笑った赤鬼④
空間をも裂く雷の力で人間界へと飛んだシキと違い、俺がアヴィルドへ向かうには時間を要した。気絶したアスイールを叩き起こして人間界への転移門を開かせ、持ち前の察知力で目覚めたキティリアを連れて赤い門へと飛び込む。
視界を占めるのは、人間界を象徴する青空。
しかし眼下に広がったのは、その色とは反対の──。
「なによ、あれ……」
高い防壁に囲まれた王都は、炎と黒煙によって塗りつぶされていた。ほとんどの建物は倒壊し、大きな音を上げて炭へと転じる最中だ。しかしこれだけの惨状だというのに、逃げ惑う者の姿は魔族の目でも発見できない。
大通りに降り立ち、俺たちは黒焦げになった都を見回した。
「誰もいないだと。まさか全員、すでに都の外に退避しているのか」
「違うな……。確かにここにはさっきまで、たくさんの奴らが生活していた」
アスイールが、石畳の上に転がっていた木の籠を持ち上げる。中に入っているのは、酒や果実などの人間たちの食材。同じような荷物がそこかしこに転がっている。
「ルーワイ様の魔王術、『闇呑み』。闇に触れた生命をすべて亜空間へと引き摺り込む、人間には不可避の術だ」
「じゃあ、アイツがもう襲った後なの!? どこに──」
「静かにしろ!」
魔術師がするどく言い放つと同時、突如耳が遠くなったような感覚に襲われる。目をよく凝らさないと視えないが、薄い布のような膜──存在を隠匿する魔術だろう──が俺たちを覆っていた。口の前で人差し指を立てたアスイールが、そのまま空の一点を指す。
「ほほォ、最後の力を使って王や要人を逃したか。なかなかの忠誠心であるな、『勇者』とやら」
街から続く坂の上、おそらく城があっただろう場所の上空。そこに、いつ目にしても怖気が走るほど濃厚な魔力をまとった存在が浮いていた。相対するのは、光り輝く大剣を構えた人間の若者だ。
傷の深さから、若者の命がもう長くないことは明らかだった。しかしその蒼い瞳には強い炎が燃えている。
「魔族の王よ……! このような蹂躙を平気でやってのけるとは、貴様やはり心を持たぬ存在かッ!」
その問いかけに冷笑を返したのはもちろん、我らが将──ルーワイだ。
「貴様らこそ、コソコソ集まって魔族を皆殺しにする計画を話し合っていたのであろう? 心とやらが在るのであれば、その胸を裂いて取り出して見せよ」
太い褐色の首をゴキリと鳴らす偉丈夫の身体には、煤汚れひとつ付いていない。王都は魔族の中でも規格外であるこの男の襲撃に、為す術もなかったのだろう。
「分かっておるのか? 貴様は尻尾を巻いて逃げ出した犬どもの尻拭いとして死ぬのだぞ」
「僕は人間を守るために生まれし者だ。都は破壊されたが、人の心は挫けない。さらに腕を磨いた次の『勇者』が、必ず貴様の首を取る──何代かかろうとな!」
焼けていない片腕で剣を突き出す若者を眺め、ルーワイはフッと牙を覗かせた。
「面白い。貴様、名をなんと言う。我の記憶の隅に置いてやろうぞ」
「……蹂躙者に名乗る名などない。僕は『勇者』だ」
「──まこと、哀れよな」
魔王が一瞬見せたその顔は、俺がはじめて目にするものだった。人間に対し慈悲などないはずの男がなぜ、と俺が考えた刹那の間に『勇者』の身体が四散する。
『移動するらしい。尾けるぞ』
存在を隠したまま、俺たちは飛行する王を追う。奴が向かったのは国の城壁近く、城の付近とは違い小さな家々が並ぶ区画の中だった。もともと造りが粗末なのだろう、ほとんどの家はすでに炭の塊に成り果てている。
「わあああん!」
「!」
当然誰もいないと思っていた路地に童の泣き声が満ちていることに気づき、俺は目を丸くした。そしてその小さな人間たちが取り囲んでいる、大きな影──その髪が、薄汚れた緑色をしていることにも。
『シキッ!!』
『待てッ! ルーワイが上空にいる。派手な行動を取れば、術が見抜かれるぜ』
飛び出そうとしたキティリアの腕を掴み、アスイールが制止する。俺は殺気を出さぬようにしつつ、刀を抜いて荒事に備えた。
「先生、せんせえっ……!」
「しっかりして」
土の上に倒れているシキは、かつて俺が魔王に敗北した時と同じように深く傷ついている。しかし交戦の結果というよりは、身体のあらゆる部分を綺麗に『失って』いるように見えた。
「我の『闇呑み』から逃れた命の気配を追って、赴いてみれば……お前の仕業か、シキよ」
「はは……見つかっちゃった、か……」
宙から降りてきた魔族の男を見上げ、シキを囲んでいた四人の子供達が一斉に立ち上がる。皆身なりは貧しく、地位の低い人間の仔なのだとわかった。
「あ、あっち行け!」
「先生にさわったら、許さないぞ」
「……童らよ。其奴の正体を知っておるのか」
冷めた声での問いかけに身を縮こませた童たちだったが、一人がシキの傍に膝をついて言った。
「知らなかったよ、魔族だったなんて。いつもボロいローブを着てたから。でも先生は時々ふらっとここへやってきて、オレたちに字や数を教えてくれるんだ」
「今日は教えてくれなかったの。だいじな用事があるからって……でも、お前がやってきて、アヴィルドのみんなが消えた!」
キッと向けられたまなざしだが、当然魔王たる男が震え上がるわけもない。童たちのひとりがシキの長い髪に顔を埋め、咽び泣いた。
「じっ、地面から出てきた黒いカゲからぼくらを庇って、先生は……!」
「こわい思いをさせて、ごめんよ……。さあ、もう行くんだ。みんなで知恵を出せば、少しの仕事はできるだろう」
「先生っ!?」
シキが指を鳴らすと、童たちの身体が光に包まれ消えた。ルーワイは黒い衣の腕を組み、四天王の長を見下ろす。
「他の町へ送ったか。あの者らはいずれ、打倒魔族を掲げる軍勢の筆頭になるやもしれぬぞ」
「もしかしたら……人と魔族との架け橋になるかも、しれないよ……」
「無駄な願いよな。なぜお前はいつも現実を見ぬのだ。我の魔王術に触れて、無事で済むはずがなかろう」
「いいや、今日はおれの……晴れの日だよ。君の、華麗なる大戦の幕開けに……泥を塗ってやったん、だから」
シキは誰に対しても砕けた調子の男だが、まさか魔王に対してもその姿勢を崩さないとは恐れ入る。いや、そういえば俺と出会った頃からすでにその気はあった。四天王として発言するときには体裁上畏まるが、あの男は誰よりもよくルーワイという存在を知っているのだろう。
「君こそ、そろそろ前に進むべきじゃない、かい……。ルーワイ」
「……」
俺たちは隠匿魔術の中、固唾を吞んでそのやりとりを見つめた。正確には、踏み入れなかった。一歩でも動けば微塵にされそうな緊張感と殺気。しかしその合間を澱のように漂うのは、たしかな親愛の気配だった。
「君が何を手に入れ、失い……滅ぼそうとも。『彼女』は、帰ってこない」
「誰に向かって説いておる。千年経とうが薄まらぬ貴様のその『キョーシ』面とやらにはいい加減、吐き気がするわ」
「あはは……」
俺よりもさらに長生きしている確信はあったが、千年とは魔族であれ長命だ。ルーワイが強者として名を馳せる以前の様子も知っているのだろう。
「──逝くのだな、イッシキよ」
聞き慣れぬその名が、シキの真名なのだと気づく。苦しそうな息をなんとか繋ぎながら、男は虚な緑の瞳で空を見上げた。
「うん……。永かった、よ……。本当に、永かった。最後に君の、暴虐を……少しだけ邪魔できて、よかった」
「うむ。記念すべき大戦の初手で、生き残りを出してしまうとはな。万死に値するぞ。やはり貴様は、我の四天王には相応しくない」
「ふふ……それは、残念……。でも、他の四天王の皆を、大事にしてやっておくれ……。君にとって必要な、人材に、育った……はずさ」
「ふん。知らぬわ」
俺の衣服の袖をぎゅうと握りしめるキティリアが、涙を溜めた瞳で二人を見つめている。破天荒なこの女も、今は水を差すべき場面ではないと心得ているらしい。
「どこからかふらりと魔界に現れた貴様だ。ここで死んでも、また別の場所へ行くのだろうよ」
「そう、だね……。なるべく、前の世界に、帰りたいとは思ってる、けど……。孫も、小さかったし」
「貴様、一族がいたのか」
「やっと、きいてくれたね……いたよ。妻は早くに死んだけれど、息子夫妻と……かわいい、孫がね」
『!』
苦笑していたシキの目が、一瞬こちらを──俺たちを見た気がした。視えるはずがないとも、この男になら視えているかもしれないとも思う。身体からあらかた血が流れ出てしまったのか、四天王の長の顔色は悪い。
「ルーワイ……。君は、強い。その強さが、君を……孤独にする」
「ハ、最期さえ説教か」
「そうさ……。できれば、おれの力で……君に、希望を与えたかった、けれど……。それはたぶん、違うだれかの役目、なんだろう……」
魔王は静かに、もっとも旧い同胞を見下ろす。血に濡れた髪の中からそれを見上げるシキは、死を目前にしてもいつもの穏やかな声で続けた。
「君に、おれが生きていた世界を……見せたいよ。そこでならきっと、違う人生が……待っている、はずだ」
「我が果てることなどあるまい。それとも『勇者』とかいう者どもの伸び代に、期待してみるか?」
「はは、そうだね……かはっ」
褐色の顎に、濁った色をした血が伝う。魔王は黄金の瞳をわずかに細めたあと、静かに言った。
「──さらばだ、『翠翔迅雷』のシキよ。魔界の発展に尽くしたこと、褒めてつかわす」
「……ありがとう。ルーワイ」
大きな黒い背を向け、魔王は一瞬にして帰還のための漆黒の門を開く。その門が消えると同時、術を破るようにして飛び出した俺たちがシキへと駆け寄った。
「シキッ!!」
「やっぱり来ていたんだね、君たち……。そんな気が、してた」
「喋るんじゃねえ」
すぐさま杖を掲げて治癒魔術を行使するアスイールだったが、やがて水色の瞳を大きくした。杖先から、緑色の光が薄まっていく。
「なんでやめるのよ、アス! シキが死んじゃう」
「……無駄だ。『闇呑み』の残滓が、魔術を無効化してやがる」
「そういうこと、だ……。さすが、『恐怖の大魔王』は……抜かりない、ね」
「なんで笑うのよっ!!」
ぼたぼたと頬に涙を伝わせ、キティリアが叫んだ。
「もうすぐ死んじゃうのに、なんでそんなに嬉しそうなの!? あたしたちといるの、いやだったの」
「キティ……」
「シキは──シキは、ずっと……死にたかったの?」
広い胸の上に顔を伏せた女が、絞り出すような声で問う。
「そんなこと、ないさ……帰りたくは、あったけれど。君たちとの、『四天王』業務は……充実、していたよ」
「そうかよ。なら最期に、ルーワイ打倒のヒントでも置いていけ」
先ほど目にした場面が信じがたいのだろう、アスイールが固い声で言う。俺は腕組みして立ったまま──立ち尽くしたまま、その静かな声を聞いていた。
「はは、ない……ねえ。日に日に強くなるばかりだよ、彼は。お願いだから、逆鱗に触れないように、しておくれ」
「んだよ、そりゃ」
長い前髪の下で、若者の瞳が一度閉じられる。アスイールは膝の上で拳を握り、言った。
「──あんたは何者だ、シキ。城の文献は全部さらったが、あんたの特徴を兼ね備える種族はいねえ。つまり、魔族じゃない」
「……」
「だがオレと同じ『堕人』でもねえ。魔力の性質が違いすぎる。あんたは一体……どこから来たんだ?」
「!」
俺と同じく、シキも魔術師の問いの真意を汲み取ったのだろう。降参したように大きな耳つきの頭を傾け、微笑んだ。そしてまるで苦痛を忘れたかのように、妙に軽快な口調でまくし立てた。
「ばれちまっちゃあ、しょうがねえ! おれの名前は『一色 善』! 生まれも育ちも東京の、あつ湯あがりのコーヒー牛乳を何よりも愛する、生粋の江戸っ子ってなもんさ」
「……? 何言ってやがる」
「ははっ、そうなるだろうね……ごほっ」
「「シキ!」」
妙な口上が負担をかけたのか、咳き込んだ男の口元から血が伝う。しかし太い両腕が素早く、若者たちの青と桃色の頭へと伸びた。
「ああ、恐るべき──そして可愛い、おれの同胞たち!」
いつものようにぐしゃぐしゃとふたつの頭を掻き回し、牙を覗かせて笑う。
「名残惜しいけれど、いよいよさよならの時間が来たみたいだ」
「シキっ、いや……いやよぉ……っ!!」
「ふたりとも、仲良くするんだよ。『ケンカするほど仲がいい』──おれの故郷の、言葉だ」
「んだよ、そのクソみてえな、言葉はよ……」
「アスイール、キティリア。もしこの先、君たちよりも若き魔族を、世話することがあれば……いい『兄貴』や『姉貴』として……導いてあげておくれ」
「最期に申し伝えることがそれか? 本当に、あんたは……」
しばらくうつむいたままだった魔術師はゆっくり腰を上げ、すすり上げる女の腕を取って立ち上がらせた。離れていく若者たちに感謝するように笑いかけたあと、シキは視線を宙に彷徨わせながら言う。
「おやおや……? 見送りの言葉が、ひとりぶん……足りない気がするよ」
「……今さら、何も云うことはない。何百年を共にしたと思っている」
「はは、そう言わずにさ……。顔を見せてくれないか、我が友よ」
男が語りかける先には、誰もいない。俺は妙に腹が立って、わざと砂埃を立てて腐れ縁の男に近づいた。足音をききつけて長い耳がぴくりと揺れ、ようやくシキが俺を見上げる。
「君は本当に、かっこいいねえ……。孫は興味なかったけれど、日曜日の特撮番組……みたいだ」
「最期まで意味不明なことを吐かすな」
「ごめん、ごめん……」
しばらくの静寂。まわりには多くの炎の力が満ちているのに、妙に寒く感じた。手足が冷たい、とはじめて思う。
「メラゴ……。今日から四天王のリーダーは、君だ……。若者たちを、頼んだよ」
「俺はそんな柄じゃない。アスイールに任せるべきだろう」
「ううん、そんなことない、さ……。君は誰よりも、広く物事を……見ている」
ちらと若者たちを見る。驚くべきことに異存はないのか、普段は喧しい二人が揃って黙っていた。シキは掠れが強くなってきた声で、さらに要求を重ねる。
「それから……ルーワイを、恨まないで……やっておくれ。彼も、また……闇の中でもがいている、だけなんだ」
「……」
「いつか、彼が……君たちに、『仲直りの儀式』を、求めた時には……どうか、手をとって、やってほしい……」
その言葉に、いつもの『約束だ』は含まれていない。あくまで俺たちの判断に任せるつもりなのだと分かり、俺は黙った。そんな日が来るとは到底思えないが。
「さあ君に、お願いしたいのは、あとひとつ……『笑顔』だけだよ」
「……何だと?」
「君の笑顔は四百年間、見たことがない、けれど……ほら。こうすれば、簡単さ」
「!」
ゆっくりと伸びてきた震える指が、俺の両頬を探し当てる。血の匂いをまとった褐色の指が、魔力紋が浮いた頬をぐいと上に押し上げようとして滑った。
「あ、れ……。おかしいな……ほんとに、簡単なの、に」
「シキ」
「笑っておくれ、メラゴ……。君は、やさしい鬼だ……きっと、笑顔が……似合う」
俺の口角を探すように彷徨う手を掴み、静かに下ろしてやる。
そして一度深く息を吐き──『炎鬼』は生まれてはじめて、微笑んでみせた。
「この……大莫迦が」
ぎこちなかったと思う。童が見ればやはり、泣かれたかもしれない。それでもそんな俺の顔を見上げ、シキは目を細めて嬉しそうに笑い返した。
「ははっ! やっぱり、おれが思ったとおりの……ヒーロー顔だ」
「……」
「リーダーとして、いつも笑顔を絶やさない、こと──『約束』、して……くれるかい?」
俺は腐れ縁──我が親友の手を握り、笑った。
友が永い旅の途中で心配せぬようにと、なるべく声を張って。
「ああ──約束だ!」
緑色の瞳が色を失い、静かに男の瞼が落ちる。
しかしその口元に咲いた笑みはずっと、消えることはなかった。




