11話
――暗闇に落ちていく。
叫ぶ暇もなく、冷たい風が体をさらっていく。
重力に引き落とされる感覚と、耳の奥で響く低い轟音。
地面に突き当たった衝撃で、肺の中の空気が押し出され、喉が詰まった。
「っ……はぁ、はぁ……」
四肢を無理やり動かし、湿った地面に手をつく。
冷たい。砂ではなく、岩。
それもただの岩ではなく、ぬめりを帯びて、皮膚のように柔らかい。
「……っ!」
触れた手を慌てて離す。
掌にべっとりとした赤黒い液がついていた。
血の匂いが鼻を突き、痛み共に吐き気がこみ上げる。
ここはどこなのか。
岩壁に囲まれた空洞――シェナが魔法で開いた穴の先。
鼓動が聞こえる。壁から。地面から。
世界そのものが、生き物の体内のように蠢いていた。
(ここ……どこ?……)
思考がまとまらない。頭の中で波音が渦巻き、シェナの叫びがよみがえる。
――行きなさい! あの騎士を見つけるの!
「……シェナ……」
声にした途端、胸が締め付けられた。
彼女は戦っている。
あの魔女と、怪物となったツナとシャミと共に。
私は逃げた。逃がされた。
無能。
役立たず。
穀潰し。
奴隷だった頃に浴びせられた罵声が、頭の中でこだまする。
「また……何もできないの?」
「また……みんなを見捨てるの?」
洞窟の奥へ足を踏み出す。
靴底がぐちゅりと鳴り、血肉を踏んだかのような生臭さが鼻を満たす。
湿った壁には脈打つ筋が走り、赤黒い液を脈々と流している。
冷たい滴が頭上から落ち、首筋を伝うたび、全身が震えた。
(ナナ……)
光景が甦る。
縋ってきた彼女の手を、掴めなかったあの日。
気付けば彼女は崩れ落ち、二度と起き上がらなかった。
(あのときと同じ……私、また……)
胸の奥がじりじりと焼け、怒りとも恐怖ともつかぬ熱が広がる。
シェナが言った。「信じている」と。
あの人は、あの一瞬、自分を受け入れてくれたのに――。
「なのに……どうして……!」
足音が虚しく反響する。
やがて、暗闇の奥でひとひらの光が揺れた。
白い花だった。
洞窟の闇に浮かぶように咲いている。
白星花――ユルナ。
淡く透ける花弁は、夜空の星をすくい取ったように儚く、
風に散れば二度と戻らない美しさを帯びていた。
(……きれい……)
吸い寄せられるように近づく。
力なく膝をつき、花の隣に身を横たえる。
家族の顔が浮かぶ。
騎士に斬り殺された父。泣き叫んで倒れた母。怯えた兄の目。
祖母が庇ってくれた手の温もり。
小さな妹の瞳――血に濡れ、動かなくなった。
自分は瓦礫に隠れて震えることしかできなかった。
「……シェナに……ユルナを渡したかったのに……」
小さく呟いた声は、すぐに洞窟に飲まれた。
まぶたが重い。
吐き気に耐え切れず、視界が揺れる。
壁の鼓動と、自分の心臓の鼓動が重なり、耳鳴りのように頭を叩く。
(もう……いい……)
安堵のような諦めが、胸に広がる。
終わってしまえば楽になれる。
誰にも罵られず、誰も失わずにすむ。
だが――その時。
洞窟の奥に、かすかな足音が響いた。
カツン……カツン……。
重い鉄を引きずるような音。
「……っ」
息を呑む。
暗闇の向こう、壁の鼓動に溶け込むようにして、黒い影が現れた。
鎧。
漆黒の鎧を纏った騎士。――。
「……ギ……ギル……」
目が離せなかった。
取り逃がした自分を追って、殺しに来たのか。
それとも、ただの幻か。
恐怖に心が震えた。
だが同時に、なぜか胸の奥で、奇妙な安堵が芽生える。
(これで……終われる……)
黒い影が、ゆっくりと近づいてくる。
膝から崩れ落ちる感覚とともに、視界が白くかすんでいった。
「……もう……いいよ……」
小さな声を最後に、意識は暗闇へと沈んだ。
ーーー
目が覚めた。
湿った息が肺を満たす。
どこか遠くで、水が滴る音がした。ひとしずく、またひとしずく。
天井の割れ目から差し込む光が、洞窟の暗がりを斑に照らしている。
その光は冷たく白く、霧の粒を通してゆらぎながら、石壁に薄い虹を散らしていた。
身体を起こすと、腰に触れたのは粗い麻布の感触だった。
簡素な布団が岩の上に敷かれており、その端には乾いた草が詰められている。
どうやら、誰かが自分をここへ運び、休ませたらしい。
周囲を見渡すと、壁際に古びた壺がいくつか置かれている。
藍色の釉薬が剥げ、長い年月を経たような姿。
中には干し肉や穀粒らしきものが見えた。
だが、それよりも――鼻を突いたのは、あたたかい香りだった。
……香ばしい匂い。
焚き火の煙に混じって、肉と野菜を煮込む甘い香りが漂っている。
思わず腹が鳴った。
火の方へとふらつく足で進むと、岩場のくぼみに組まれた小さな焚き火が見えた。
その上では黒い鍋がことことと音を立て、湯気をゆらめかせている。
木の杓文字を取り、蓋を開ける。
ふわりと立ちのぼる湯気の中に、淡い香草の匂いと煮崩れた根菜、
柔らかく煮込まれた獣肉が見えた。
――一瞬、胸が痛む。
シェナと並んで火を囲み、笑いながら鍋をかき混ぜた夜があった。
鍋を焦がしてしまい、へこんでいたことを思い出す。
そのぬくもりが一瞬、手の中に戻ってきた気がして、
すぐに、また静かに消えた。
木椀を取り、夢中で掬って口に運ぶ。
塩気が舌に触れた瞬間、
身体の奥に、温かい血が少しずつ流れ出すような感覚が広がった。
「熱い・・・」。
けれど、確かにおいしい味だった。
洞窟の奥では、火の音だけが穏やかに弾けていた。
その音を聴きながら、何度も、何度も、匙を口に運び続けた。
鍋の底が見え始めたころだった。
一息つき、空の椀を見下ろしていると――背後から、かすかな足音がした。
硬い靴底が石を踏む音。
反射的に振り向くと、洞窟の入口に黒い影が立っていた。
黒鉄の鎧に包まれた大柄な騎士。
頭には兜――光を弾く無機質な面頬。
身じろぎもせず、ただ静かに私を見下ろす。
背に差した大剣が、わずかに光を反射した。
風はないのに、マントがわずかに揺れる。
――動けない。
息が詰まる。
咄嗟に目を走らせ、武器を探す。
短剣は見当たらない。近くにあった木椀を掴み、投げつける構えを取る。
鍋がこつりと落ちた。
「……なに、あんた……っ」
影は、焚火の明かりにゆっくりと歩み出た。
鎧の継ぎ目から、微かに白い蒸気が漏れている。
声は、低く、くぐもっていた。
「……食っていたのは、お前か」
焚火の光が、鎧の腹部に映った――空の鍋が一つ。
「……っ、ご、ごめん。知らなかったの……」
木椀を構えた手が震える。
返ってくる言葉を恐れて、息を詰めたまま動けない。
鎧は黙ってしばらく私を見下ろしていた。
やがて、金属の喉の奥で小さな音が鳴った。
「……腹が減っていたのだろう」
「え……?」
「食え。……毒ではない」
その音色はくぐもっていたが、張りがあった。
焚き火が、ぱち、と小さく弾けた。
白い湯気が二人の間を漂い、しばしの沈黙が流れる。
鎧の男は動かない。まるで、ここに立つことすら呼吸の一部であるかのように静止していた。
それでも、確かに見ている――兜の奥の、闇の奥から。
喉が息を鳴らす。
声を出せば、すべてが弾きれそうだった。
それでも、息を吸い込み、絞り出すように言葉を吐いた。
「……あんた、誰。……ここ、どこなの?」
鎧の喉が、微かに軋んだ。
それが息なのか、ため息なのかもわからない。




