第30話 ヒロインだってヤケ酒する
「はああぁぁー……。もう、ほんと……何やってんだろ……」
店内の喧騒に紛れ、シンガー──花月カノンは、狭いカウンターに重苦しい声を落とした。それに応えてくれる連れは、今日はだれもいない。夜のピークタイムなだけあり、店員たちも皆忙しそうだ。
「お冷です」
「あ……。ありがとう、善太くん」
コト、と控えめな音と共に目の前に置かれたのは、爽やかな香りが立つレモン水。カウンターの向こうにいる、最近では顔馴染みとなった店員を見る。注文していないはずだが、いつもの気配りを発揮して差し入れてくれたのだろう。
ホール係から焼き場へと転向したのだろうか。黙々と焼き鳥の串を回転させている若者──たしか十八だと聞いたが、もう大人顔負けの落ち着きだ──を見、カノンは唇を尖らせた。
「今日はおひとりなんですねって、言わないんだ」
「何名様でご来店されようと、お客様ですので」
「……ごめん。なんか絡んじゃった」
「いえ」
気を悪くした様子もなく、店員は粛々と仕事を続ける。この店を訪れた時には必ずと言っていいほど接客してもらっているはずなのだが、カノンはふと不思議に思った。まるでまだ、きちんと彼の顔を知らないような──そんな気がしたのだ。
(こんな子だったんだ、善太くん)
油の匂いが充満する店内でも、その繊細な黒髪はさらさらとしている。均整が取れた細面はなんだか少し陰を感じさせるが、逆に学校の女子たちの心をさぞくすぐることだろう。気品ある優等生にも見える彼は、いずれお店を継ぐために修行しているのだと聞いている。
(しっかりしてるなあ。迷ってばかりの私とは、大違い)
ハイボールのグラスに口をつけたまま、心中ではそんな身勝手な所感を漏らす。アルコールを入れて気分を上げるつもりが、どんどんと卑屈になっていく一方だ。擦り切れた心を見透かしたように、大きな黒目が急にこちらへと向けられる。
「……今日は少し、ペースが早いのでは?」
「大丈夫。今は呑みたい気分なの。たぶん」
たぶんと言ったのは、このように店のカウンターで一人呑みをした経験がないからだ。この大都会だ、探せばいくらでもこじんまりとしたお洒落なバーは見つかる。それでもいつも通りここの暖簾をくぐってしまった自分が少し恨めしい。
「……」
焼き鳥を頬張ったまま、ちらと後方の席を見る。いつも彼と陣取る、窓際隅の掘りごたつ席。今日は見知らぬ若者たちに占拠されたその席を眺め、カノンは入店後何度めかになるため息を落とした。
「今日はおひとりなんですね。何かあったんですか」
「……い、今訊く? それ」
「訊いてほしそうでしたので」
あくまで静々と言う善太を見つめ、シンガーは奇妙な心地になった。大人である自分の悩みを高校生に相談するなど馬鹿げている。それでもなんだかこの子なら、的確な答えをもたらしてくれそうな気がした。ただの酔っ払いの、アテにならない判断だが。
「えっと……絶対、引かない? いや、引いて当然の話……なんだけど」
「たくさんの方のお話を耳にしますので、大丈夫かと」
「そ、そうだよね」
なにやら貫禄すら感じさせる若き店員の即答を信じ、カノンはジョッキの取っ手を握り締めて告白した。
「私、たぶん──好きな人が、二人いるの」
「引きますね」
「うわあああやっぱり! 善太くんの悪魔ぁ!」
クールな裏切りを糾弾すると、カウンター向こうの店員は一瞬だけ口の端を持ち上げる。
「──『悪魔』とはだいぶ、違いますね」
「え……?」
「それより、引いてほしくて言ったんじゃないですか?」
「!」
どきり、とする。彼が見せた妖しい笑顔にではなく、そのするどい言葉にだ。
「好きな人が二人いることを、あなたは後ろめたく感じている。だからそれが間違いだと、断罪してほしかったのでは?」
「それは……」
「見当違いでしたら、どうぞお気になさらず。おれは串が焼けるまで、ここに立っています」
しばらく時間があるから、話したいなら話せ──そう言っているのだろうか。どうも会話の主導権を握られている気がしたが、カノンは疑念や年上としてのプライドをすべてハイボールと共に喉へ流し込んだ。
人生初のヤケ酒をキメているのだ。怖いものなどあるものか。
「好きな人、はね……もしかしたら、バレてるかもしれないけど」
「よく一緒に来店される、金髪の方々ですね」
「わあああもうほんとに恥ずかしいんだけど! 善太くんの落武者!」
「斬新な詰り文句ですが、さらに遠ざかりました」
何やらいつもより楽しそうな様子の店員を睨む。が、カノンの視線はふたたびカウンターの木目へと落ちた。
「私より、善太くんのほうが知ってるかもしれないけど。二人は、兄弟なの。日本文化に興味があって、二人で来たんだって」
「はい」
「背の高いムキムキなほうが、お兄さん」
仕上がった逞しい身体の線を思い出すと、頬が熱くなる。けれど自分よりもずっと高い位置から見下ろしているはずなのに、彼の表情はいつも優しいものだった。
「私が困ってる時、何度も助けてくれた人でね。見た目どおりの、すごく強い人。でもいつも丁寧で、結構涙もろいとことかもあって……」
クリスマス前に、テーマパークでデート──弟の不参加により、そうなっただけだが──したことを思い出す。なんだか緊迫した様子で抱きしめられた時は、心臓が飛び出るかと思った。
『呼んでください、自分の名を』
以前のような粘着質なファンを心配してか、遅い時間になると彼はよくバイト先までカノンを迎えにきてくれた。彼との夜道は安心できたし、たまに食べるラーメンも美味しかった。駅で別れる時、いつも少し残念な気持ちを抱えていたことは秘密だ。
「私にとってのヒーロー、っていうか。あの人みたいに、いつか……人を助けられたらって思うの」
「……」
「あ、歌でだよ!? 私、運動神経終わってるから」
気恥ずかしくなってセルフフォローするも、物静かな店員の表情は揺るがない。カノンは落ち着きなくグラスの汗を指で拭いながら続けた。
「弟さんのほうは、私のシンガー活動を支えてくれる人」
「存じています。チャリティフェス出演、おめでとうございます」
「えっ、ありがとう! もしかして、ブログを……?」
「両親はもちろん、店の者は全員読者登録しています」
カウンターの奥にいる店員たちが、ぐるりとこちらに振り向いてサムズアップする。嬉しさとともに、恥ずかしさが込み上げた。酒を片手に高校生に恋愛相談をしている姿を見られたのだ、もうかっこいいシンガー像を構築するのは無理だろう。
「え、と……それでね。なんだっけ」
「兄と比べたら頼りなく見える弟のどこが好きなのか、という話です」
「頼りなくないよ!」
そんなに話題が進んでいただろうかという疑問は処理せず、カノンは握った拳をテーブルに打ちおろした。声量がハネてしまっている気がするが、ここは酔っ払いたちの巣窟。誰も気にしていない。
「彼、すごいんだから。いつも『拙者はオタクで』とか、アスさんやメラゴさんのこと『さすがイケメンは違いますなあ』とか言ってるけど! 私にとっては全然、彼だって……素敵、で」
「その先を語るには、酒が足りぬでしょう。おれからのサービスです、どうぞ」
「……もう、仕事できるなあ! いただきます!!」
絶妙なタイミングで差し入れられた徳利を掴み、カノンはぐいと煽った。甘い酒、おそらく日本酒だ。はじめて呑んだが、なかなかに美味い。カッと熱くなった喉に、ヤケ半分の勇気が灯る。
「お料理が上手で、パソコン使うのもすごくて、お部屋もいつも綺麗で。優しくて、面白くて……」
丸メガネの奥の小さな瞳も、あんぱんのような頬も、カノンにとっては決して忌むべき要素ではなかった。むしろちょっとムニムニしたいなんて思っている節さえある。本人は太っているのを気にしているようだったので、その願望を打ち明けたことはなかったが。
「私のPV編集作業をね、ずーっとやってくれるんだ。同じフレーズを何百回も聴いて、少しずついろんな数値を調整して。私だって、自分の歌をそんなにリピートしたことなんかない。それを一日中、楽しそうにやってるの」
その作業風景を、彼のベッドに腰掛けたまま見守る時間が好きだった。お互いの腹の音でお昼になったことを知り、いつも笑い合うのだ。
『はは、申し訳ござらん。あまりに至福の時間ゆえ拙者、デブ活も忘れておりました』
歩いていけるファストフード店へ行き、作業進捗を報告しながら特大バーガーを頬張ったあと、また彼は編集に没頭する。そしてカノンはやはりその作業を──作業している男の丸い横顔を眺めながら過ごすのだった。
「彼とは動画のPVがキリのいい数字を達成するごとに、ここにお祝いにきてて……」
最初はたしか、一万PVだったか。あの時の彼は、自分よりも嬉しそうな顔でビールを掲げたものだった。
『おめでとうございまする、花月殿! ようやく花月殿の歌声に、世界が追いつきはじめたということですな!』
日に日に大きくなっていく数字は、もちろん嬉しかった。けれど彼が手を叩いて喜んでくれることが、何よりもカノンの心を満たした。だから次の曲の歌詞を思いつけばすぐに形にし、メロディが乗ったその夜には彼にデータを送ったものだ。
「……今ね。新しい曲を作ってるんだけど」
カウンターの下に置いたバッグに、そっと膝が触れる。その中にある、書きかけの新曲。新曲といっても少し前から構想はあり、メロディは完成していた。歌詞が決まらないままひと月が経とうとしているそれは──はじめてのラブソングだ。
「二人の男の人が気になってる不純な女が、ラブソングだなんて……って思ったら、手が止まっちゃって」
「どうしてですか?」
「だって全然甘くならないし、ロマンチックでもないんだよ。聴いていて、辛いじゃない。失恋歌にしたいんじゃないのに」
苦笑しつつジョッキを持ったところで、カノンはぎょっとする。串から上がる煙の向こうで、若者の目が金色に輝いていたからだ。今時のカラコンは、そういう感じなのだろうか。
「それでいいのでは?」
「え……」
若者が静かにそう言うと、店内BGMのように流れる無数の話し声が遠くなる。カノンは背もたれのない椅子の上で固まり、彼を見つめた。
「甘い出来事ばかりでなくとも、それがあなたの『恋』なのでは」
「それは……」
コーヒーを飲んだわけでもないのに、口の中が苦くて痛くなる。そのとおりだった。自分は最近、親切な兄弟のどちらともひどいやり取りをしてしまった。
(憧れていた人からキスをされそうになったのに、なんで否定しちゃったんだろう)
あの駅での兄は少しいつもよりも熱っぽく大胆で、それに驚いてしまったという部分は大きい。けれど、いつかそんな関係に進めたらと思ってはいたことなのだ。なのに自分は、彼を突き飛ばして逃げてしまった。
(それに、ユノがオファーを持ってきた時も)
弟の動画編集の腕なら、いずれ業界から声がかかるのではと思っていた。そして彼が『花月カノン』の歌声を広めようとしてくれたのと同じく、チャンスがきたら自分だって彼の飛翔を願うべきだ。それはわかっている。
(……ううん。本当は)
そんな綺麗事ではない、と思う。自分が恐れ、嫉妬したことは、親身になってくれたプロデューサーを大手チームに引き抜かれることではなく──『彼』自身が、自分の元から去ってしまうということなのだ。
にこにこと笑う、丸い顔。自然とその名が、唇からこぼれ落ちた。
「牙琉くん……」
じわ、と視界が歪む。出会った日から、彼の前では泣いてばかりだ。その上、あんな薄っぺらい嘘までついて飛び出した挙句、ようやく覚悟を決めて謝りに行った先でも──素直になれなかった。
「……っ」
ユノは悪くない。彼女のカリスマは天性のものだし、運も強い。彼女のチームに入れば、牙琉は大きく羽ばたける。『推し』のカラーもきっとすぐに、ブルーからレッドへと変わるだろう。
しかし──自分は。
「それがお前にとっての、『真名』というわけか」
「?」
低い声が耳を打ち、カノンは鼻先が赤くなった情けない顔を上げた。今のは、あのかわいい高校生店員の言葉だろうか?
目を白黒させるカノンの前で、腕組みをした若者がじっとこちらを見つめる。黒い髪の下で、きらきらと金の瞳が輝いた。
「ぜ、善太くん……? なんか、キャラ変わってない」
「変わっておらん。戻しただけだ」
焼き鳥を放置しているのに、周りの店員たちは何も言わない。まるで彼と自分の空間だけが、個室になってしまったかのようだ。
「我から見ても、お前ほど不器用で面倒な人間はおらぬ。言葉で語れぬのなら、歌にして伝えるがよかろう」
「!」
「今なら書けるのではないか? お前だけの、恋歌とやらが」
不遜な言い草ながらもそれがアドバイスだと気づいた瞬間、カノンの背を電流が駆けた。バッグを引っ張り出し、ヒョウ型ロボットさながらの慌ただしさでメモ帳とペンを取り出す。
「そう……そうだよ。別に、綺麗にまとめる必要なんて、なかった!」
新しいページに、ものすごい速さで言の葉を書き連ねていく。言葉があふれて止まらない。
(やっとわかった。自分の心が)
ペンの軌跡の上に、ぽたと雫が落ちる。インクが滲んでもかまわない。今浮かんだ、この感情を──この言葉たちを忘れることはきっと、一生ない。
去年の暮れに出会った、奇妙な外国人の兄弟。
そのどちらを好きなのか、ずっとわからないでいた。
(きっと私は今でも、どちらの彼も好き。でも今、となりに座っていてほしいのは──)
肩から滑り落ちてくる黒と青の髪を鬱陶しく払いのけ、シンガーは上気した顔で言った。
「ああもう、書き留めるのが追いつかない! 小さな声にするから、歌っていい? 録音したほうが早そう」
「阿呆。ここはライブ会場ではなく、疲れた戦士皆様のための場所ぞ」
「お、仰るとおりです……。ごめんなさい」
高校生に一喝され、カノンは深々と頭を下げた。しかし視界の中にスッと差し入れられたのは、新しい徳利だ。漆黒の陶器の中、透明な水の底で煌めいているのはなんと金粉らしき粒子である。
「わ、高そうなお酒……。これ、私に?」
「祝杯だ。まことの気持ちに気づいた若人へな」
「さっきからどうしたの、その喋り方? でもありがとう。やっと良い歌が作れる気がする」
苦笑しつつ、陶器に口をつける。冷たくてまろやかな酒が唇に触れた瞬間、カノンの視界が溶けた飴のように揺らいだ。
「あ、あれ……?」
「礼を述べるには少々早いのではないか? 歌は紡ぐだけでは響かぬ。聴かせたい者の耳に入れてこそであるぞ」
引っ張られた磁石のように、黒髪頭がカウンターに沈む。まさか、飲み物に何か細工されたのか。そんなアニメみたいなことがあるのかと戸惑っているうちに、元声優のまぶたは勝手に下がっていく。思わず恨めしい声が漏れた。
「ぜ、善太くんの……大魔王ぉ……」
「!」
この手の糾弾には動じなかったはずの若者は、はじめて楽しそうな声で応じた。
「くく。褒めてつかわす」
<第3章 アニヲタ魔族と、ホントのココロ。 -完->
3章をお読みいただきありがとうございました!
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間話を挟みまして、いよいよ次が最終章となります。応援よろしくお願いします!




