ブルー・ムーン ~一杯の恋~
お酒は、あまり強くない。
だから居酒屋にしても、格式の高そうなバーにしても、どこか落ち着かなかった。
大人の世界に無理やり足を踏み入れているような、そんな居心地の悪さ。
だから──。
だから、まさか。
友人に誘われて入ったこのバーが、いつの間にか「行きつけ」になるなんて、当時の私は想像すらしていなかった。
最初の頃は、一人で来ようなんて到底思えなかった。
それでも、何度か通ううちに、少しずつそのハードルは低くなって。
震える手で、あの洒落たドアを押し開けたあの日を、今では少しだけ懐かしく感じている。
今日もまた、ほんの少しの緊張と共に、私はその扉を開ける。
静かな音楽が流れる薄暗い空間に一歩、足を踏み入れて──
無意識に、ある人の姿を探してしまう。
「いらっしゃいませ」
柔らかく響いた声に、ハッと顔を上げると──
一瞬だけ視線が絡んで、すぐに逸らされた。
そのたった一瞬が、胸の奥をじくりと痛めた。
彼の名前は──高遠 悠真
スタイルが良くて、顔立ちも綺麗で、低めの声が耳に心地いい。
それでいて、不意に見せる笑顔が、無邪気な少年のようで……。
そのギャップに、心を掴まれてしまった。
けれど、こんなにも完璧な人を、放っておく女性なんているはずもなくて。
彼の周りには、いつも綺麗なお姉さんたちがいる。
きらびやかな香水の匂いと、上品な笑い声。
自分がその輪に入ることは決してないと分かっているから、距離を取るように、私はいつも一番端のカウンターに座る。
──B型で、フルーツアレルギー。
それは、私が勇気を出して聞き出したささやかな情報。
だけど、他のお客さんがほんの数十分でそれを聞き出しているのを目の当たりにして、内心ずっしりと凹んだ。
「悠真くん、マジックやってよ〜」
「この間、習得したやつやりますね」
──え。
高遠さん、マジックなんて習得してたんだ。
知らなかった。悔しい。
また出遅れてる。
私が知っている高遠さんは、いつだってもう少し前の彼で。
彼の今を、誰かに追い越されるたび、胸がきゅっと締め付けられる。
……叶わないって、分かっているのに。
私みたいな女、相手にしてくれるわけがないのに。
それでも、好意を消すことなんてできなくて。
これは、どうしようもない片想い。
無意識に、ため息がこぼれる。
「元気ないですね」
不意に声をかけられて、ハッとして顔を上げる。
「あ……ごめんなさい……」
「ため息つくと、幸せが逃げちゃいますよ」
にこりと笑ったのは、もう一人のバーテンダーさん。
気遣うように優しく微笑みながら、カウンターの奥でシェイカーを振るその手は、とても手慣れていて安心感がある。
やがて目の前に差し出されたのは、一口サイズのティラミスだった。
「これ、どうぞ」
「ありがとうございます……」
そう言って手を伸ばした、その瞬間。
別の角度から伸びてきた指先が、その小さなデザートをさらっていく。
「──えっ?」
驚いて顔を上げれば、そこには高遠さんの姿。
手に取ったティラミスを、迷いなくポイっと自分の口の中へ放り込んだ。
そして無言のまま、私をじっと見つめる。
真顔なのに、どこか挑発的で。
その視線にどう反応していいか分からず戸惑っていると──
「店長が呼んでましたよ」
そう言って、高遠さんはバーテンダーさんに声をかけた。
彼は「失礼します」とだけ言い、軽く頭を下げて奥へと引っ込んでいった。
そのまま、カウンター越しに私の前に立つ高遠さん。
真正面に立たれると、緊張して喉が詰まりそうになる。
「……ティラミス、食べたかったです」
搾り出すように告げた私に、彼は淡々と──
「だめです」
「……え?」
「注文してないもの食べて、あとで多額の請求されたら困るでしょう?」
「……そんなお店でしたっけ?」
不満げに返すと、彼は小さくふっと笑った。
その笑顔に、緊張がほんの少しだけほぐれていく。
「あの……私も、マジック見たいです」
言葉をかけると、彼は手にしていたグラスを拭く手を止め、こちらに視線を向けた。
「……しません」
「今日、なんか塩対応ですね……」
「紗英さんとは、話したいので」
「……え?」
突き放されたと思った瞬間に、優しい声でそんな言葉を言われて。
鼓動が跳ねる。
本当にこの人は、ずるい。
「でも、やっぱり見たいです」
「いやです」
被せ気味の返答に、思わず瞬きした。
「興味ない人と話すのって、面倒くさいじゃないですか」
「へ?」
「だから紗英さんには、マジックしませんよ」
言葉の意味がうまく理解できずにいると、
彼はさっき横取りしたティラミスを、改めて私の前に置いた。
「これ、美味しいですよ」
「……さっき、盗られました」
「“誰”に出されたものを食べるか、ですよね」
「どういう……意味ですか?」
私の問いに、彼はひとつ溜め息をついた。
それから、少しだけ身を乗り出して──
まるで内緒話でもするかのように、私を手招きした。
思わず、その誘いに釣られて耳を寄せる。
そして──彼の低い声が、私の耳元でささやく。
「……特別な関係になってください」
甘く、けれど冗談のように軽やかな声だった。
驚いて勢いよく顔を上げると、彼は口元に悪戯な笑みを浮かべていて。
「他の奴に出されたやつ、食べなくてよかったですね」
彼の視線と意味深な言葉が、私の脳をぐるぐると混乱させる。
……横取りされた意味。
そして、改めて出された意味。
そのふたつの違いに気づいたとき、顔がカーッと熱くなるのが分かった。
まともに顔を見られない私を見て、彼は小さく笑う。
まるで、呆れたように。
それでも、私は思ってしまう。
こんなふうに翻弄されるのが、嬉しくて。
たとえ、それが全部──彼の掌の上でも。