4話
夢を見ていた。
燃えさかる家。響き渡る家畜の悲鳴。焼け焦げた死体の臭い。喉を裂くような煙。連れて行かれる妹。そして、黒い鉄の騎士が、母を斬った――。
その光景が何度も脳裏をよぎるたびに、体が強張る。叫びたいのに声が出ない。逃げようとしても足が動かない。
――助けて。
かつての自分が叫んでいた。誰にも届かなかった声。あの日から、私の中にあった何かが壊れた。
家の瓦礫の隙間に身を潜める。熱い。息ができない。
黒い騎士の足音が、ぎしりと迫ってくる。
影が覆いかぶさり、視界が鉄の黒に塞がれた。剣が振り上げられる。
その瞬間――世界から、音が消えた。
燃え盛る炎が、音もなく潰れるように消え、すべては深い水の底へと飲み込まれていく。
足元から崩れる感覚。瓦礫も、家も、空も、音も。すべてが沈み、ただ沈黙と暗闇が広がる。
――ここは、どこ……?
息ができないはずなのに、肺は焼けるように苦しいのに、体は動かないまま沈んでいく。
黒い騎士の姿は、いつしか溶けるように形を失い、暗い水のなかで影と混じり合っていった。
……その時だった。
暗闇の奥から、何かが“ヌッ”と突き出るように現れた。
――ゴォォォ……ォォォ……。
低く、ひび割れたような音が響いた。クジラの遠鳴きに似ているが、それよりももっと軋み、擦れ合って砕けるような、耳ではなく骨に響く音。靴の底が悲鳴を上げているかのようだった。
白い。だが、ただの白ではない。深海で光を受けた透明な魚のように、形を保っているのに輪郭が曖昧で、目を逸らそうとしても視界に焼き付く。
透き通った巨大な体。ゆらめく触手の節々からは、七色の淡い光が時折きらめき、まるで海中を漂う星雲のようだった。
頭の奥がきしむ。吐き気がする。
その“白い何か”は、滑らかに水を切るように近づいてくる。
深海魚のような、頭の中に透けて見える球体の眼。
それがぎょろりと動き、私を覗いた。
『――見つけた』
唇は、渇いてた
鼓膜ではなく、脳に直接、鋭い針を刺すように言葉が響く。
動かない。体が。恐怖か、それとも抗えない圧力のせいか。
『流れは変わった。……欠けた心に、欠片が要る』
意味がわからない。だけど、その言葉は深く胸に刻まれていく。
白い影の手のようなものが、ゆらりと差し伸べられる。
触れた瞬間、胸が凍りついた。冷たい。
握らされるように、ざらついた感触が手のひらに乗った。
『そなたに託そう。……名もなき灯を。沈む者たちに、ただ一つの光を』
声が遠ざかる。
暗闇が、ぐらりと揺れた。世界そのものが海流に巻かれ、私を飲み込み、引き裂こうとする。
「ま、待って。ねえ、待ってよ‥‥‥」
ーーー
寒い――。
頬を刺す冷たさに、意識がかすかに浮かび上がる。
柔らかな白いシーツ、木の天井、ほの暗い光。剥き出しの本棚。どこかの小屋。身を起こそうとして、胸がずきりと痛む。腕も包帯だらけだ。喉が焼けるように渇いている。
手のひらには、まだ夢の中で握らされた“石”の感触が残っていた。
恐る恐る指を開く。
そこにあったのは、小さな布袋。ナナがいつも大事にしていた形見の袋だった。
震える手で紐を解き、中を覗く。
ころん、と掌に落ちたのは、みすぼらしい灰色の石。
「……これ、なに……?」
問いかけに応じるように、石はふいに光を放った。
青白く、透きとおるように――夜の海の底で輝くように、美しい光だった。
その光が消えたとき、現実の冷気が押し寄せる。頬を刺す寒さ。胸の痛み。身体の重み。
夢と現の境がにじんで、視界が揺らぐ。
だが、それよりも。
「……ナナ……」
かすれた声が、口から漏れる。声にならなかった。喉が焼けていた。塩気と血の味がする。目尻に、冷たい涙がにじんで頬を伝う。
身体を動かそうとしたが、指がかすかに痙攣するだけで、肩も背も胸も、鉛のように重い。
そのとき、扉が軋む音がした。
ギィ……と開いた木の戸から、老婆が姿を現した。
戸がゆっくりと開いた。
「ああ……目を覚ましたのね。よかった、よかった……」
入ってきたのは背の高い老婆。華奢で、灰色の髪を三つ編みにし、神官が着るような紫の法衣を纏い、薬草の匂いをまとっていた。手に持っていた木椀から、湯気が立ち上る。
老婆の声は、まるで乾いた布のようにやさしく、けれど、どこか儚い響きがあった。
私は、声を出す代わりにまばたきで答えた。
おかゆの匂いが、鼻の奥を刺激する。でも、体が動かない。腕を持ち上げようとしても、震えるだけで器に届かない。
「……食べさせてあげようね。ゆっくりでいいから……」
老婆はそっと椅子に座り、口元にスプーンを近づけた。抵抗する気力もなく、言われるままに口を開ける。
おいしい。おかゆの温もりが、喉を通り、胃に落ちた。ぬるいが、やさしい味だった。苦くて、塩っぽくて、でも体の奥に染み渡るような温もりがあった。
「ここ……どこ……?」
「ノルムって町の外だよ。海辺の村の者たちが、あなたを岸に打ち上げられてるのを見つけてね。あなたは昨日、浜辺に倒れてたの。体中傷だらけで、よく命があったもんだ」
「……ナナは……」
「え?」
「……一緒に、いた。ナナって、子が……ほかに、誰か……」
老婆は少し黙った。やがて、そっと言葉を探すように、言った。
「……ごめんなさいね。あなたのほかに、わたしのところに運ばれてきた子はいないの。でも、あの夜は混乱してたから……もしかしたら、どこか、別の場所に……」
その一言で、私はほんの少しだけ、息がしやすくなった気がした。
まだ、死んだとは決まっていない。
ナナは、もしかしたら生きているかもしれない。
その可能性だけで、私は、わずかな力を取り戻すことができた。
視界の隅の瞳がわずかに揺れた。
「……生きてる……かもしれないの……?」
老婆は小さく頷いた。
「あなたが一番軽傷だったらしいのよ。他の子らは別のとこで療養してるのかもしれないわねえ」
希望。わずかな光が、胸の奥に差し込んだ。
そのときだった。
扉の向こうから、金属の靴音が響いた。
コン……コン……と一定のリズムで、硬質な音が近づいてくる。私は反射的に布団を握りしめ、震えた。
なぜか分からない。ただ、直感的に恐ろしかった。あの音。あの気配。あの質量。
「シェナ殿、様子はどうか」
低い男の声。それだけで、背筋に冷たいものが走る。
老婆が戸を開けた瞬間、視界に映ったのは、重々しく漆黒の金属鎧の男だった。鎧の隙間から覗く布も、兜も、全てがあの“騎士”だった。
――あの日、母を斬った“それ”と、重なった。
「っ……っっ……!」
喉から悲鳴が漏れるより早く、手に触れた陶器の器を掴んで、騎士へと投げつけた。
ガン、と鈍い音を立てて器が鎧にぶつかる。
私は叫んでいた。
頭が割れそうに熱い。視界が揺れた。来る。来る。あの夜の――。
――家が燃えていた。母が、兄が、血まみれで倒れていた。父は斬られていた。妹は……奴らに犯されていた。悲鳴を上げる妹を尻目に、男たちが妹を囲む。
その中心に、あの男がいた。
「うああああああああああああッ!!」
「殺す気なんでしょッ!! あのときみたいに……!!」
私は枕を掴んで投げた。食器を投げた。身を起こすことすらままならぬまま、腕を振り上げた。喉が裂けるほど叫び、涙が勝手にあふれて止まらなかった。
「出てけ!! 出てけ!! 化け物!! お前らが、全部、お前らが……!!」
騎士は、何も言わなかった。
無言で、何かを見ているだけだった。視線さえも感じなかった。
それが余計に怖かった。悲鳴。震え。全身から噴き出す汗。
老婆があわてて私を押さえる。
「ど、どうしたんの、 この人は、あなたをここまで運んできた人だよ!」
「うそ……うそだ……騎士は……皆……」
「……無事でなによりだ。医者に薬を頼んでおく。シェナ殿それでは」
騎士が兜の下から低く、静かに言う。だが、耳には届かない。視線を合わせることすらできず、悔しくて布団の中で身を丸める。
そのまま、騎士は静かに礼をして、戸の向こうへと去っていった。
残された静寂の中、シェナがそっと背を撫でた。
「怖かったね。でも、もう大丈夫だよ。ここには、誰もあなたを傷つける人はいないよ」
「……わたし……助けられなかった……家族を……」
「あなたは十分、頑張ったよ。あんな嵐の中、生きて帰っただけでも、奇跡だよ」
そう言って、シェナが私の身体を押さえた。泣き叫ぶ私の頭を抱き、ゆっくりと、何度も何度も背中をさすってくれた。
やがて、私は泣き疲れて眠るように、再び意識を手放した――。