鐘楼に戻された少年の孤独
議事堂を出た少年の足取りは、石畳を踏むたびに沈んでいった。
昼の陽光は王都を照らしているはずなのに、彼にとっては重く冷たい鉛のようだった。
兵士たちに囲まれ、鐘楼への坂道を登らされる。民衆は道の両脇に集まり、口々に囁く。
「鐘を鳴らした子だ……」
「いや、呪印に取り憑かれた子だ」
「災いを呼ぶ……」
その声は小さな石礫となって少年の胸に降り注ぎ、呼吸を乱す。昨夜、命を懸けて守ったはずの人々。その瞳が、今は恐怖に濁り、憎悪を孕んで自分を射抜いていた。
「やめて……」と心の奥でつぶやく。
けれど声は口から出なかった。叫んだところで、誰も耳を傾けないことを、もう理解してしまっていたからだ。
*
鐘楼の黒い影が視界に迫る。王都の高みを貫くその塔は、かつて「救済の象徴」だった。だが今、少年には巨大な棺桶のように見えた。
兵士たちは鉄の扉を開き、冷たく告げた。
「ここがお前の居だ。評議会が鐘を求めるその日まで、ここで待て」
重い扉が閉ざされる。鉄の閂が落ちる音が、全身を縛りつけた。
――閉じ込められた。
自由ではなく「監視」として。
救済者ではなく「危険」として。
*
塔内の石階段を一歩、また一歩と登る。
かつては師と共に掃除をし、笑い合いながら上った階段。だが今はただ、冷たい石壁と自分の足音だけが付きまとう。
その虚しさが、夜の鐘よりも重く響いた。
最上部に着いたとき、広間の中央に鎮座する大鐘が目に入った。
紫の災いを退けたはずの鐘は、今も黒紫の裂け目を抱えている。鐘面はまるで傷ついた肉のようにひび割れ、そこから滲み出す闇が広間全体を染めていた。
鐘の根元には、師オルグの外套が落ちていた。
昨夜、炎と光に包まれながら消えていったはずの人。
残された布切れを拾い上げると、思いがけず重さがあった。手に抱いた瞬間、師の温もりの残り香を感じたような錯覚に胸が締め付けられる。
「師匠……」
その名を呼ぶと、こらえていた涙が頬を伝った。
――なぜ置いていった。
――なぜ最後に笑ったんだ。
叫びは声にならず、外套を胸に押し当てた。
*
日が暮れていく。鐘楼の窓から王都の光が見える。人々の灯火が星のように散らばり、昨夜の恐怖を忘れたかのように揺れている。
だが、その下で自分は「災厄」として囁かれているのだ。
ふと視線を移すと、石机に数冊の古びた書物が置かれていた。背表紙は擦り切れ、幾度も読み込まれた跡。
その一冊を開くと、逆祓の禁術について記されていた。
――逆祓とは、世界に侵す災いを、二つの魂を合わせて祓う禁術。
――一人は鐘を媒介に世界へ響きを放ち、もう一人は命を差し出して術を完遂する。
レオンの目が揺れた。その横に、細字の走り書きが残されている。
〈弟子が鐘を鳴らすときが来る。その時、私は代償を担う覚悟をせねばならない〉
師の筆跡だった。震える指先がその文字をなぞる。
――師は、最初から覚悟していた。
命を捨てることを知っていて、自分に鐘を託した。
胸が押し潰されそうになり、書物を閉じる。
「どうして……俺なんだ」
吐き出した声は広間に虚しく反響する。答える人は、もういない。
*
深夜。王都のざわめきが静まり、鐘楼には風の音と自分の呼吸だけが残った。
広間の中央で、少年は鐘を見上げた。月明かりが差し込み、鐘の裂け目を鈍く照らす。
「俺は……災厄じゃない」
声は震えていたが、それでも吐き出さずにはいられなかった。
「俺を生かしたのは、師の望みだ」
「鐘を鳴らすのは、俺だ。紫を滅ぼすのは、俺しかいない」
言葉にするたびに胸が熱を帯びる。
恐怖は消えない。孤独も消えない。だがその上に、別の何かが芽生えていく。
「師匠……あなたの誓い、俺が継ぐ」
右腕の包帯の下で、紫紋が熱を放った。脈打つように鼓動が響き、まるで「それでいい」と告げるかのようだった。
レオンは月を仰ぐ。夜空にはまだ薄紫の靄が漂っている。だが、確かにそこには白い光もあった。
孤独の闇に灯る、一点の火種。
その火は弱々しい。だが、消えはしない。
少年は再び拳を握りしめ、誓いを胸に刻んだ。
――鐘楼の孤独を抱え、鐘を鳴らす者として生き抜く。
その覚悟が、紫を滅ぼす戦いの始まりとなる。