三月二十三日
三月二十三日。
定時より少し遅れて仕事を終えた建築事務所一同は居酒屋へと向かった。
主役である野川拓海の、送別会。
実際にはまだ勤務日は残っていたが、ほぼやる事はない。既に引き継ぎも終わっており、後は土日二日間の休日を経て荷物を取りに来るだけだった。
「しかしさ、本当にやめるのか?」
「もう一年働こうか否か迷っていましたけど、色々学ぶ事が出来ましたので。もう迷いはありません。後は男性の方ともう少し仲良く出来ればなお良かったのですけど……」
「どうしてもね、こっちとしても二の足を踏んじゃうんだよ。少しでもなんかやるとすぐセクハラとか言われてね」
「確かに言うべき事は言うと言うのは間違いありません。しかし言わなくてもいいことまで、取り上げなくてもいいことまで取り上げてしまったゆえに反発を買い、その予想外の反発と言うより静かすぎる反抗が頭に血を登らせてしまったと思います」
学ぶため。
彼女は最初から最後まで、その姿勢を崩さなかった。仕事でもプライベートでも、自分が生まれ育って来た環境との違いを思いながらあれこれと触れている。いわゆる第三次大戦の最中に幼少期を送った事と関係があるのかはわからないが、女性だけの町の理念を叩きこまれた彼女は紛れもなく最高の素材の一つだった。
その上で、第一次大戦と呼ばれた表現規制運動の失敗の原因も理解している。
自分たちが燃え上がっている中同じよう表立って燃え上がってくれるのならばやりやすい。だがいくら燃え上がっても相手は冷静に、淡々とそれが利益にならないと言う事実を突き付けて来るだけ。その結果やだやだと駄々をこねているだけの存在とそれを理性的にたしなめる存在と言う構図が出来てしまい、それでも感情に任せ押し切ろうとしていた最中に感情に打ちのめされた一人の存在の登場により形勢は傾き戦いの帰趨ははっきりしてしまった。
もし女性だけの町の住民が全部野上のようだったら女性だけの町は文字通りのユートピアであり、と言うか女性だけの町そのものが不要だ。
もちろんそんな訳はないから未だ人類は女性だけの町を必要とし、存在しているし創設もされている。男と女どちらが女性だけの町を作らせたのかと言う問題の答えは永遠に出ないが、それでも一己の「野上拓海」と言う人間の価値はかなり高い事だけは確実だった。そんな元から価値のある存在がさらに自分の価値を磨かんと動けば、あっという間に差は広がって行った。
「無礼講とか言った所で平等に振舞うのがこういう場のマナーですから」
「もてなす側がもてなされる側に尽くすのは礼儀と言うか欲望だから、ねえ……」
その送別会においても拓海は決して自分勝手に料理や酒を流し込む事もなく、出席者に酌をしたりされ返したりしていた。和賀は次々と酒を注ぐが野川は決して過剰に飲む事はなくその場にいた全員に平等に挨拶をする。もてなす側からしてみれば面白くないかもしれないが、相手がそれを是としている以上しょうがなかった。
「いずれは男性とも本当に仲良くなれる日が来るのでしょうか」
「あなたならすぐにでもなれそうですけど」
「私だけがなってもしょうがないのです。何より私だって、いわゆるアングラ施設に通ってた事もありますし」
「ストレスを抱えなきゃ嘘だよね」
美少女キャラをサンドバッグにして殴りつけるようなアングラ施設が外の世界で言う所の何に相当するかはわからない。だが何に相当するとしても、後ろ暗さからは逃れる事の出来ないそれである。
だがその後ろ暗さを感じるには拓海はあまりにも明るく、あまりにもすがすがしい。
唐揚げに勝手にレモンをかけられても、その唐揚げを二人前平らげても、野川巧は野川拓海でしかなかった。
酒で酔い潰したら皮の下の本当の野川拓海が見られるんじゃないかと言う邪な好奇心を抱いていた人間さえも、その皮から「野川拓海」しか出て来ない事を理解するのは、一年と言う月日は十分だった。
午後九時。送別会は予定時刻通りに終わり、メンバーがそれぞれ帰って行く。
「でもこれで、今度の月曜日だけかぁ……」
「そうですね、とりあえずありがとうございました」
「ああそうそう、どうせ明日も休みだし私ちょっと野川さんちに一緒に行ってみたいなって、って言うか一度も行った事なかったし」
そんな中梶原保美は、今日の主役の家への訪問を願い出た。
梶原保美だけでなく糸川久太郎も和賀正美も高田康江も一度も行った事のない、彼女の家。
「いやでも、それって名残惜しくなるから」
「大した物もありませんけど」
「そうよそうよ、迷惑がってるじゃない!」
「別に迷惑じゃありませんけど」
「でもさ、その、野川さんそんなに遠慮しなくても」
実際和賀もそれなりに興味があったはずなのに、なぜか梶原及び高田の同行を止めようとする。
「いやでもさ、ぶっちゃけた話野川さんって二十六日に正式に退社する訳だけどいつまでこっちにいるの」
「今月いっぱいは」
「ほらほら、これ以上面倒かけちゃダメだって。まだ時間はあるんだから」
「うーん…でも私は行きたいんだけど、私んちはここからでも徒歩十五分ですし」
「そう……ごめんね野川さん、梶原さんがどうしても行きたくて行きたくてしょうがないみたいだから」
「あの、大変申し訳ありません……」
「和賀さんも」
「梶原さん……野川さんに甘えちゃ駄目よ……」
「ああごめんなさい野川さん、また別の日にって事で。和賀さんがどうしても駄目みたいで」
「いや駄目とは言ってないの、今日じゃなくてもいいんじゃないかなって、ただそれだけなの。ね、二人ともどうか聞き分けてくれない、お願いだから!」
「わかりました……本当ごめんなさいね、一年近くあったはずなのにサボっちゃって」
「ああ全く…本当、あの二人の教育はちゃんとしておくから、じゃあね……」
結局頭を下げるどころか土下座しそうになる和賀に押し切られて二人とも諦めたものの、清々しかった送別会の後にしては空気が湿っぽくなってしまった。
その空気から梶原と高田が逃げるように去ると和賀は聞き分けのない後輩に向かって舌打ちし、和賀に向かって後輩のわがままを詫びながら背中を見送った。
そして中古のスマホを取り出し、三人と違う方向に向かって歩き、そのまま消えた。




