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滅紫の殲葬送者  作者: 宵興愛華
序章:紫禍の夜
1/9

鐘楼を覆う紫

 夜は深く、しかし暗黒ではなかった。

 王都の空を覆うのは黒ではなく、どす黒く濁った紫の靄だった。人々はそれを〈紫禍(しが)〉と呼び、口にするだけで胸を冷たく締めつけられるような畏怖を覚える。


 靄は霧のように漂いながらも、ただの自然現象ではなかった。まるで生き物のように蠢き、家屋の壁を這い、窓の隙間から忍び込む。触れたものを腐らせ、飲み込んだものを死へと追いやり、やがては己の眷属――紫骸兵(しがいへい)へと変えていく。


 悲鳴が夜風にちぎれ、鐘楼の石段まで届いていた。

 「ひぃっ……やめろ! 来るな!」

 「母さん! 母さ――」

 人々の絶叫は途切れ途切れで、やがて濁った咆哮へと呑み込まれる。骸兵たちが徘徊する音が地鳴りのように響き、鉄を擦り合わせたような耳障りな声が街中を満たしていた。


 その喧騒を背に、石段を駆け上がる二つの影があった。

 一人は背の曲がった老人。白い顎鬚を風に乱しながらも、瞳は鋼のように強靭だった。王都最後の鐘守、オルグである。

 もう一人は少年。まだ十六にも届かぬ若さを持つが、その表情は恐怖に塗りつぶされていた。レオン――鐘守の弟子であった。


 「はぁ、はぁっ……し、師匠、本当に鐘を……鳴らして……止まるんですか、あの……」

 荒い息の合間に漏れる声は震え、弱気に揺れていた。


 だがオルグは振り向かない。

 「鐘は祓いの始まりだ。止めることはできん。だが、抗うことはできる」

 その声音は、石よりも重く、しかし揺らぎのない響きを持っていた。


 石段を登るごとに、背後から押し寄せる靄の濃度は増していく。視界は紫に濁り、息をするたび肺を灼かれるように痛む。

 レオンの足は鉛のように重く、膝は笑っていた。それでも彼は師に続き、一段、一段と必死に足を運んだ。


 「……俺に、できるのか」

 かすれた呟きは靄に呑み込まれ、消えていった。


 「できるかどうかではない。やるのだ」

 オルグの答えは短く、刃のように鋭かった。

 その言葉に背を押され、少年は唇を噛んだ。


 鐘楼の最上段へ辿り着く。

 石壁を抜けると、そこにそびえ立つのは黒鉄の鐘だった。数百年の歴史を刻み、ひび割れた表面は鈍く光り、夜気の中で不気味に佇んでいる。王都を守り続けた最後の希望にして、同時に最も忌まわしい呪具でもあった。


 夜風が鐘楼を抜ける。

 靄が波のように押し寄せ、塔を包囲していく。骸兵の群れが石段を駆け上がり始めた音が、すぐ背後に迫っていた。


 「レオン。鐘を鳴らせ」

 オルグは短く命じ、両腕で構えた大槌を差し出した。

 柄杓のように大きなその槌は、鉄を削り出して作られた鐘守の象徴。何百年も鐘を打ち続けてきた重みを宿している。


 少年は両手で受け取った瞬間、息を呑んだ。

 ――重い。

 ただの鉄の重さではない。命の重さ。鐘守たちが払ってきた血と代償の記憶が、槌に宿っているように思えた。


 「師匠、もし俺が……」

 弱々しい言葉を遮るように、オルグは言う。

 「恐れるな。鐘の音はお前の声だ。命を懸けるとき、人は初めて自分の声を響かせる」


 レオンは震える手を押さえ、鐘の前に立った。

 街ではすでに、骸兵の群れが逃げ惑う人々を追い詰めている。剣戟の音、絶叫、骨の砕ける音。

 このままでは夜明けを待たずに王都は滅ぶ。


 少年は深く息を吸い込んだ。

 そして全てを振り絞るように、槌を振り下ろす。


 ――ゴォォォォンッ!


 天地を揺るがす轟音が夜空を貫いた。

 波紋のような光が鐘から溢れ、紫の靄を切り裂く。骸兵の群れは弾き飛ばされ、黒く濁った肉体が裂け、塵となって散っていった。


 鐘は鳴った。

 その音は紫の夜を裂き、王都を覆う死の帳に一条の光を刻み込んだ。


 だが同時に、鐘の音は彼に刻まれる。

 レオンの右腕に灼けるような痛みが走った。皮膚が焼け、紫色の紋が浮かび上がる。まるで鐘そのものが刻印を押し付けてくるかのように。


 「っぐ……あああっ!」

 少年は槌を取り落とし、膝をついた。

 腕に広がる紋様は紫に光り、まるで生き物のように蠢いている。


 オルグは黙って見つめていた。その表情は哀しみと誇りが入り混じり、深い影を落としていた。


 「それが……鐘の代償だ」


 鐘は確かに靄を払った。だがその代わり、レオンの魂に呪印を刻んだのだ。


 夜は、まだ終わらない。

 鐘の轟きが静まるよりも早く、街の彼方から再び靄が押し寄せてくる。骸兵の咆哮が重なり合い、鐘楼へと殺到していた。


 鐘は、始まりに過ぎなかった。

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