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1話

 その日も、海は臭かった。


汗と鉄、そして吐瀉物と血の匂いが混じった、腐った腹の底のような匂いだった。


 鉄の格子と鎖、擦れ合う鉄環の音だけが、鈍く耳の奥を打ちつける。昼も夜もない世界。天井の小さな格子窓から、一筋だけ差し込む青白い光が、まるでこの世界に残された最後の正気のように、檻の床をかすめていた。


 その中で、私は膝を抱えていた。


 白銀の髪は脂と塩でくしゃくしゃになり、猫耳は萎れて、風のない空気の中に静かに垂れていた。かつて、母がやさしく撫でてくれた耳――今は、触れられるだけで恐怖が走る。首の後ろには、奴隷市場で焼かれた烙印――今は黒ずんでかさぶたになっていたが、それを見るたび、男たちは、それを見るたびに、口元を歪めて笑った。あの顔を見たくなかった。目を合わせるのも、もう嫌だった。


「おまえ、また買い主に噛みついたんだってな。舞い戻ってきたのか。はっ、今度は売れ残っちまうな。」

「獣人は人気ねえしな。顔は良くても、においがきついから娼館にも売り飛ばせねえって、うちの大将がぼやいてたぜ」

「いや、闘技場の獣枠ならいけるんじゃねえか? 最近は獣人の剣闘士が流行っているらしいぞ」

「そりゃ、いい。売れなかったら、そこらへんの魚の餌にでもしてやるよ。」

 

そう言われても、返す言葉はなかった。前の買い主は下劣で、愚かで、獣より汚かった。女中に手を出し、平然と人を殴った。不法に奴隷を買っていることが役人にばれて、一族もろとも処刑されたのが幸いだった。


 それに……あいつらの顔が、同じだった。

 あの時、家を焼いた奴ら。家族を殺した騎士連中。

 その顔に、欲望に走るやつらに似ていた。


 だから噛みついた。噛みついて、殴られて、蹴られて、またここへ戻された。生きてたのが不思議なくらいだ。


 痛みにも、屈辱にも、身体は慣れた。怖がるのも、泣くのも、もう忘れた。

 目を閉じて、心を止める。

 そうすれば、少しだけ楽になる。

 何も感じなければ、何も壊れない。もう、喉が枯れた。

 感情を見せても、言葉を発しても、何も変わらない。黙って、動かない。それがいちばん安全だった。

 たぶん、きっと。


「おーい、そこの猫ちゃん。今日のごはん、分けてあげよっか?」


 突然呼びかける声がした。

 乾いた声の主は、いつの間にか隣の格子に座り込んでいた少女だった。


 黒い髪は煤けてぼさぼさ。頬もこけ、骨ばっていたが、笑っていた。異様なほどに。

 小さな手のひらに乗っているのは、干からびた干し魚のかけら。


「いらない」


「そっか。でも、話くらいはしてもいいでしょ?あたし、暇でさ…」


 無視してやった。だが少女は、それでも話しかけてきた。


「あ、あたしナナ。あなたは?」


「…………」


「名前ないの?」


「……………………………………ルミア」


「ふふん。ちゃんと話せるじゃない。じゃあルミア、知ってる? この船、今どこに向かってると思う?」


「知らないし、興味ない」


「あたし、星座で方角がわかるんだ。お父さんが船乗りで、たまに家に帰ってきたときによく教えてくれたの。それでさ、「黄金の路」ていう話を聞かせてくれたの。ずっと南の海域に行ったら、海の底に沈んだ黄金の都があるんだって。王様もお姫さまもみんな金の仮面をかぶって、踊ってるんだよ」


「……なにその話?」


「ほんとだよ。月が両方新月になると、海に光の道が浮かぶんだって。その道を進んだ船だけが、黄金の都に辿り着けるの。お父さんが教えてくれたんだ。」


 なに言っているの、と言いかけてやめた。


 詰め寄ってくるナナの目は、本気だった。


「あたしね、自由になって、その都を探しに行くの。そして、そのお金ででっかいお城建てて、たくさんのメイドさんや騎士さんに囲まれながら、かっこいい王子様にゲットされるの。あなたも、落ち込んじゃダメよ。あっ、そうだ。」

  

ナナは立ち上がって、手を広げる

 「あなたも、一緒になろう。お姫様に!」


「……馬鹿馬鹿しい」


 自分の声は低かった。


「誰も助けに来ない。逃げたって殺される。夢見てる暇なんてない」


「それでも……」


 ナナは言った。


「本気でそう思わなきゃ、きっと全部が本当になくなっちゃうでしょ?」



 こいつ、イカれてる


 そう思った。最初は。ただそれだけだった。


 この牢の中で、笑うなんて。王子が迎えにくる…?。バカじゃん、こいつ。助かる保証もないくせに。自分の運命を変えられると思い込んでるなんて。バカじゃない、こいつ。


――愚かで、滑稽で、現実を知らないだけ。


 だけど、胸の奥が、ざらりと波立った。


 “黄金の都”?”姫になれ”?


 そんなの、どうせこいつと船乗りたちのつまらないホラ話だ。都合よく夢を見て、自分の惨めさを忘れてるだけ。


 そう、忘れてるだけ……でも。


 忘れようとすらしなくなった自分とは違う。


 もしかしたら、その「忘れようとする力」すら――もう、自分には残ってないのかもしれない。


 ナナの言葉が、空気の隙間から染み込んでくる。


 「本気でそう思わなきゃ、きっと全部が本当になくなっちゃうでしょ?」


 全部が――なくなる?


 そんなの、とっくになくなったよ。


 家族も、生まれた故郷も。誰かに何かを期待することも、明日を信じることも。



 その思い込むことで、かろうじて生き延びてきた自分に。


 感情を持てば、裏切られる。あいつみたいに、みんなが裏切るんだ。夢を見れば、また地獄に突き落とされる。だから、自分で心を鎖で縛ってきた。何も感じないように。何も求めないように。


 ……それが「強さ」だと思っていた。


 でも今――ナナの真っすぐなまなざしの奥に、なぜだか自分にはもうない「何か」が見えた気がした。


 まぶしい。


 その言葉が浮かんで、ぞっとした。


 羨ましいなんて、思ってはいけない。あんな馬鹿みたいな希望に、心を動かされてはいけない。もう、何も信じないって決めたはずなのに。


 それでも。


 ほんの少しだけ。ほんの一瞬だけ。


「い、いや」

そっぽを向く


「どうせ、何も変わらない。どこに行っても、私は変われはしないんだ。」


そう言い切った自分の声が、やけに乾いて聞こえた。


 ナナは少しだけ俯き、何か言いかけて、やめた。

 そして、囁くように言った。


「‥‥そう。じゃあこの話は、忘れて」

「……」


 その声は、静かで、やさしくて――けれど、どこかに悲しさが滲んでいた。


 返事はしなかった。ただ目を伏せて、腕に顔をうずめた。


 あんな話、信じられるわけない)


 でも、心のどこかが、ずっとざわついていた。


ーーー


夜は静かだった。


 姉妹月が雲の切れ間から顔を覗かせ、波は穏やかにうねっていた。


船体はゆっくりと軋み、薄い光が天井の格子から檻の床に滲む。そのわずかな明かりの下、奴隷たちはぐったりと横たわっていた。

 

誰も喋らず、誰も夢を見ず、ただ浅い呼吸が虚空に響く。


 生きているのか、死んでいるのか――その境界すら曖昧な、静けさ。


 その中で、ナナは目を開けていた。


 薄明かりの中で、彼女の瞳は異様なほど澄んでいた。

 怯えているようでもなく、諦めてもいない。むしろ、何かを見据えている。


 ナナは、目を覚ましていた。私も眠れていなかった。


「今夜が、チャンスだと思う」


 声は、鋭く、空気を切るようだった。


 ゆっくり顔を上げた。眠っていたわけじゃない。ただ、目を閉じていただけ。

 その言葉に反応してしまった自分が、少しだけ悔しい。


「……チャンス?」


「今夜、嵐が来るよ」

ナナは、まっすぐに私を見ていた。

 笑っていなかった。青い瞳が額を貫く。


「どうしてわかるの?」


 思わず問い返すと、ナナはふっと目を細めた。


「……石が言ってる気がするんだ」


「……石?」


 ナナは小さくうなずき、胸もとを押さえ、小さな袋を握った。


「この石がざわついてるの。お父さんは昔、嵐の夜になるとよく触ってて……たぶん、同じことを感じてたんだと思う」


 その言葉を聞いた瞬間、耳にも、確かに違和感が届いた。


 静かすぎる――そう思っていたのは、自分も同じだった。


「あの太った見張りの船員、今日は一人で、しかも酒くさい。鍵も腰にぶら下げたまま。もし今、わたしがそいつに気を引いて、その隙にあなたが鍵を盗れたら……」


「やめて」


 即座に遮った。


「無理よ。どうせ、あんたも殺される。希望なんて持つだけ無駄」


「……でもルミア、あなた、本当は逃げたいでしょ?」


「違う!」


 思わず声が上ずった。自分でも驚くほどに。


「逃げたいんじゃない……もう、何も、信じたくないの。裏切られるのも、無力な自分を見るのも、もううんざりなのよ!」


 ナナは、しばし黙っていた。


 やがて、静かに言った。


「……家族のこと、覚えてる?」


 息を呑んだ。


「……兄と妹がいたの。小さな街だったけど、父さんと母さんとおばあちゃん、6人で暮らしてた。でも、兵士が、あいつが裏切って……燃やされた」


 言葉にすると、それが現実味を帯びて蘇る。


「家族を……目の前で切られたの。わたし、何もできなかった。足が、動かなかったの。怖くて」


 その時の記憶が、脳裏を裂くようによみがえった。

 煙、焼け焦げた髪のにおい、逃げるように走る馬のひづめ、鎖の音。

 血を流す父、倒れた母、血まみれの兄の顔。連れてかれる妹、動かない祖母の伸ばした手。

 

膝に顔を埋める。


「だから、夢なんて……もう見たくない。どうせ、何も変わらない」


 ナナは、そっと隣に手を伸ばし、ルミアの肩に触れた。


「ねえ、でも変わりたいって思ったんでしょ? その気持ちがあるなら。自分の船は、自分で出さなきゃ。自由に行ける海なんて、待ってたって来ない。まだ生きてるんだよ、ルミア」


 ナナはその手を、しっかりと掴む。かすかに震えていた。


 それでも――温かかった。


 初めてだった。こんなにも、まっすぐに誰かに言葉をかけられたのは。



 船の軋む音。波のゆりかご。その中で、ナナの言葉だけが、頭の中を何度も反響した。


 “まだ生きてるんだよ”


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