるだけの子犬だ。だが――」

 彼は宝珠を見つめ、瞳を細めた。

 「……その吠え声がやがて、誰よりも甘い絶望を響かせることになる」



 その刹那、宝珠が淡く震えた。

 映し出されるレオンの姿――彼が胸を押さえ、息を詰める光景。

 呪印が疼いたのだ。アヴェルの気配に応じるかのように。


 「……感じているか、レオン・カディス」

 アヴェルは囁くように言った。

 「お前が誓おうと、抗おうと、紫は必ずお前を喰らう。鐘の音は救いではない。葬送の鐘となるのだ」


 その声は夜を震わせ、山の闇に響き渡った。

 まるで王都全体に呪いを刻み込むように。


 やがて月は雲に覆われ、空は闇一色に沈む。

 その暗黒の中で、ただアヴェルの双眸だけが妖しく燃え上がっていた。


 「真なる鐘を鳴らすのは――我らだ」


 その宣言とともに、山肌を這うように紫の靄が広がり始めた。

 それは王都に向かう冷たい奔流のようで、見えぬ災厄の予兆を孕んでいた。


 そして、鐘楼の最上層に佇む少年の胸奥では、再び紋の疼きが強く走る。

 彼はまだその因縁を知らない。

 だが運命はすでに、彼と敵とを結び付けていた――。

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