10話
少しずつ修正します。
波が遠のいたように感じられた。
砂の上で両手を握りしめ、シェナの横顔を凝視する。
「……知ってた? 私がここに流れ着くことを?」
問い返した声は、思ったよりもかすれていた。
シェナは唇を結び、砂浜に視線を落としたまま動かない。
「どういう……ことなの」
「――夢を見たのです」
シェナの声は小さく震えていた。
「この浜辺に、波に打ち上げられるあなたの姿を。まだ名も知らない少女が、冷たい水に濡れ、必死に呼吸を求めて――」
背筋を冷たいものが走った。
「ただの夢だと、そう思おうとしました。でも……現実は違った。数日後、私は本当にあなたを見つけた。夢は、現実でした」
彼女の指が胸元のペンダントを握り締める。銀の鎖が月光のように淡く揺れた。
「このペンダントは、私の一族にだけ伝わるものです。ですが……未来を変えることはできません。私が見たものは、必ず訪れてしまうにです」
胸がぎゅっと締め付けられる。
「じゃあ……シェナは、ずっと私のことを……?」
「はい。けれど、どのような存在としてあなたが現れるのかは、夢だけではわからなかった。だから……昨日の騎士のことも、真実を隠しました。私が見た未来の断片に、その方も……関わっていたからです」
耳の奥で、波の音が不気味に膨らんでいく。
胸の奥で、焦げ付くような疑念と恐怖が絡みつく。
「……どうして黙ってたの」
「伝えることが、あなたを縛ることになると思ったからです」
シェナは顔を上げた。
淡い青の瞳に、揺れる迷いと決意が宿っていた。
「ルミア。未来を知っても、人はその鎖から逃れられない。だから私は、せめてあなたが自由を持てるようにしたかった。……けれど、それは甘えだったのかもしれません」
唇を噛んだ。
頭の中で言葉がぐるぐると渦巻く。
(自由? そんな資格なんて。私には、何も……)
砂浜の端で、先ほどの小さなウミガメが必死に波へと身を滑らせていた。
背後から吹いた潮風が、頬を冷たく撫でる。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「……シェナの見た未来に……私が生きてるってことは、死んでないってことだよね」
シェナははっと目を見開く。
笑えなかった。ただ、乾いた声で続ける。
「だったら……それでいい」
そして立ち上がると、砂を払ってシェナを振り返る。
「未来がどうとか、夢がどうとか……そんなのどうでもいい。私は、今を歩くだけだから」
そう言ったあと、私は一度深く息を吸い、迷いながらも手を伸ばした。
ナナの袋の底から取り出した布包み。中に収められた石を、シェナに差し出す。
「……私からも、話しておかなきゃいけないことがあるの」
包みを解くと、石は日光を受けて微かに光を返した。
冷たい輝きが、砂浜に影を揺らす。
「夢で……白い誰かから渡されたの。最初はただの夢だと思った。でも気がついたら、ナナの袋の中に入ってて……」
シェナの瞳が石を映した瞬間、その表情に緊張が走った。
普段は揺らがないはずの声が、低く震える。
「……どうして、それをあなたが……」
「知ってるの?」
私の問いかけに、シェナは苦く唇を噛み、数秒の沈黙のあと言葉を落とした。
「……それは鍵箱舟を呼ぶための。きっと近いうちに、それを欲する者たちが現れるでしょうだから、必ず狙われます。あなたごと」
心臓が跳ねた。
狙われる? 私が? どうして――。
「なぜ私なんかが……」
シェナは首を振るだけで答えなかった。
私はただ石を見つめ、その眼差しに迷いと決意を交錯させていた。
不安と疑念が胸を締め付ける。未来を知る夢。狙われる石。私の知らない何かが、確実に近づいてきている。
――そのときだった。
頭上を旋回していたツナとシャミが甲高い鳴き声を上げた。
「……!」
顔を上げると、入江の外側、岩陰の森の方に黒い影が揺れた。
砂を這いよる音。
海風が、再び強く吹き荒んだ。
海風がざわめき、潮の匂いに鉄のような冷たい匂いが混じった。
ツナとシャミが鋭く啼き、羽音を荒々しく響かせる。
次の瞬間、砂浜の岩陰から黒い影が溢れ出した。
水に溶けた墨のように、地面から染み出しては波打つ。足元を濡らす潮と混じり合い、黒はやがて形を与えられていく。
――女。
真昼の光の下にあってなお、闇のように深い衣を纏った女が立っていた。
声は、落ち着いた
「……ずいぶんと、手間をかけさせるのね。シェナ」
落ち着いた女の声。ゆるやかに笑んでいるようでいて、琥珀色の瞳の奥は氷のように冷たい。
「……マルグレア」
シェナが吐き出した名に、胸が跳ねた。
その声音は、どこか、長く刻まれた痛みを抉る響きだった。
女――マルグレアは緩やかに歩み出す。砂浜を踏みしめるたび、足元から黒い波がじわじわと広がっていった。
「どうしてここが・・・」
「迎えに来たの。もう十分でしょう? あなたのわがままには、みんなうんざりしているの。」
わからない。迎えに来た? わがまま?
シェナはマルグレアの手を拒むように、一歩退いた。
「私は……戻らない。あの檻に、二度と」
シェナはマントを翻し、両手を広げた。
空を旋回していたツナとシャミが一斉に鳴き声をあげ、急降下して彼女の周囲に舞い降りる。
「檻ですって?」
マルグレアは柔らかく微笑む。その微笑みが、かえって背筋を凍らせる。
「違うわ、シェナ。あそこはあなたの居場所。あなたを生み、あなたを育てた力の根。……外の空気を吸って、ほんの少し自由を味わったからといって、すべてを否定するなんて、あまりに子供じみているわ」
「違う。
「人間の真似事をして、何か救えたのかしら? 結局は無駄。――さあ、帰りましょう」
シェナは答えず、小さく指を組んで魔術式を編む。
「目覚めよ」
二羽の小さな烏は、次の瞬間、魔力の奔流に包まれた。
白い烏――ツナの体が弾け、翼が巨大に裂けていく。羽毛が光を帯び、矢のように鋭い結晶片を散らしながら広がった。数秒で人を覆うほどの巨鳥へと変貌し、口の奥から熱を帯びた光が漏れる。
黒い烏――シャミは逆に、全身が墨を流すように溶け、肉体が鎖のようにうねりながら形を変える。足は鉤爪に伸び、くちばしは歪んで刃のようになり、低く獣じみた唸りをあげた。地を走り、影のように迫る姿はまるで魔獣そのものだった。
シェナの髪が淡く光を帯び、頬の皺がするすると消えていく。
肌は白磁のように滑らかに、瞳は少女のように透きとおった琥珀色の輝きを取り戻す。
魔力に身を焦がすようにして、彼女は若返っていた
「シェナ……?」
呼びかけた声に、彼女は一瞬だけ振り返る。
そこにいたのは、昨日までの穏やかな街の僧侶ではなく、戦場に立つ精霊のような女だった。
「ルミア。あなたは――逃げなさい」
言葉を失った。
その言葉に、胸がざわめいた。
逃げる? 今ここで? シェナを置いて?
マルグレアが笑う。
「無駄よ。あなた一人ではどうにもならないわ」
シェナは片手を振り上げた。ツナが天空から光の矢を放ち、シャミが影となって走る。
黒と白、二匹の怪物は主の命令に従い、闇を裂いてマルグレアに襲いかかった。
轟音。
砂浜が砕け、光と闇が激しくぶつかり合う。
思わず耳を塞いだ。
目の前で繰り広げられるのは、人と人の戦いではなかった。
怪物と魔女、力と力の衝突。
「ルミア!」
その混乱の中、シェナの声が届く。
振り返ると、砂浜の岩壁に黒い穴が開いていた。
魔法で穿たれた口。
「ここから行きなさい! あなたは……あの騎士を…彼らを見つけるの!」
「でも――!」
叫ぶルミアに、シェナはわずかに微笑む。
若返ったその顔は、少女のように鮮やかで、どこか懐かしさすら帯びていた。
「……短い間だったけど、楽しかったわ」
その一言に、喉が詰まる。
マルグレアが冷笑を響かせ、黒い裾を翻した。
砂浜にさらに影が溢れ、ツナとシャミが応戦する。
シェナは振り向きざま、魔力でルミアの体を押し出した。
「行きなさい!」
強い力に突き飛ばされるように、私は穴の中へ吸い込まれる。
視界がぐらぐらと揺れ、潮の匂いが遠のく。
最後に見えたのは、光を宿したツナの翼、そして影と化したシャミの爪。
その狭間で、凛と立つシェナの背中だった。
――暗闇。
冷たい風が吹き抜ける洞窟の気配が、私を包み込んだ。




