鐘の咆哮
――ゴォォォォン……!
鐘楼に鳴り響いたその一撃は、まさに大地を揺るがす咆哮だった。
黒鉄の鐘から迸る波紋は光の奔流となり、紫の靄を切り裂き、骸兵たちを弾き飛ばす。彼らの骸骨の軋み声、腐肉が剥がれ落ちる音が、夜風にちぎれて散った。
鐘の音はただの音ではなかった。それは〈祓い〉そのもの。過去に幾度も都を救ってきた禁忌の力。
しかし、それは同時に人の身には余るものだった。
鐘の余韻がまだ大気に震えているそのとき、レオンの右腕が内側から裂けるように灼熱した。
「ッ……! あ、あああっ!」
少年は絶叫し、石畳に膝をついた。
皮膚の下から浮かび上がるのは紫黒の紋様。螺旋を描きながら血管に絡みつき、腕から肩へ、胸へと這い上がろうとする。まるで鐘楼の呪いがそのまま彼に宿ろうとしているかのようだった。
「師匠っ、な、なにが……! 俺の、腕が……!」
声は涙に濡れ、恐怖に掠れていた。
オルグは彼に駆け寄り、その肩を強く掴んだ。
「しっかりしろ、レオン。逃げるな! その印は……お前が鐘を打った証だ」
「証……? これが……?」
「そうだ。鐘は、鳴らす者を選ぶ。選ばれぬ者が打てば、その魂は砕け散る。お前は――選ばれたのだ」
オルグの声は確かに重く、誇りを帯びていた。だがその瞳の奥には、深い哀しみが影のように揺れていた。
鐘の音が夜空に残響し続ける。王都を覆っていた靄は一度は退けられ、逃げ惑っていた人々もその隙に息を取り戻し始めた。
「鐘が……鐘が響いたぞ!」
「まだ……まだ助かるのか!」
かすかな歓声が遠くから聞こえた。
だが、それも束の間だった。
紫の靄は王都の四方から再び押し寄せていた。まるで鐘の祓いを学習するかのように、いっそう濃く、重く、怨嗟を孕んで。骸兵の咆哮も倍増し、鐘楼の石段を埋め尽くして登ってくる。
「な、なんで……! さっきの鐘で……全部、消えたはずじゃ……!」
レオンは震える声で叫んだ。
オルグは静かに首を振る。
「鐘は“退ける”だけだ。討つことはできぬ。奴らは必ず戻る……永劫にだ」
鐘の音は強力だ。だが、それは一時的な防波堤に過ぎなかった。鐘を打ち続ける限り押し返せる。だがその代償は打つ者の魂に降り注ぐ。
オルグは知っていた――弟子がすでにその呪印を受け入れたことを。
レオンは息を荒げ、腕を押さえながらも鐘を見上げた。
「俺が……また、鳴らすんだな……!」
その瞳に恐怖と同じくらいの決意が揺らいでいた。
だがオルグは首を横に振る。
「いや。もう一度打てば、お前の魂は鐘に呑まれる。まだその時ではない」
少年は愕然とした。
「でも……でも、街が……!」
「――俺がやる」
オルグは槌を握りしめた。
老いた腕にはかつての力はない。鐘を振るうにはあまりに重すぎる。それでも彼は迷わなかった。
鐘楼を囲む骸兵たちの唸り声が近づく。石段は既に奴らの黒い波で埋まり、残された時間はわずかだった。
オルグは弟子を振り返る。
「レオン。お前が鐘を鳴らしたことで、道は開かれた。だが、この夜を凌ぐためには……さらに深い“逆祓”を使わねばならん」
「逆……祓?」
少年の声はかすれ、恐怖と疑問に揺れていた。
「鐘は一度の響きで靄を退ける。しかし逆祓は、鐘そのものを逆に共鳴させ、靄の源を断ち切る……禁術だ」
「禁術……!」
「本来は二人でしか行えぬ。ひとりが鐘を打ち、もうひとりが魂を捧げて媒介する。だが今、ここに残る鐘守は俺とお前だけ……」
オルグは静かに笑った。
「俺がやる。お前は、生き延びろ」
その言葉にレオンは顔を上げた。
「やめろ! 俺がやる! 俺は選ばれたんだろ!?」
必死の叫びだった。声は裏返り、涙が頬を伝う。
だがオルグの瞳は微動だにしない。
「選ばれたからこそ……生きねばならん。鐘を打てる者は、この先の時代に必要なのだ」
背後では、骸兵たちの群れが石段を揺らしながら迫っていた。
レオンは槌を掴み返そうと身を乗り出したが、オルグはその手を静かに払いのけた。
「まだだ。お前の時は、まだ来ていない」
レオンの胸に込み上げるのは悔しさ、無力さ、そしてどうしようもない愛着だった。
オルグは師であり、父であり、唯一の支えだった。
その人が、自らを犠牲にしようとしている。
「師匠……! お願いだ、やめてくれ……! 一緒に逃げようよ! 鐘なんてもう……!」
涙混じりの声が夜空に響く。
だが、鐘は逃げ道を許さない。
紫禍は王都を呑み尽くそうとしていた。
オルグは最後にひとつ、弟子の頭を撫でた。
「よくやった、レオン。鐘を打ったお前は……もう立派な鐘守だ」
その言葉に、レオンの心は張り裂けた。
次の瞬間、オルグは鐘の前に立ち、両腕を大きく広げた。
紫の靄が塔の上まで押し寄せ、骸兵たちが鐘楼の壁をよじ登る。
レオンは声を枯らして叫んだ。
「師匠ぉぉぉぉっ!!」
鐘の咆哮は、再び夜空を裂いた――。
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