笑った赤鬼③
若い魔族たちが加入してからの日々は、なんとも騒がしいものだった。
「おい蝶女! てめえ、また西の湖で泳ぎやがったな!? 毒水で気絶した魔人魚どもが、わんさと城まで流れ着いてっぞ!」
「うるっさいわねえ! あたしが泳ぎたいと思ったんだからいいじゃない。今日こなした『仕事』はあんたより多いから、疲れてんのよ」
「んだと!? オレは『杖』の仕事もやってんだ、てめえと一緒にすんな!」
一見淡白そうなアスイールは実は大の負けず嫌いであり、何かとキティリアとぶつかることが多い。キティリアは素直だが魔王に負けず劣らずのわがままぶりで、実力はあるものの周りに恐れられている。
「そこまでにしろ。五月蝿い」
俺はというと、睨み合う二人の若者の頭を掴んで引き剥がすのが日常の業務となっていた。故郷での俺は族長の身ではあったが島への侵入者を排するのが主な仕事で、若者の面倒を見たことなどなかった。手を焼かされる、とはこういうことを指すのだろう。
「なんとか言ってよ、シキぃ。あたし悪くないでしょ?」
「正当な沙汰を求めるぜ。リーダー」
一方、シキは四天王の頭──あいつの故郷の言葉で、『リーダー』というらしい。今や俺たちにも謎単語は浸透してきている──として、暴れ馬である二人の若者をすっかり御していた。
「キティ、面白がって湖に鱗粉を流したのはよくないことだよ。元の水質に戻すのは、アスイールの仕事を増やすことにも繋がる。それも狙ったね?」
「ふふーん、プレゼントよ。こいつ、仕事するのがだーいすきでしょ」
「けれどそれで疲れ切り、アスイールが『杖』の仕事中に死んでしまったらどう思うんだい? 彼の役目は潜入や諜報──多くの集中と危険を伴う仕事だ」
「!」
書類仕事をしていたシキの太い首に戯れついていたキティリアが、その言葉にびくりと細い身体を強張らせる。しばし長い耳をもじもじと弄ったあと、女はちらと同年代の同僚を見た。
「それは……ちょっとだけ……イヤ、かも。気持ちよく寝れない、気がする」
「そうだろう。だから、ごめんなさいだ」
「ごめん。アス」
「お……おう」
「君は君で、言葉がキツいんだよ。言い方を少し変えれば、キティだってもっと素直になれるはずさ。君のことは気に入ってるんだから」
穏やかな顔で笑い、シキは不服そうな若者たちの頭をくしゃくしゃに撫でる。あの手にはもしや、悪しき感情を取り払う異能でも宿っているのだろうか。
「自分がいやだと思うことは、他人にもしないこと。友人ならなおさらだ。いいかい、約束だよ。さあ、じゃあ仲直りの儀式をしよう!」
「はぁーい」
「チッ、またそれかよ……」
普段は柔軟な思考の男だが、この『約束』というものを持ち出してくる時の粘り強さは異常だった。若者たちもこうなれば『儀式』をするまで解放されないことを心得ているので、頬を膨らませつつも雑な握手を交わす。
そうして言い合いながらも二人が部屋を出て行くと、俺の耳に重苦しいため息が届いた。
「……はあ」
「どうした。さすがのお前でも、子守に疲れたか」
「ううん、そうじゃないよ。彼らだってもう、四百に近い。十分に成熟したさ。この五十年ぐらいは、君の鉄拳も落ちていないしね」
黒曜石の机上に散らばった、紙の束。見慣れぬ大陸の見取り図が記されたそれらを眺め、シキはいつもの陽気さを欠いた声で続ける。
「……魔王軍を立ち上げて約四百年。今やルーワイ様は──その根源が、支配への恐怖であっても──魔界の誰もが認める王だ。数千年と続いた魔界動乱の時代はついに、終焉を迎えたと言っていいだろう」
「ああ。魔王軍の内部も、最近では落ち着いている。時折現れる魔王様への反乱分子の鎮圧は、雑務のようなものだな」
むしろ『四天王』としての仕事がなさすぎて、身体が鈍るくらいだ。そう言おうとした俺だったが、すでに四百年の付き合いとなった腐れ縁の男の顔がやけに暗いことに気づいた。
「シキ……?」
俺の勘は、誰よりも当たる。良いことも──悪いことも。
「ルーワイ様は、強欲な御方だ。そして……人間を、深く恨んでいる」
「! まさか」
「ああ。これよりおれたち魔王軍は、新たな作戦行動に移る」
今までに見たことがないほど憂いを浮かべた顔で、四天王の頭は俺を見た。
「人間を掃討し──世界の全てを、手にいれる」
*
「いやよ! なんで人間界を襲わなきゃなんないの!? 魔界は手に入ったじゃない」
「それがルーワイ様の望みだからだ。グダグダ言うな、バカ」
「あんた、元人間なんでしょ!? 何とも思わないわけ」
「……思っていようがいまいが、関係ないだろ。あの御方がやれといったら、やるまでだ」
「何それ! こういう時こそ、その賢いアタマを使いなさいよ!」
人間界への侵攻計画を耳にした若者たちの反応は概ね、俺の予想通りだった。しかし魔王軍の頂点に立つ我らが揺らいでいては、下に控える数千の魔族たちに不安と不信が広がる。
久々に鉄拳の出番かと籠手に覆われた拳を持ち上げた時、リーダーが口を開いた。
「そんなに心配しなくてもいいんだよ、二人とも。ここ数百年、おれたちは魔界内の平定に走り回っていた。その間、人間界は平和だったと言える。つまり今の世代の人間たちには、まだそう敵視はされていないはずだ」
「おい、まさか……先に和平を結べばいいと思ってやがるのか?」
「そうだよ、アス。あくまで対等に、互いの世界の繁栄を願えばいいのさ」
黒いマントを固く身体に巻きつけ、アスイールは暗い顔をして頭を振った。
「無理だな。ルーワイ様は魔界掌握の間でも、オレや他の魔族たちをつかって人間に『魔族の恐怖』を植え付けてきた。最近じゃヤツらも、『勇者』なんていう人材を育ててるらしいし」
「ゆうしゃって何?」
「まだ調査中だが、オレたちをぶっ殺すためだけに鍛えられた人間ってとこだな。人間どもは個では弱いし寿命も短ぇが、団結した力や次世代への継承力は舐めないほうがいい」
警告するように光る青い目をまっすぐに見返し、シキはうなずいた。
「それはおれもよく知っているつもりだよ。けれど魔族と人間という大規模な争いが生み出す犠牲は、今までの非じゃない。この大戦だけは絶対に止めるんだ」
「シキって相当長生きしてるのよね。こういう戦いって、昔もあったの?」
「……そうだよ、キティ」
ピンク色の頭をいつものようにぽんぽんと撫で、未だに多くの謎を抱える魔族の男は答えた。
「おれだって直接体験したわけじゃないけれど、世界を割るような大きな争いの悲惨さは伝わっているんだ。最後には、必ず……」
「シキ? 大丈夫」
「……。とにかく、おれは魔族にも人間にも平和に生きてほしいんだ。仲良くできればいつか一緒に、オリンピックだって開けるかもしれない──それがおれの夢だよ」
おりんぴっくってなあにと目を輝かせる女に、シキは意気揚々と説明する。どうやら世界中の種族が参加する祭りのことらしい。その賑やかさから逃れるようにして部屋を出ていく黒い背を見、俺は後を追った。
*
「アスイール、どこへ行く。まだ作戦会議中だぞ」
「仕事だ、『杖』のな。それから……あんたはリーダーとは知己の仲だろうから、先に言っておく」
「腐れ縁なだけだ」
「悪ィが、シキの『夢』とやらは一生叶わないぜ」
「!」
黒マントの襟に囲まれた顔は、若さよりも苦悩のあとが濃く刻まれている。四天王として俺たちと話している時以外、この男の目に光が浮かぶことはない。強力な魔術に加え人間の心や過去を掌握する『能力』を使いこなすアスイールは文字通り、魔王が決して手放すことのない『杖』だ。
「シキが人間界侵攻に反対なのは、ルーワイ様もご存知だ。だから御自ら手を下すため、出撃なさる。人間界の王都──アヴィルドにな」
「何……!? 決行はいつだ!」
「言うわけねえだろ」
これまでに魔王が降り立った地で、血の雨に晒されなかった場所はない。王都を襲ったとなれば間違いなく、今後数百年と続く大戦の幕開けになるだろう。俺も魔界へ進軍してきた人間軍と刃を交えたことがあるが、非力であれど信念の強さは感じていた。きっと戦いは泥沼化すると、直感が訴えている。
そしてその直感は、もうひとつのことを教えてくれた。俺は歩き去ろうとする男の腕を掴んで告げる。
「嘘だな、アスイール。アヴィルドに行くのはルーワイ様でなく、お前だろう?」
「! な」
「ほら、すぐに顔に出る。まだまだ若いな。そんな調子で諜報活動などこなせているのか?」
「てめェ、嵌めやがったな!」
「いいや。シキ風に言えば、これは『単純な推理だよ』というヤツだ」
長く従っているからこそわかる。あの魔王に「作戦」などというものはない。どこかを襲うと決めた次の瞬間には転移門を開くような男だ。
「和平とはいかずとも、お前は人間の王を殺さず──屈服か籠絡させるつもりなのだろう」
「……死ぬまで魔術で操り続けて、平和思考のぼんくらにしてやるだけだ」
「難しい作戦だ。成功したとしてもお前は数十年、支配魔術の負荷に囚われる。いや──まさかこの先ずっと、王族を操るつもりか? いくらお前でも」
「うるせえッ!」
俺の手を払い退け、アスイールはこちらに向き直った。細い眉を思いきり寄せ、魔族の証である牙を剥く。
「いいか、アヴィルドの王族は──人間は、魔族の話なんざ聞かねえ。あのバカ正直なのんびりリーダーがのこのこ交渉の席についた途端、囲まれて串刺しだ」
「お前の故郷だったか」
「そうだ。ヤツらが繁栄のために闇に葬ってきたものを考えると、今でも反吐が出る。だが、んなコトはもうどうだっていい。オレが守りたいのは魔界だ」
四天王がいつも集まる参謀室──シキが嬉しそうに『ミーティングルーム』などと名付けた部屋──がある方角を見、若き魔族は苦々しい表情を浮かべた。
「人間界から追放されたあと、オレはルーワイ様に忠誠を誓って魔族になった。そうでもしなきゃ死んでいた。だが、あの御方にとってオレはただの『杖』──道具だ。お前がただの『剣』であるようにな」
「……」
「だがそれ以上に、ここ二百年に渡るお前らとの付き合いにはほとほと嫌気が差してんだよ!」
さまざまな思い出を巡らせているのだろう。黒手袋に包まれた手が、わなわなと震えている。
「ちょっと顔を出せば『ご苦労様』なんて声をかけてくる! なぜかいつも飲み物とヘンな菓子が出てくる! 誰かが仕事を終えたらすぐに『おつかれさま飲み会』があるし、あいつの郷土料理とかいう『鍋』はやたら美味いのが腹立つッ!」
「魔族は食わなくても平気だが、たしかにシキが入れ込んでいる『料理』というものは興味深いな」
俺よりも立派な身体のくせに『カッポウギ』とかいう白い衣を身につけ、魔界の貧相な食物を鮮やかに変身させる四天王のリーダー。奴が気まぐれに振る舞う『お仕事おつカレー定食』は、城の魔族たちに大人気だ。
やがて握った拳を力なく下ろし、アスイールは唇を噛んで呟いた。
「オレは……オレは、四天王にいると、『氷帝』でいられなくなっちまう」
長い青髪の隙間から見える瞳に、不思議な光が浮かんでいた。俺は腕を組み、次の言葉を待つ。
「なんだかずっと……身体の真ん中が、温かいんだよ。その違和感の理由を考えた時に浮かぶのはシキとキティリア、それとムカつくがあんたの顔だ」
「……そうか」
「だからオレは、アヴィルドに行く。あの都に力ある人間が集結しつつあるのは本当だし、ルーワイ様も気づいている。いつ襲撃を仕掛けるかわからない」
「──なるほど。それは大変だね」
「!」
俺の赤髪が逆立つと同時、石造りの壁に雷の筋が伝う。一瞬で俺の前に躍り出た緑色の影が、驚きに目を丸くしたアスイールの首にトンと手刀を打ち込んだ。
「し、きッ……!」
ぐらりと傾いた黒衣の身体を受け止めてようやく、長い緑色の髪が男──シキの背にふわりと落ちる。
「重要な情報をありがとう、アスイール。君はいい子だ。できれば他の仕事を探したほうがいい。もっともどこでも君は、『ワーホリ』になっちゃいそうだけどね」
「ばか……や、ろ……」
それだけを絞り出して気を失った若者を見下ろし、四天王のリーダーはゆっくりと俺を見た。
「キティリアも眠らせてきたのか」
「さすが我が親友。安心して、彼女はおれ特製の『ぐうぐうキャンディ』を舐めて、上機嫌でお昼寝しているだけだ」
「それで今度は、俺のこともというわけか」
腰を落とし、俺は殺気を放ちながら大太刀の柄に指を這わす。
「面白い。思えば、お前とは本気で刃を交えたことはなかったな」
「あっはっは。おれが本気の君に勝てるわけないじゃないか? だから今日は『悪者』っぽく──こうしてみるのはどうかな!」
「!?」
褐色の太い腕が、ぶんと横ざまに振るわれる。そこから飛び出したのは雷ではなく、黒い物体──アスイールの身体だった。気絶したままの仲間の身体は人形のように、抵抗なく窓を突き破って外へ放り出される。
「アスイールッ!!」
「ちゃんと助けてあげておくれ。魔族とはいえ元人間の彼の身体は、おれたちの中で一番脆い。ここから落ちれば大怪我だ」
「くっ──!」
俺は床を蹴り、城壁を破壊して屋外へ飛び出した。魔王城の城壁に足跡を刻みながら、熱波を後方へ噴出させて加速する。力なく落下する若者を両腕でしっかりと確保し、浮遊魔術を行使してようやく宙に身体を固定した。
アスイールの衣は大抵の魔術を防ぐため浮遊魔術をかけられず、助けるにはこうして直接受け止めるしかない。つまりその意図は、明らかな時間稼ぎ。俺は城の上階に空いた穴を見上げ、叫んだ。
「シキッ!!」
「じゃあね、メラゴ。みんなのこと、頼んだよ」
いつもの腑抜けた顔でにこりと笑うと、翡翠色の雷光が城へと墜ちる。あまりの眩さに俺が背けた顔を戻した時には、そこに腐れ縁の男の姿はなかった。




